好きだということを今までどうしても認めたくなかったのは、先生との恋なんてありえない、と無意識のうちに思っていたせいなのかもしれない。物語やドラマの中ではよくありふれた恋愛関係として登場しているけれど、実際には自分の身の周りにそういった話なんて全く存在せず、皆やんわりと、特に大人側が、そんな事態を忌避しているように見える。先生に憧れを抱く子も多いが、相手となる先生達は決してそうではないだろう。先生達はしっかりと距離を保って、あくまで「普通に」接してくれる。それが当たり前で正しいのに、他の子に嫉妬までしてしまう私は、自分でも行き過ぎていると思う。
梅雨はまだまだしつこく燻り、校舎のあちこちを依然暗く染めていた。不意に触れた机の表面や、廊下の壁もほのかに湿り気を帯びていて、あらゆる部分に雨の影響が現れていることが分かる。相変わらず言うことをきかない髪を指先で梳かし、私は今日も隠れるように、教科書の隙間から教卓に立つ手塚先生の後ろ姿に視線を送り続けた。
大きく、背筋の伸びた綺麗な姿。普段そばにいるクラスメイトの男子とは違って、しっかりと体の出来た、大人の男の人の背中をしている。先生のような歳の人と接する機会が今まであまりなかったからか、思わずまじまじと観察してしまう。先生が若い時、…学生の時も、きっと私と同じことをした女子がいただろう。もし同級生にこんな男子がいたら、やっぱり今と変わらず手塚先生のことを目で追っていた、と思う。その鍛えられていそうな体を見るに、何かスポーツでもしていたのかもしれない。そういえば、この間別のクラスの子と先生が話をしているとき、山に登るやら釣りをするやら、アウトドアに関係する話をしていたようだった。それで普段から鍛えられているのだろうか。先生と、アウトドア。普段口数が少ない分、黙々と何か行動しているのが少し似合うと思ってしまう。
月末から始まる期末テストに向けて、学校全体は、徐々に慌ただしくなり始めていた。放課後には図書室や教室に残って勉強をする生徒も増えだし、職員室で直接先生達に教えてもらう人の姿も多くなっている。私も例外ではなく、自信がない教科で壁にぶつかるたび、各教科担任のところへ向かって指導を受けることがあった。
職員室へ出向く際には、入り口でまず先生方に声を掛けて、許可を貰ってから入らなければならない。入り口から少し離れたところにある手塚先生の姿がどうしても気になってしまって、いつも私は、そこで躊躇してしまう。「○○先生失礼してもいいですか」と口にすると、職員室にいる先生達はすぐに顔を上げてこちらに気づく。私はどうしても、手塚先生の視界に入りたくなかった。
「中谷先生ー、失礼してもいいですか?」
隣に並ぶ友達が、少しだけ前のめりになって声を上げる。彼女の後ろ姿にやや隠れながら、私も入り口に立つ。彼女のよく通る声はすぐに近くの先生に拾われて、どうぞ、とあっさり返事が飛んでくる。ふたり揃って足早に職員室内へ滑り込み、目的の場所へ向かった。もう夕方に入っているためか、少しずつ先生達も帰り支度を始めているようで、空いている席がちらほらと目についた。私は若干顔を伏せながら、友達の後へ続く。
私達が側に来たことで、中谷先生は手を止めてこちらへ体を向ける。少し使い古されたイスが小さく音を立てて軋んだ。
「おう。どーした」
「あの、このプリントの大問2が分からなくって」
「んー、どこよ」
中谷先生の雰囲気は、相変わらず他の先生達のものと大きく違っていた。歳の近いお兄さんといった感じで、緊張よりも親近感の方が断然大きい。頬を緩ませながら、友達は先生に向かってプリントを広げてみせる。ただ単にくっついてきただけの私は、少し輪から外れ、距離を置いてその様子をそっと眺めた。
「このあいだ授業でやったとこか」
「ちょっと忘れちゃって。あはは」
「まったく。しょうがねえなー」
「先生優しー!さすがっ」
彼女の声はどこか弾んでいて、傍から見ていても楽しんでいるのが一目瞭然だ。ここまで嬉しそうに話をされると、先生としてもきっと楽しいに違いない。ふたりのやり取りを1歩引いて見つつ、私の意識は段々と別の所へ向かい始めていた。
小さく辺りを見回す。ぽつぽつと人の疎らな職員室に、よく知っている顔の先生は、特に分かりやすく視界に入ってくる。職員室窓際の少し奥。ファイルの並ぶ棚のそば。手塚先生が、自分の席でパソコンを広げ、なにやら作業をしていた。その表情は、相変わらず硬く険しい。じっと見つめているとこちらに気づいてしまうかもしれない、となぜか焦ってしまって、私は不自然に顔を背けることしかできなかった。前髪に手を伸ばす。ささっと整えて、視線を足元に落とした。先生の姿を視界に入れた途端、条件反射のように心臓も一緒に落ち着かなくなってしまう。
「ありがとうございます!おかげで助かりましたー」
友達が、再び元気よく声を上げた。私の意識もすっかり引き戻され、ふたりの元へと慌てて視線を移す。
「おお、またなんかあったら聞きに来いよ」
「はーい!また来ますね!」
プリントを抱え、友達は満足そうに笑みを浮かべていた。私も続けるように頭を下げ、ひらひらと小さく手を振る中谷先生の姿を後にしながら、その場を離れていく。戻り際、手塚先生の方を軽く一瞥してみたものの、やはりその視線はパソコンに注がれたままだった。相変わらず、距離が遠い。先生は私に気づいてはくれない。
暗い窓の外とは対照的に、職員室の中は、煌々と白い蛍光灯の光で照らされていた。廊下に出ると、その違いがよく分かる。灰色がかった廊下は、雨の影響で空気が湿ったままだ。曲がり角を過ぎ、自分達の教室がある廊下を進む。同じ階にいる生徒の数も少しずつ減り始めているようで、他の教室にも数人の生徒しか残っていなかった。
「なまえは今日何時までいる?」
「うーん、どうしよ」
「19時に閉まるし、それまで残ろうよ」
「じゃあ…そうしよっかな」
学校にいられるぎりぎりの時間まで居残ることは、決して少なくない。テスト期間は自習で残るとして、それ以外の普通の放課後だとお喋りやら何やらで遊ぶことが殆どだった。放課後の自由な時間はとても心地良い。ましてこんな天気ときていれば、余計にもう少し帰る時間を遅らせたくなってしまう。
クラスに戻り、扉を開けてみると、そこにいるのは同じクラスの男子ふたりだけだった。私達が入るなり、おお、と手を振ってくる。
「なんだ、みょうじ達も残り?」
「うん。山崎くん達も?」
「まあ、一応期末前だしなー」
自習、という名目はあるものの、男子達は少し崩した雰囲気で過ごしていたようだった。勉強もしつつ、合間合間に話をして、緩く時間を潰すといった感じに。自分達の高校は進学校といえば進学校だが、あまり勉強第一という方針でないためかテスト前でも割りと自由に過ごす生徒が多いようだ。
自分の席に着き、課題範囲の教科書を開く。特に不安が残る政経は、他の教科よりも念入りにチェックしなければならなかった。ノートやプリントも合わせて、確認漏れや記憶漏れがないか、少しずつ照らし合わせて読み進めていく。忘れている部分があれば、ひたすらノートに書き出して、暗記できるよう繰り返していった。ひとつ覚えていくたび、あらゆるところから疑問が湧き上がってくる。テスト勉強の嫌なところは、終わりをなかなか実感できない部分にあると思う。
手を止めて、窓の外に視線を向ける。天気のせいか、時間のせいか、窓の向こうはすっかり黒塗りされた景色しか映っていない。かすかに浮かんで見えるのは校舎側の外灯くらいで、その明かりも雨でぼやけてしまっている。次第に強まっていく雨足に、段々とやる気も落ちていくばかりだ。
「気が滅入るよなー、雨ばかりだと」
そんな私の様子に気づいたのか、近くの席にいた前川くんがおもむろに声を掛けてきた。お互い集中力がぷっつりと切れて、自然と教科書も閉じてしまっている。こうなってはもう、放課後の緩やかな時間に流されるほかない。学校が閉まるまで、いつの間にかあと15分ほど。ぽつりぽつりと会話を繋ぐ。
「早く晴れてほしいねー」
「なー。チャリ通だと特に面倒臭くって」
「あ、そっか自転車かあ」
「まあバスは使うんだけどさ。すし詰めだし、嫌で嫌でしょうがない」
「うん、分かる。皆濡れちゃってるしね」
薄い会話で空気を弱く撫でる。波が立つことも消えることもなく、ただただ静かにお互いの暇を持て余す。教室の反対側では、友達と山崎くんが小さく話をしているのが分かった。同じクラスの同級生ともなれば、こういった風に接する機会も決して少なくない。春の頃に比べると、少しずつ生徒間の距離もうまい具合に変化してきている。
「部活もまだまだできないしなあ」
ぽつりと、前川くんが再び言葉を漏らした。少し日に焼けた腕がカッターシャツの袖から大きく覗いている。私の興味も、新しい話題にやんわりと傾き出した。帰宅部の身にとって、部活動生の話はまた刺激があって面白い。
「部活?何してるの?」
「硬式テニス。もうね、普段はビシバシやられてるよ」
「あはは。顧問厳しいんだ」
「そりゃーもう!正顧問は滝口先生だから、そこまでなんだけど」
前川くんがさっきより大きく身を乗り出し、いかに部活が大変かを強調する。グラウンドを走らされることも多く、ちょっとでもサボるような仕草を見せると、みっちり扱かれてしまうとか。口振りはなかなか愚痴めいているものの、なぜか少しだけ愉快そうにも見える。部活が好きなんだろうと、すぐに分かる。
「副顧問がなー、手塚先生なんだよ」
特に前置きもなく出てきた先生の名前に一瞬、私の反応も遅れてしまう。彼はそれに気づくことなく、話を続けていった。
「だからもう全然手抜いてくれなくて」
「そ、そうなんだ」
「あの人普段から厳しいじゃん?コートでもそのまま!って感じ」
「へえ…」
イスの下で絡ませた両足から、徐々に力が抜けていく。さっきまで自然に笑えていたはずなのに、今の私の頬は驚くくらい固くなったままだ。無理やり持ち上げて細い喉の奥からゆっくり言葉を紡ぐ。前川くんは、やっぱりどこか楽しそうに部活のことを口にする。手塚先生、副顧問、テニス部。まさかこんなところでそんな話を耳にするとは思っていなかった。私の意識は、たちどころに明後日の方向へと飛んでいく。また知らない先生の姿がひとつ、見つかってしまった。
「なまえー、そろそろ帰ろー」
教室の隅から、友達が私の名前を大きく呼んだ。もう荷物を片付け始めていて、その机の上では、黒い学生鞄が既に大きく陣を取っていた。私は曖昧に返事を返し、机に広げていた教科書を慌ててかき集める。前川くんも私達のやり取りを見て席を立ち、帰る準備をし始めた。時間は19時のほんの少し前。下校するにはいい頃合いだ。先生はまだ、残っているのだろうか。まだ職員室で、黙々と仕事をしているのだろうか。少しだけ考えて、手を止める。時計と手元を何度か見つめ返し、ほんの少しだけ躊躇してしまう。ここで真っ直ぐ会いに行って、挨拶のひとつでも残して帰ればまた何か変わるかもしれないと、想像する自分がいた。
私の知らない先生はまだ沢山存在しているようで、それをひとつひとつ見つけるたび、嫉妬だとか虚しさだとかが、何度も何度も湧き上がってしまう。先生の顔は見たいが、みっともないところは見られたくない。話をしてみたいが、うまく話せるような自信はない。そんなどうしようもないことを頭の中で繰り返し、胸の奥の後ろ暗い気持ちをただただ押し込める。窓の外はすっかり黒いうねりに包まれていた。けたたましく横殴りする雨が、ガラスを伝って葉のように落ち続けている。先生を遠く感じてしまうのは、なにも元々の雰囲気だけが原因ではない。自分が行動していないせいだと、私ははっきり気づいていた。