季節はだんだんと、初夏に近寄り始めていた。咲き乱れていた桜もすっかり花びらを散らし、窓の外で青々とした葉を抱えだしている。肌寒さを朝と夜にほんの少し残して、日中は暖かみを増す。行事という行事も特にない、とても穏やかなゆっくりとした季節。今となっては少し前の緊張感も嘘みたいに、クラス内での関係もだんだんと安定してきている。相変わらず私はぼやっとしていることが多く、友達に心配されるのはしょっちゅうのことだった。まさに中弛みだと、自分でもそう思う。
「何をしている」
そんな生徒の油断しきった態度を見透かしているかのように、先生達は注意の手を少しも緩めない。急に授業とは離れた発言が出てきて、私はハッと顔を上げた。ただでさえ消極的な空気になっている教室が、ますます大人しく静まり返る。教科書を抱えた手塚先生が黒板ではなくこちらを振り返り、鋭い視線をまっすぐ向けてきていた。そして、教卓から降りて、私のすぐ近くの男子の席まで距離を詰めてくる。そばに先生が来たことで、私はより一層体を固まらせた。自然と息を潜めてしまう。
「…携帯は没収だ。放課後に話がある」
「は、はい。すみません…」
先生の低い声がまたさらに空気を張り詰めさせ、周りの生徒達も無意識に姿勢を正す。たとえ怒鳴るような注意の仕方ではなくとも、やはり誰かが怒られているところに居合わせると心臓に悪い。こわごわとふたりの話に耳をそばだてて、自分が叱られなくてよかったと、ひどいことを考えてしまった。その男子はどうやら授業中にも関わらず、携帯を触っていたらしい。よりにもよって世界史の授業でそうするとは、なんて肝が据わっているんだろう。こんな風に生徒を叱ることも、手塚先生の場合だとそれほど珍しくはなかった。
「皆も気を緩め過ぎないよう、しっかりと意識して過ごすように」
注意を終え、先生は教卓へと戻っていく。先生がすぐ横を通った時、私はつい避けるように俯いてしまった。どうしてかはわからないが、悪いことをしてしまったような妙な焦りがあった。元々苦手だと感じていたからそのせいも大きいかもしれない。
先生がいなくなると、やはり教室は段違いに騒がしくなる。その姿を見送ってから、クラスメイト達は一様にゆるゆると姿勢を崩していった。ほんの少しの間を置けば、廊下にまで広がるくらいの喧騒となっていく。ざわつく空気の中、先程までの緊張が足元から抜けていくような気がした。背もたれにゆっくりと背中を預け、ふうと細い溜息をつく。次の授業までの小さな10分は、ささやかな息抜きの時間だ。
「さっきはヒヤヒヤしたねー」
そんなだらりと気の抜けた私のもとに、友達が苦笑いを浮かべながら近づいてくる。例の男子には聞こえないように配慮しているのか、声は少し小さめだ。
「携帯の?」
「そうそう、割りと見逃してくれる先生もいるけど、手塚先生は容赦ないから」
「…確かに、容赦はないかも」
目の前で揺れる彼女のスカートも、今では校則に合わせて長くなっている。つい少し前まで見えていた膝頭は、ほとんど隠れてしまっていた。手塚先生に注意されて、私の知らないうちに改造をやめていたらしい。そんな彼女の言葉だと、より説得力があるように感じてしまう。手塚先生は容赦がない、と。
「男子にも女子にも厳しいし」
「うん、そんな感じ」
「まだ怒られたことないんだっけ?」
「あー、そうだね。今のところは」
こっそりと、机の中に忍ばせていた携帯に手を伸ばし、指先で形をなぞる。それはひんやりと冷たく、ただじっとそこに横たわっているだけだった。もし私の携帯もなにかしらの理由で見つかっていたら、さっきの授業のときみたく、静かに怒られただろうか。あの視線が自分に刺さる想像をして、思わず身震いしてしまう。ただでさえ凄みがあるのに、叱られでもしたらたまらない。先生は、生徒に対してもそうだけど、自分に対しても厳しい人のように思える。噂に違わず、伝え聞いたそのままの性格をしていた。
「なまえは、手塚先生のこと嫌いだもんね」
「え、」
「…あれ、違った?」
「ち、違うよ。そんなわけない、」
その言葉に、一瞬思考が止まってしまう。ただ当たり前のことを言っただけ、という表情をして友達は私の顔を見つめていた。携帯に触れていた指がつるりと表面から滑り落ちる。ごめんごめん、と友達はあまり悪びれる様子も見せず、顔の前で小さく手を合わせた。ごまかすように曖昧に笑顔を作って否定をしたけれど、傍から見れば、私はそんな風に見えているのだろうか。
女子の輪の中で噂話をすることは嫌いではない。むしろ自分の知らない世界に触れることができて、惹きつけられる瞬間も多々あった。彼女達の未知の体験談は、雑誌に書かれたものやテレビに出てくるものよりずっとずっとリアリティがあって、不思議と胸を落ち着かなくさせる。残念なのが、今の私はそれを提供できる側ではないということ。人並みに誰かを好きになった経験はあるし、嬉しいことに、好きになってもらえたこともある。ただ高校生になった今、クラスの男子で誰がいいかとか、○○くんがかっこいいとか、そういった話を自分からするより、友達から聞かせてもらうほうが楽しい気がしてしまう。
噂話はどこから生まれてきているのか全く読めないくらい、色んなところで顔を出す。もちろん恋愛だけでなく、とんでもない話から、小さく細々したものまで様々だ。特に昼休みは、色んな話題の交換会となる。お弁当をつつきながら、私はいつも通り友達の話に耳を傾けた。今日はとあるカッブルの噂に始まり、誰々があの子のことを好きとか、古文の小テストの大問2が予想以上に難しかったとか、英語の矢田先生がちょっとした裏話を教えてくれたとか、そういったごくありふれた会話にまで話題は流れていく。
「そういえばさあ、今週二者面談あるって言ってなかったっけ」
誰かがそう呟くと、周りの子も口々に「あー!言ってたかも」と大きく反応を見せる。二者面談のことを、私もすっかり忘れてしまっていた。確か先々週配られたプリントに順番が載っていたはずだったけれど、今手元にあっただろうか。机の中からファイルを取り出して、二者面談と書かれたプリントを探す。薄い紙を引っ張ると、ずらりと並んだ予定の表が目に入った。
「あ、見せて見せて」
「いいよー」
「うわ、私明日だ、どうしよ」
広げられたプリントを前に、皆それぞれ自分の名前をゆっくり辿っていく。放課後に面談の時間が設けられて、大体1日に5人くらいのペースで行われるらしい。面談と言っても、受験についての考えやクラスでの様子に関する話をするだけで、そこまで大したものではなさそうだ。
「しかも手塚先生とでしょ?絶対緊張する」
頭を抱えて、友達は分かりやすく眉をひそめてみせた。周りの子も同じく、うーんと複雑そうに笑う。そう思ってしまうのも無理はない。私自身先生と二者面談というのはできるだけ避けたいと思ってしまったから。
なぜか、私は遠足のときのことを思い出していた。初めて自分から話しかけた、あの日。あれ以来特に会話らしい会話なんてしていなかったけれど、学校では相変わらず先生は愛想のないのままだった。あの日感じた新しい印象は、単なる私の勘違いかもしれないと思い始めてしまうほど、先生との間には壁があった。
その日は、当たり前のような顔をしてすぐにやってきた。なんでもないいつも通りの1日に少し手が加わっているだけなのに、想像以上に心臓の早鐘は止まらない。すでに面談を終えた子達からは、とにかく話題がなくて困ったという話ばかり先行して聞いてしまっている。友達は割りと楽しめたようだが、それは彼女のコミュニケーション能力のなせるわざだろう。放課後、先生とふたりで面談をするなんて、若干の苦手意識を持っている自分からしてみればとんでもないことだ。うまく終えられればいいのだけれど、手のかすかな震えがそれに反抗しているようだった。
指定された時間に教室へ向かう。他のクラスも面談が行われている時間だからか、廊下には生徒の姿はほとんど見えない。あまり聞き慣れないひとりだけの足音が廊下に薄く響き、それが余計に私の不安を煽っていった。どうしてこんなにまで不安に思うことがあるんだろう。自分でも不思議なくらい、今の私は少しおかしい。
教室の前に着くと、丁度タイミングよくドアが開いて、中からクラスメイトの男子がこちらへでてくるところに出くわした。ドアが閉まる前に、その向こうにいる手塚先生の姿がちらりと見えてしまう。待っているというより、待ち構えている、というイメージの方が合うかもしれない。閉まったドアから少し離れて、男子が口を開く。
「みょうじさんが最後?」
「う、うん。らしいね」
「緊張するよなー。先生が相手だと」
「…あはは」
閉め切った教室に、小さな声までは届かないはずだ。私とその男子は自然に声のトーンを落として、軽く言葉を交わす。気まずかったと、彼は苦い顔で頬を掻いた。ドアの向こうで先生がひとり待っているのかと思うと、足から力が抜けていきそうだった。その男子が廊下の先に消えていくのを確認して、小さく深呼吸をする。まるで面接でも受けるような気分だ。何も緊張することはないと、繰り返し自分に言い聞かせる。大丈夫、先生は怖い人じゃない。あまり待たせてしまうのも申し訳ないと思って、自分に活を入れるよう勢い良くドアを開けた。
「し、失礼します」
「…ああ、みょうじか。ここに座れ」
少しだけ夕日が差す、ほのかに影のある教室で先生は静かに私を待っていた。その威厳を滲ませる視線が私を捉えた瞬間、どうしようもない恥ずかしさが湧いてきて、逃げるように目をそらしてしまう。声色はやはりいつも通りの、低く毅然としたものだった。ひとつの机を挟み、向かい合う形で座るよう促される。もちろん周りに他の人の気配なんて感じられない。イスを引くと、床と擦れ合う嫌な音が大きくたってしまった。
「…ではまず、学校生活について聞きたいのだが」
私がイスに座ったのを確認して、先生はおもむろに口を開く。冷たくなっていく手を膝の上に一纏めに揃え、先生の手元の資料に視線をずらしながら、震える喉から声を捻り出す。骨ばった綺麗な手が視界に入った。
「その、普通、だと思います」
「…心配事などもないか?」
「はい、楽しいですし…」
「そうか」
私の返事を聞くと、先生は手元の資料にさらさらとペンを走らせる。下を向いてくれている間は、視線を別なところに泳がせていてもいい気がした。問題なのは、視線を合わせることだったから。伏し目がちになっている先生の、貴重な姿をちらりと盗み見る。さっきまで張り詰めていた心臓も、この瞬間だけはほんの少し穏やかになる。
「みょうじは、進学希望だったな」
「あ、は、はい」
急に顔を上げられて、真っ直ぐ目が合ってしまった。またうるさく跳ねてしまう心臓が、どうしようもなくもどかしい。
「志望大学はまだ決めていないのか」
「そう、ですね。まだはっきりとは…」
「分からないことがあれば、俺でも他の先生でも、気軽に相談してみるといい」
「はい…。すみません」
「ご両親は、進学先について何と言っている?」
「国立だといいな、ぐらいのもので…」
高校2年生ともなると、やはり先生達が気にするのは受験の部分だった。去年よりも更にそれは身近になってきていて、こういった話題を出されると、どうしても頭が真っ白になってしまう。正直な話、受験についてはあまり明るく口にできそうになかった。じわじわと追い詰められるような、そんな感覚ばかり覚えてしまって体が竦んでしまうからだ。もう一度すみませんと呟き、頭を下げた。甘い考えを読まれてしまっただろうかと、不安でいっぱいだった。
「…何も、そこまで謝ることはない」
次に私に投げかけられた声は、意外にも若干の戸惑いを含んだ色をしていた。恐る恐る顔を上げて、先生の方を向く。相変わらずその眉間には皺が寄っているものの、怖いなんて感情は不思議と湧いてこなかった。むしろ今度は手塚先生の方が、先に視線をそらしていく。
「前から思っていたのだが」
「え、」
「お前は、あまり俺を得意としていないようだな」
友達に指摘されたのと同じで、私からの微妙な空気を、先生もいつのまにか感じてしまっていたらしい。嫌いだというのは事実ではないけれど、得意としていないのは、言われた通り本当のことだった。私の今までの態度が、先生にまで露骨に伝わっていたのかと思うと、喉の奥が急に痛くなってしまう。よくあることだと先生は平然と言うものの、私の心はとても穏やかではいられない。
「いや、違うんです。その…」
こんな状況だというのに、私はまたあの遠足のときのことを片隅で思い出していた。あのときの先生は普段学校で見せている姿と少し違っていて、いつもより隙があった。授業や勉強以外のことを口にして、まるでほんの少し警戒を解いてくれたみたいな様子だった。今ならはっきりと分かる。先生のあの少し隙を感じさせる態度が、私は嬉しかった。
「先生のことをまだよく知らなくて、それで自然と、緊張してしまうんだと思います…」
「緊張で、か」
「はい、決して嫌いとかそういうのでは…」
今まで苦手だと思っていたのは、先生の普段の態度に私が勝手に壁を感じてしまっていたせいかもしれない。注意するときの厳しい様子とも、授業を行うときの近寄りがたい雰囲気とも違う、私のまだ見ていない姿の先生が目の前にはあった。先生は特に表情を作るわけでもなく、ただじっと私の話を静かに聞いている。視線が合っていても、緊張で手が震えるということはなかった。なぜだろうか。自分でも分からない。私が言い終えると、先生はゆっくりと反応を返す。
「…こんな話をしてすまなかった」
「いえ、こちらこそ、すみません」
「話がだいぶそれてしまったな。…なにか、質問はあるか?」
先ほどまでの隙のある空気を仕切りなおすかのように、先生はまた手元の資料に目を通し、落ち着き払った言葉を口にする。低くよく通る声が心地良いと、訳もなく思った。きっと明日からは、またいつもの少し距離のある先生に戻ってしまうんだろう。
いちばん言ってみたかった言葉を心の奥底に深くしまって、私は曖昧に笑顔を作る。何もありませんと返事をすれば、先生は「そうか」とだけ愛想なく答えてくれた。こんな私でも、手塚先生と親しくなれる日が来るのだろうか。