この年代の私達にとって、先生というものは大体ふたつに分けられる。少し距離のある近寄りがたいタイプか、親しみやすい先輩のようなタイプか。近寄りがたいタイプの先生はその名の通り勉強に厳しく、容赦もあまりしてはくれない。親しみやすい先輩タイプの先生は、誰にでも分け隔てなく笑顔で接して、生徒のくだらない冗談にも簡単に乗ってくれる。私達のクラスの数学を受け持つ中谷先生が、そのどちらかと問われれば誰に聞いても後者に違いない。いたずらっ子のような笑みを浮かべ、巧みに授業を進めてくれる、歳も若くて生徒に人気のある先生だ。男子にも勿論好かれているけれど、特に女子生徒からの人気は高かった。
「んじゃ、ここ分かる人?」
「あ、はーい!」
「おお、いい返事ー」
「先生俺も!」
「まあ待て、後で当ててやるから」
今日も中谷先生の授業は笑い声が絶えない。別の授業だと普段の皆はあまり手を挙げたがらないのに、先生の雰囲気のおかげなのか数学の時間だけはそういうこともなかった。苦手だと元々思っていた数学だが、最近では少しずつやる気が湧いてきていた。去年も中谷先生が教科担任だったらよかったのにと感じるほど。授業の山場を越え、先生が「少し早いけど今日はここまでな」と、腕時計を見ながら終わりを告げる。あと10分もしないうちにチャイムが鳴る時間。残りの時間で自習なり何なりしても良いと言う。こっそり英語の宿題でもしようかと、私は机の中にそっと手を伸ばした。
「先生、彼女いんのー」
とある男子が声を上げた。彼女という言葉が出て、皆の視線が先生に向く。教師の中でも特に歳の近い先生だからか、こういう話題が躊躇わずに飛び出してくることも多い。小さく色めきだった声があちこちから漏れてくる。先生は、恥ずかしそうに頬を掻いていた。
「彼女なんていねーよっ」
「えー!嘘だ」
「先生ごまかしてるー」
「あー、もう。お前らなあ」
他のクラスはまだ授業で静まり返っているだろうに、自分達の教室はそれに反するように異質な柔らかい空気で満たされていた。先生が「もっと実のある質問しろっ」と笑って怒るものだから、更に教室は笑い声で包まれる。私もなんだかおかしく思い、つい手を止めて笑みをこぼしてしまった。後で他のクラスの先生から注意されるかもしれないけど、中谷先生はそれもネタにしてしまうだろう。数学の授業があった日の昼休みは、必ず中谷先生の話でもちきりになる。
「先生に彼女いたら泣くよねー」
友達が、弁当をつつきながら話題を振ってきた。周りにいたほかの子達も、それに頷いて大きく同意する。昼休みになり、案の定話は中谷先生の方向へとシフトしていく。たっぷりとした時間に華やぐ話題はつきものだ。別のグループでもきっとそれは同じことで、女の子達はファンのように先生のことを楽しげに口にする。若い男の先生というだけで注目されるのに、中谷先生はそこに親しみやすさがプラスされるから、人気が出るのは当然といえば当然だった。
「今度彼女いるか聞いてこようよ」
「答えてくれるかなー」
「でもあんまり聞くのも怖いよねー」
私はただお弁当を食べながら、愉快そうに話を続ける彼女らをそっと眺めた。やり取りを聞いている分には面白いのだけれど、今ひとつ先生に対して熱が薄いせいか、うまくその話に乗ることができないでいる。恋愛の話で盛り上がる彼女達の向こうで、男子の際限ない笑い声が大きく響いていた。昼休みの空気はまさに混沌としていて、あちらこちらで話に花が咲いている。
「なまえもそう思うでしょ?」
「えっ。あ、うん」
「遠足の時とか、話しかけてみたいよね」
「…中谷先生?」
「そうそう」
急に視線を向けられて、一瞬言葉に詰まってしまう。友達はきっと、私がどこか別なところに意識を飛ばしていたことに気がついていたのだろう。苦笑いを浮かべる私をじいっと見つめ、またぼやっとしてたでしょ、と軽く非難めいた風に言った。図星である。
皆お弁当を食べ終えて、それぞれ歯磨きやトイレに行くために、続々と席を立っていく。私も空の弁当箱をカバンに片付け、いっぱいになったお腹を持て余すように席で一息ついた。私も中谷先生のことを好きだったら話も盛り上げられたのにな、と、どうしようもないことを考える。
確かに最近の私は、ぼんやりしすぎているような気がしてならない。自分で思うならまだしも、友達に何度も注意されるようでは、あからさまに様子に出てしまっているんだろう。額を手で押さえ、小さくため息をこぼした。午後からの授業がこれからある。また意識をふらふらとさせているようであれば、今度こそ先生の誰かに怒られるかもしれない。
実力テストを終え、学校行事のカレンダーが次に迎えるのは遠足だった。遠足といっても、バスで大きな公園へ向かって自然の中を散策をしたり、近くにある美術展に軽く足を伸ばしたりする程度のものらしい。さすがに高校生にもなって遠足というのはどうなんだろうと思うけれど、学校側はこれを機にクラス内の親睦を深めてもらおうと考えているようだ。去年の春に同じような行事があった際、ある程度周りと距離を縮めることができたから確かにその考えは功を奏しているんだろう。
学校指定の少し地味めなジャージに身を包み、荷物を持って朝早くからバスに乗り込む。学校が借りるようなバスは、普段街を走っているのとは違い、通路も狭く座席がきっちりと区分けされている。大抵いちばん後ろの大きな座席を占拠するのは目立つキャラの男子だと思うが、このクラスはどうやら女子のほうが気が強いらしい。女子の中でも特に元気のある子達が後方を大きく陣取る形となった。私は少し前の方のシートに、友達と並んで座る。
皆が座り終えるまで、自然公園ってどんなところだろうとか、向こうに行ってすることがあるだろうかとか、そんな他愛もない定番の会話を友達と交わした。彼女は指定ジャージに不満があるらしく、「こんな格好外の人にあんまり見られたくない」と、最後まで唇を尖らせていた。幸い今回向かう先は人で賑わうような場所でないため、そのような心配も必要ないのだけれど、彼女の気持ちも分からなくもなかった。
「点呼確認も終えたため、このまま出発する。何か忘れ物などはないか?」
バスの入口付近の通路に、ジャージを着た手塚先生が立っていた。よく通る声が空気を強くひと撫でし、皆の背筋を自然に整えさせる。先生の前で皆緊張しているのか、ありませーん!なんて調子の良い弾んだ返事は誰も返さない。何も言わず首を横に振る私達を見て先生も察してくれたらしく、程なくして、バスの運転手さんに出発の声をかける。
バスがだんだんと動き出し、校舎から離れていく。小さくなるそれを見届けてから、静かだった周りの皆も少しずつ口数を増やしていった。あまりうるさくなければ問題もないようで、手塚先生は、ただ静かに運転席そばの席に座ったままだった。
「こういうとき、手塚先生って何考えてるんだろうね」
横に座る友達が、茶化すように小さく呟いた。周りには聞こえないぐらいの声。それを聞いて、私は再び先生の方へ視線を向ける。ずっと前を向いたまま動かない頭だけが、シートの隙間から見えた。先生がどんな顔をしているのか、前から見なくても簡単に想像がついてしまう。
「…なんで?」
「だってさ、すごーく真面目な先生なわけじゃん。生徒と大はしゃぎする人でもないし。退屈なんじゃないかなって」
「あー。まあ、そうだね」
友達の言葉は、確かにその通りだと思うほど説得力のあるものだった。普段の先生の行動を見ていれば、彼女のように思うのも無理はない。真面目で、規律に厳しくて、少し堅い先生。遠足みたいに遊びに特化した行事のとき、何を考えているのか私もちょっとだけ気になってしまう。相変わらず微動だにしないその姿を、私は妙な気持ちで見つめていた。
「中谷先生のクラスはどんな感じかなあ」
「え、なに?」
「ほら、7組のことだよ。バスの中も騒がしくなってそうじゃない?」
「ああ、」
あっちもあっちで、普段の授業の様子から受け持っている生徒達が今どんな風に過ごしているのか容易に考えつく。どうしてこう対照的なんだろう、と思うほど、ふたりの先生はタイプが違っていた。歳もそれほど離れていないはずなのに、手塚先生の方が更にぐっと大人びて見える。先生はいつも無表情だった。それもまた大人っぽさを強調させているのかもしれない。
「まあ、手塚先生がテンション上げてはしゃいでる姿は、あんまり見たくないけどね」
友達の放った冗談に、私は思わず噴き出しそうになってしまう。
バスが走ること1時間と少し。着いた先は山の麓の大きな駐車場で、ようやくバスから開放されることとなった。そこから若干歩かなければならないという話があり、既にくたくたになっている私達は、一様に眉を顰める。自然公園は小高い山の上にあり、青々とした木々が道に沿うように生え、登るという表現はしないまでも、そこそこ力を入れて進まなければならないような立地をしていた。遊歩道を歩きながら森林浴を楽しめる、といった感じを醸し出している。思っていた以上にそこは自然に囲まれていて、バスから降りた生徒は皆目を見張り、先程とうってかわって感嘆の声を漏らした。
「これより説明に入る。男女それぞれ3列となり、話を聞くように」
1学年の生徒が一堂に会すると、やはりそれなりの人数がある。駐車場から少し離れた平地で、先生方の短いようで長い説明がつらつらと始まりだした。といってもまだこれは遊歩道を歩く際の注意だけで、自然公園に着いたときにもまだ長い話が続くのだろうと簡単に予想できる。
春の終わり頃だからか、風もまだ完全には暖かくなっていなかった。標高が高いこともあり、むしろ肌寒いと思えるような季節だ。想像していた遠足よりずっと遠足らしく、帰る頃には疲弊しきっていることだろう。普段から体力をつけておくべきだったかな、と少しだけ考える。
説明も終わり、クラスごとに大体の塊を作って、遊歩道を歩き出す。進むたびに、大きく伸びる立派な木の葉が道に日差しを透かしていった。
「こりゃー山登りみたいなもんね…」
横を歩く友達が、げんなりとした表情でぼそっと言葉をこぼす。出発開始直後は生徒の皆も勇ましく進んでいたけれど、どんどん時間が経つに連れて、びっくりするくらい口数も減っていった。かくいう私も、表には出していないだけで、足を止めてしまおうかと何度も思うほど疲れ切っていた。
「そうだねえ、長いね…」
「こういうとき、中谷先生が手を引っ張ってくれたらなあ…!」
「えっ、それはちょっと…あはは」
疲れてはいるものの、森の中を歩いているせいか、呼吸は全然苦しくなかった。澄んだ空気が体を満たすと、不思議と心も落ち着いてきて「あともう少しいけるかも」、と何気なく思わせてしまうらしい。最初は肌寒いと思っていた風も、今は心地よく前髪を揺らしている。
ふと周りに視線をずらすと、斜め前に、息も切らさずに悠然と歩いている手塚先生の姿があった。しゃんと体を伸ばして、綺麗に遊歩道を進んでいる。
「せ、先生…」
なぜか、話しかけてしまった。言ってすぐ、まずい!と思ったけれど、手塚先生は既に気づいてしまっている。真っ直ぐ視線がかち合って、冷静な瞳が私の方へ向いた。そして、少しペースを落とし、横並びになるように前から下ってくる。
「どうした、みょうじ」
「あ、いえ、その」
「辛いのか?」
「そ、そういうわけではないんですけど…」
どうして話しかけてしまったのだろう、なんて後悔するも、もう遅い。手塚先生が近づいてきたことで、私の背中に冷や汗が伝う。さっきまでは温まっていた指先もすっかり冷えて縮こまっていた。口ごもる私を見て先生もさすがに思うところがあったのか、「…何かあったのか?」と少し声に懸念の意を滲ませて、ますます眉を顰めてみせる。
「手塚先生、あとどれくらいあるんですか!」
すると、反対側を歩いていた友達が勘弁してと言わんばかりの声を、いいタイミングで上げてくれた。
「そ、そうです。あとどれくらいですか?」
私もそれに便乗するように、明るく先生に話しかける。深刻なことなんて何もないと態度で見せてみれば、手塚先生は少しだけ眉のひそめ具合を弱めてくれた。ジャージの袖から腕時計を覗かせ、時間を確認している。綺麗な手だ。
「…あと15分ほどだろう」
「よかった!もう少しで終わるんですね…!」
「せ、先生。ありがとうございます」
ふたりでお礼を言うと、やっぱり手塚先生は無表情のまま「ああ」とだけ答える。こんなに間近で見たのは少し前に教室で話して以来だけれど、変わらず整った顔をしていた。緊張で視線も合わせ続けられないが、とりあえず、話をうまいこと方向転換させることができて心の底からほっとする。
「…今更かもしれないが、山歩きのコツは体を真っ直ぐ一直線に保ち、小さい歩幅で歩くことだ」
「え?」
手塚先生が、落ち着き払った声で呟く。私も友達も、その意外な話に驚いてしまったせいか、ただ目を丸くして先生の方を向くことしかできない。なにせ、先生から学校や授業以外に関する話など今まで聞いたことがなく、これが初めてのことだったから、混乱するのも仕方なかった。
「お前達のように、大きく足だけを使って歩くと余計に疲れてしまう。気をつけるように」
「へえ…」
「なーるほど…」
子供みたいに口をぽかんと開け、ふたり揃って感心してしまう。相当間抜けな顔をしていた気もするが、手塚先生はまた顔色ひとつかえずに頷くだけだった。先生、普段からこういうことをしているのだろうか。ぼんやりと考えて、すぐに視線を足元へ落とした。痺れそうになっていた指先が微かに温かくなっている。
「無理はするな」
よく通る優しい声が、耳に届く。そして、別の生徒に呼ばれた手塚先生は結局そっちの方へ行ってしまうこととなった。遠くなっていくその後ろ姿を、私が複雑な気持ちで見つめていたことなんて誰も分からない。自分でもまだよく分かってはいなかった。
この年代の私達にとって、先生というものは大体ふたつに分けられる。少し距離のある近寄りがたいタイプか、親しみやすい先輩のようなタイプか。近寄りがたいタイプの先生はその名の通り勉強に厳しく、容赦もあまりしてはくれない。親しみやすい先輩タイプの先生は、誰にでも分け隔てなく笑顔で接して、生徒のくだらない冗談にも簡単に乗ってくれる。私達のクラスの担任の手塚先生が、そのどちらかと問われれば誰に聞いても前者に違いない。
私は、親しみやすい中谷先生より、とっつきにくい手塚先生のことをもっとよく知りたいと、なぜだか思ってしまうのだった。