高校2年生の今の今まで、人並みに誰かを好きになったこと自体はあった。高校ではまだ経験してないけれど、特に多感だった中学生の頃は割りとよく男子を気にすることが多かったように思える。例えば、隣の席になってよく話し始めたのがきっかけだったり、体育祭みたいな行事のときに新しい印象を覚えて気になったり、そういうものを積み重ねて、次第に目で追ってしまうようになることが大半だった。好きかどうか判断するのは私の頭だけであって、実際に目に見えて感情の変化が起こるわけではない。そんな曖昧なものを今頃振り返ってみると、実はそこまで相手のことを好きではなかったんじゃないか、と考えることもある。好きかもしれないといった気持ちが、自分の中で暴走して膨れ上がったのではないかと。

私は今、薄っすら浮かんでいるとある気持ちを居心地悪く持て余していた。それは少し前からじっとお腹の中に住み着いて、なかなか離れようとはしてくれない。



暖かくなってきたかと思えば、あっという間に順番を飛び越して蒸し暑くなり、じっとりと汗が滲んでしまう時期にまで差し掛かり始めている。クラスのほとんどの生徒が生地の軽い夏服に衣替えをして、ひたすら湿気の強い空気に耐えている。クーラーが活躍できるようになるのはもう少し先らしい。カレンダーも進み、体力テストを終えて次に迫るのは、月末の期末テストだった。


この季節、つい言うことをきかない髪の毛を気にしてしまうのは、私だけではないだろう。本格的な梅雨入りを迎えてしまうと、とにかく外に出るのが億劫で、朝から学校へ行くにも気分は沈んだままだった。登校時間のバスは生徒の姿ですし詰め状態になり、ぬるい空気とべたべたとした水気のある肌を、どうしても受け入れざるを得ない。濡れた傘が並べば、小さな水溜まりも一緒に床へと作られていく。

バスの薄暗い窓に映る自分を見て、少しばかり、後退りしたくなる。しっとりと雨を含んだ前髪が、のれんのように額にへばりついていた。学生カバンと傘を抱えて余裕がないくせに、どうしても髪をとかさずにはいられなくて、手すりに体を預け前髪にささっと手を通していく。雨が降ると、とにかく憂鬱な気持ちでいっぱいになる。ただでさえ気分が暗くなるというのに、そのうえ湿気で髪も服も乱れてしまうと尚更だ。今までも同じようなことを何度か思ってきてはいたが、ここ最近は、ますます人目を気にし過ぎているかもしれない。原因は分かっている。



手塚先生と仲良くなってみたいと、そう思った。普段の姿と、遠足のときと、面談のときと。少しずつだけどいろんな面を知ることができて、確かに、もっと仲良くなってみたいと私は思った。昔の自分なら、もしかしたら先生のこと好きなのかもしれないと単純に考えていた可能性もあっただろう。でも今は、ただ仲良くなりたいからといって、これが恋なのかどうかははっきりと決めきれずにいた。同級生の男子ならまだしも、よりにもよって相手は先生で、私と違ってちゃんとした大人だ。ただ大人に憧れる一心で、勘違いしているということもあり得てしまう。



梅雨の時期に外へ出るのは億劫だけれど、薄暗く影のさしている教室は普段と雰囲気が違っていて、この非日常感だけは思いのほか気に入っていた。暗幕が掛かったような黒塗りの景色に、蛍光灯のつんとした光。簡単に言うならば、放課後、それも学校が閉まる頃の、遅い時間帯の雰囲気によく似ている。普段明るい教室ばかり見てきているせいか、こういった変化に惹かれるのかもしれない。少し湿った夏服が扇風機の風に揺らされると、途端にぶるりと肌が粟立っていく。机の表面までほんのりと濡れているようだ。


「早く梅雨終わんないかなー」

一向に雨の止まない外の景色を眺めながら、友達は不満そうに唇を尖らせる。横から見るその顔は、より睫毛が長く強調されているように見えて、私はなんとなく、前髪をそっと整え顔を伏せた。手元にある下敷きで弱く顔を扇ぎ、彼女は小さなため息を混ぜていく。

自習、とだけ書かれた黒板を背に、当然生徒達は大人しくなどしていない。先生の目がないのをいいことに、近くにいる友人同士席を寄せて、あるいは場所を移動して、好き勝手プリントを解くなり談笑するなりしている。

「天気予報でやってたけど、まだまだかかるみたい」
「だよねー。しかも梅雨明けにはテストでしょ?やだなー、もう」

学生の本分といえど、すんなりとテストの山を受け入れられるほど人間はできていなかった。学生の悩みランキングというものがあれば、恐らく勉強は1位や2位を取るくらい人気がない部類にあたるだろう。机上のプリントには、古文の問題がずらりと並べられている。文系を選んだだけあってまだ好きな方だと言えるが、天気も悪く気分が落ち込んでしまっている今は、頑張って解こうという気力も薄れつつあった。髪を手櫛で整える。早く、梅雨が明けてくれればいいのに。首元に纏わりつく湿った空気が鬱陶しくて、無意識に眉をひそめてしまう。

「なまえさ、ここのところずっと髪触ってるよね」
「そ、そう?」

前髪にのばしていた手を、ぱっと引っ込める。

「うん。なんていうの、そわそわしてるっていうか」
「…いや、気のせいじゃないかな」

友達が、不思議そうな顔をして覗きこんでくる。私も同じく目をぱちぱちと瞬かせ、彼女を見つめ返した。脈絡のない会話なんてよくあることだが、突然どきりとする言葉を投げかけられると、私の声も上擦ってしまう。小さく声を潜め、友達は更に呟く。

「もしかして、このクラスに気になる男子でもできた?」
「えっ!いや、そんなことはないよ!」
「本当にー?」
「う、うん。違うから」

慌てて話を遮る私にひきかえ、友達はびっくりするくらい落ち着いていて、疑り深い視線をこちらに送り続けている。どちらかというとどこか楽しさを隠しきれていないような、薄っすらとした笑みを浮かべる彼女は、どう見たって私の違和感に気づいてしまっているんだろう。お互いの温度差がそれを物語っている。

「ま、別にいいけどー。ちゃんと好きな人できたら教えてよね」
「…ちゃんと?」
「そうそう、ちゃんとね」
「あ、あはは…」

友達はそう言いきると、持ってきた自分のプリントを大きく広げて、切り替えるように私から視線を外していった。根掘り葉掘り突いてこないのも、きっと彼女なりの気遣いに違いない。喉の奥がなんだかざらついたような、複雑な気持ちになってしまった。

先生のことが気になっていると友達に正直に言えなかったのには、理由がいくつかあった。まず第一に、まだちゃんと好きかどうか、自分でも把握しきれていないからということ。次に、相手が相手なため、簡単に言うのはまずいと思ったからだということ。そしてもうひとつの大きな理由としては、まだまだ生まれてすぐの感情をもう少しだけ様子見したいと思ったから、だ。自分としても、認めるのが色々と怖いだけなのかもしれない。人として気になるならまだ問題はないと思うけど、男の人として先生のことが気になると認めてしまったら、どうしようもなくやりきれない。



世界史の教科担任、更に言えば自分達の担任をしているとなると、先生を見かける機会も、決して少ないわけではなかった。特に世界史の時間は、先生が板書をするときに珍しく無防備に背中をさらしてくれるから、私はその度、じっと観察をせずにはいられなかった。少し前まではカーディガンもシャツと一緒に着ていたようだったけれど、この蒸し暑い時期だからか、半袖のポロシャツといったどこか涼しげな格好をするようになってきていた。すっきりしない天気や空気を鬱陶しがる表情なんて少しも見せず、ただ淡々と、要点をついてきれいに授業を進めていく。先生のこの徹底した堅い雰囲気を、私は気に入りつつあった。

「なにか、質問がある者はいないか」

先生は話を終えるタイミングになると、いつもこうやって私達生徒に最終確認をとってくれる。もちろんあっさり手を上げて質問する生徒なんていないが、これもきっと先生なりの配慮なんだろうなとなんとなく分かり始めていた。観察して気づいたことだが、先生は予想以上にあちこちに目を配っていて、広い視野で生徒を見ているようだった。

「期末テストも迫ってきている。油断せず、一層勉強に励むように。以上だ」

この愛想のない口ぶりも実に手塚先生らしい。以上だ、の言葉は生徒達にとって授業終了のチャイムと同義で、学級委員の子が声を掛け、一斉に皆イスから立ち上がる。また今日もあっという間に授業が終わってしまった、とぼんやり思う。


4限後の、昼休み前のゆったりとした時間になると、横に並ぶ他の教室からも生徒達の波が続々と溢れてくる。その賑やかになっていく廊下へ、教科書などの荷物をまとめた先生がそのまま流れるように歩きだしていった。少しだけ考えて、私もすぐに席を立つ。急いで教室を抜け出し、廊下の向こうに目を向ける。曲がり角を通り過ぎていく先生の姿が遠くにちらりと見えた。特に話しかけに行こうとしているわけではない。ただちょっと、軽く気になっただけだった。もし余裕がありそうだったら、少しは話しかけてみたいけども、うまくいくとは思っていない。


曲がり角に近づくと、先生のよく通る声と一緒に、誰か知らない女子の楽しげな話し声が、合わせて耳に飛び込んできた。私の足はびっくりするくらい正直にぴたりと動きを止めて、その場に棒となって立ち竦む。

「手塚先生!お久しぶりですー」
「ああ、久しぶりだな」
「なんか懐かしいですねー、お話するの。クラス離れちゃいましたから」

先生と話している女の子は、別のクラスの目立つ子だった。廊下の端に立ち止まって、何気なく会話を交わしている。私は距離を取り、なんでもないような顔を装って、その様子をこっそりと窺う。壁にもたれ掛かって大人しくしていると、行き交う人の姿にうまく紛れることができた。どうやらその子は去年手塚先生が担任として受け持っていた生徒らしく、初めて見るくらいの自然さで、ぽんぽんと話を続けていた。

「休みの日とか、また山登ったりしてるんですか?」
「いや、最近はあまり行っていない」
「まあ、梅雨ですもんねー、夏休み入ったら釣りとかもよさげですね!」
「…そうだな、その頃には楽しめるだろう」

去年担当した生徒だからか、それともその子の表情が柔らかいからか、普段見せない姿をして、壁を少し取り払っているかのように穏やかに話をしていた。手塚先生が生徒と話す光景なんて今まで何度となく見てきたはずなのに、私の心臓はなぜか落ち着かなかった。1年生のときにみてもらった先生となると、他の先生より明らかに特別だろうと自分でも分かる。彼女は私なんかより、ずっと先生のことをよく知っているようだ。

「遠足のときも本当は話しかけたかったんですけど、なかなかタイミング合わなくて」
「ほう、それは悪かった」
「まあまた来年に期待しますよー」

ここからだと先生は後ろ姿しか見せていないが、その横に覗く女子は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべているのが分かった。冷えた指先は薄っすらと湿っていて、ごまかそうとスカートの裏で小さく擦り合わせる。初めて目の当たりにする先生の姿に、どうしても顔を曇らせずにはいられない。誰にでも距離を置いて接するのが手塚先生の大きなイメージとして出来上がっていたはずが、蓋を開けてみると、案外そうでもなかったのだろうか。今のクラスの生徒にもあまり見せないような姿をしていて、やはり自分はまだまだ壁のひとつもを超えられていないんだと、気づいてしまう。


避けるように引き返し、慌てて来た道を戻った。ほんの少しでも遠ざかれば、ふたりの姿はあっという間に見えなくなる。曲がり角の向こうに消えていくのを確認して、私はそっと胸を撫で下ろす。みっともないと思った。自分のことが、すごくみっともなかった。あんなに頭の中では先生のこと好きかどうかわからないとか、実は違うんじゃないかとかうだうだ屁理屈こねてばっかりいたくせに、こうして誰かと仲良くしているところを見かけると結局嫌に思ってしまうのだから。なんて面倒なんだろうと自分でも呆れ返ってしまった。


降りしきる雨が廊下の窓をひたすら叩いていた。ガラスを伝って幾重にも線を作り、窓の縁に水滴を溜めていく。黒く塗られたガラスに、ぼんやりと自分の姿が浮かぶ。情けない顔をしてこちらをじっと見つめ返していた。乱れていた前髪をそっと額から払い、小さく溜め息をついて、ゆっくり頭を落ち着かせる。こんなにどうしようもない性格だったかな、と自分でも不思議に思ってしまうくらい単純な行動をとってしまった。拗ねる子供みたいだ、とも思う。一般的に、先生が生徒と仲良さそうに談笑するのはごくありふれた光景で、気にしてるほうがどう考えてもおかしいはずだ。

おかしいはずなのに、あの女の子に嫉妬してしまった。私の知らない手塚先生を知っているあの子に。認めるのが怖いとか、まだはっきりわからないとか、そういうものじゃなかった。嫌なものは嫌だと体が先に反応していた。自分でも動揺してしまうくらい、やりきれない気持ちになっている。

お腹の中にじっと住み着いている居心地の悪い思いは、やはりどうしても離れようとはしてくれなかった。