もう死んでもいいかもしれない、と思った。もう死んでもいい。誰かが言ったわけでもなく、私の内側が呟く。もう死んでもいい。それはなにも幸せなときにだけ使われる言葉じゃない。
目が覚めた。心臓に飛び起こされるまま、体をベッドから引き剥がす。のばした髪がだらんと顔に垂れた。肩が息に合わせて大げさに上下する。部屋は暗く、明かりひとつ残っていない。窓辺のカーテンも黒く、目につくものは全てに色がない。夜だ。手探りで携帯を探す。何かを見なければと、思うより先に体が動く。体のほうが何かを手繰り寄せたいようだ。充電器に繋がれたままの携帯を力尽くで引っ張ると、ちぎれるみたいにコードが抜ける。反動で、腕の中に軽々と携帯がおさまった。昨日の夜から1日中寝てしまったのだろうかと不安に思ったけれど、時計はまだ午前4時を指している。杞憂だった。寝覚めが悪い。ただひたすらそう思った。
中学からのびる海岸線沿いの通学路は、殆どの生徒が毎日利用している。通学路を挟んで堤防があって、その向こうは砂浜だ。そして砂浜の奥はずっと長く海が続いている。コンクリートでしっかりと固められた足場に、靴を擦る。ざらざらとした表面とシューズの裏側が重なり、噛み合う形となる。土の上と違い、何だか堅固だけれど、軽い感触。海から唸るような強い風が吹いた。横目を使うと、天根も私と同じく堤防に並んで、海の向こうに視線を縫われているようだった。日はすっかり赤みを増し、私達の目線の高さまで傾いてきている。
横から見る天根は、本当にどこかの綺麗なハーフみたいで、すっと高い鼻や彫りの深い目元を影が隅までかたどっている。真っ赤な夕日を浴び、その赤毛は更にごうごうと燃えさかっていた。風を受けても形を崩すことなく、その顔立ちの良さを際立たせている。こんな印象的な髪形でさえも、天根の整った顔の前ではあまり存在を主張しすぎない。
「なあ、あの向こうって何があると思う」
地平線に少し、太陽の足がつく。真っ直ぐな目がこちらを捉え、私の足は体と同じく棒立ちのまま動かない。
「島の話?」
「いや、ロマンの話」
「えー、なにそれ」
「男の夢だろ」
堤防に腰を下ろした天根が、小さく自分の方へ手招きをする。相変わらず無表情なその顔からは、何を考えているのか読み取ることはできない。並んで座ると、立っている時より目線の高さがだいぶ近付くようだった。微かに混じるワックスの匂い。学校にいるときより不思議と口数も互いに減っていた。天根が海に向かって足を投げ出す。私も真似するように足を伸ばして、小さくため息をついた。心臓が落ち着かないと、体の端が痺れるのだと知っている。
「ダビデ、どっか行きたいの」
「なんで?」
「さっきなんか言ってたから」
「あー…」
ちょっと誘ってるみたいな含み方になってしまっただろうか。言い終えて少し後悔する。ごまかすように前髪を手で揃え、息をついた。天根はまた何か考えているようで、顎に手を添えてあさっての方向を見ている。大人びているのに、仕草はまだ中学生らしい。
「…祭り行こう」
「え、なに?」
まつり、と、なぞる様にまた呟かれる。脈絡なく出てきた言葉に一瞬なんのことだか分からなかった。天根がこちらへ顔を向けてきたから、自然と視線も絡み合ってしまう。教室の中じゃなく、外で見る天根は、びっくりするくらい範囲気が違っている。大人っぽい、とも違う、背中のあたりがむず痒くなる感じ。赤く燃える背景に、天根のよく日に焼けた肌が馴染む。
「えっと…」
「いや、やっぱナシで」
「な、なにそれ」
「悪い。なんでもない」
答えを待たず、天根は左手で私を制した。忘れて、なんて言われてしまうと、私としてもどうしていいかわからない。互いに困惑したような顔で、視線を徐々に外していく。言われた私が困るのは分かるものの、天根までそんな反応をみせるのは少しずるい。海面では夕焼けが粒となってさざめいていており、空の端から夜も顔を出し始めていた。そろそろ帰らなければならない。私が腰を上げれば、天根もそれに合わせて大きな体を起こす。どちらからともなく、帰ろう、と言って、堤防を離れた。
帰り道に人の姿はあまりない。犬の散歩をしているおじいちゃんや、塾帰りの子供は何人か通り過ぎていったけれど、幸いなことに顔見知りとは鉢合わせることはなかった。暗がりに点在する頼りない街灯を、ひとつひとつ辿るように歩く。夜といってもまだ薄く空は明るい。2年生、夏の終わり。横に並ぶ天根も、私と同じで黙ったままだ。
住宅街に入ると、あちこちから夜ご飯の支度をする音が聞こえだした。結構遅くまで天根と一緒にいたんだと思うものの、話した内容は、あんまり覚えていない。音の減った夜の道に、ふたりの足音は浮いている。きっと、また明日学校で会ったときにはいつもと変わらず、友達のままで話せるはずだろう。帰り道の途中で、天根は口を開いた。
「あ、あのさ」
「ん?」
「やっぱ、行こうぜ、祭り」
足が止まる。聞き間違いかと思って振り返ったけれど、どうやら本当に言ったらしく、何かを隠すようにその口元を手で覆っていた。私の視線を避け、天根は下ばかり見てる。ごまかすのが下手なのはふたりとも似ているかもしれない。
「まだやってるのかな」
「…探せばあるんじゃね、多分」
「えっ、知らずに言ったの」
「あー、その、なんだ」
困ったような顔を互いにするけれど、私達の頬は緩んでいた。小さく笑い合って、空気を探っている。心臓に悪くも、どこか心地良い雰囲気。
「手、繋ごう」
天根が大きな手を差し出してきた。その手と、天根の顔を交互に見る。気恥ずかしそうにしているのが丸分かりで、私の方も、つられて額に汗が滲む。あんまり間を置くのも悪いと思い、恐る恐る片方の手を、天根の手の上に重ねた。私の手を受けて、しっかりとした指が優しく絡んでくる。日もすっかり落ち、街灯の弱い明かりだけが道に浮かぶ。狭い住宅街の中、車もほとんど通らない。またお互いに黙ってしまい、そのまま家の近くまで、ただ照れくさい空気を共有したままひたすら歩いた。傍から見たら、ふたりとも挙動不審だったに違いない。大きな、ごつごつした手。私のものよりふた周りほど大きくて、まめがよくできているのか、皮膚が厚い手だった。
寝覚めが悪い、と思う。
指先は冷たいのに、手のひらには汗が薄く滲んでいる。再び携帯を見ると、さっきは感じることなく済ませた白く尖った光が、今度は両目にしっかりと刺さってきた。もう会うことも声を聞くこともなくなっていたその姿が、徐々に脳の奥から、こちらへ引きずり出されてくる。夢に出てきた天根は驚くほどにリアルで、当時の潮風の匂いや手の温度まで、自然と呼び起こされてしまうほどだった。あの頃に比べて住まいもかわり、環境もかわった。全部かわって、天根と繋がりのあるものは手元に一切残っていなかった。視線を落とすと、宛先に、天根へと入れてあるメールがひとつ。アドレスはない。それもとうの昔に消してしまっている。送れないメールをまたボックスに入れて、深く息をついた。未送信が増えていく度、私の足はずるずると穴に落ちていきそうだった。黒塗りされた部屋の中、天井を仰いで耳を澄ませる。
時計を見た。午前5時。このまま寝ないで仕事に行くんだろう、と思う。いつも通りの時間に家を出ていつも通り会社へ向かう。私の生活はすべてがそれだ。人がなだれ込む電車を思い出して、そっと目を閉じる。人の波。どこまでも続く黒い塊。会社へ行き、作られた仕事を夜までこなして、ただ家に帰る。中学生のあの頃とは違い、安定はしているけれど代わり映えも特にない生活。あの夢は中学の頃に、天根に未練があるから、いつまでもぶり返してくるのだろうか。わからない。携帯をベッドに放り投げ、考えることもやめる。現実に自分を引き寄せる。きっと夏が終わればこんな夢もみなくなることだろう。
深く息をした。瞼の裏に、あの赤毛が浮かぶ。夕日に映える赤毛。死んでもいいかもしれない。もう死んでもいい。わけもなくそう思った。