1. きっと僕らの終戦記念日

「今年の誕プレ、何欲しい?」

 日が短くなってきた頃の、茜色に染まった教室で。廊下側から窓枠に肘をついて、わざわざ学年を超えてまでどうでもいい話をしに来た同い年の幼馴染みに、そう聞いたことがある。

 前の年は少し文字が多めの動物図鑑、その前は確か、そこそこに大きい猫の抱き枕だった。本人曰く、猫の抱き枕は渡したその日からずっと押し入れの布団の上で寝ているらしい。あげた時点でのサイズ感から考えると、最早どう考えてもな添い寝でしかない。
 しかも腕と脚で挟んで全力で抱きしめなければ、きっと場地は押し入れから転がり落ちる──だからこそ、本当は場地が布団に入らないときにも使える様な、くつろぎ用のソファとしても使えるようなクッションとしてあげたつもりだったのだけど。どうも結構しっかりと気に入ってもらえたらしいぞ、と大爆笑した記憶すらあった。

 それで。その年の私の誕生日には、妙に渋る幼馴染を口説き落としてバイクの後ろに乗り込み、少し遠くまで連れて行ってもらった。それがまあ死ぬほど楽しかったから、今年も同じものを強請 ねだろうと思っている。この前は海だったから次は山がいいな、峠の展望台から富士山が見たい気もする、とかなんとか。次はどんな手を使って渋る幼馴染を口説き落とそうか、なんて。そんなことを、当人の誕生日プレゼントで欲しいものを聞きながら考えていた覚えがあった。

 そうして。かなり考える様な間が開いてから「あー……」とか「や……なら、別にねえな」みたいな言葉が返ってきた記憶がある。ちゃんと考えた結果がそれか? とか、そもそも今の間って本当にちゃんと考えてたの? とか。そんなことすら思うほどに、要領の得ない言葉だったことを覚えている。

「……マ、また思い付いたら言うワ」
「そうして」

 確か、そこで話を終わることもできたとも思ったのだけれど。どうしても楽しかった思い出が強かった私は「あと、来年の私の誕生日は峠攻めでよろしく」なんてことを口走っていた。口説き落とす計画も何もない、ただのシンプルな要求だった。それも、かなり直球ドストレート勝負の。
 その年の分は先月に終わったばかりなのに。我ながら本当に楽しかったんだな、ということがよく分かる。間違いなく本当に楽しかったのだけど。

「ゲェ……そんなに気に入ったのかよ……」
「そりゃあもう。すっごい楽しかったし!」
「ハッ、そりゃあ良かったワ」
「来年は富士山見よ、富士山。山中湖の展望台から見れるってテレビでやってたんだよね」
「富士山……? なんでまたビミョーに遠いとこなんだよ」

 「そもそも何県だよ」なんてことを言う馬鹿の言葉はとりあえずシカトすることにして。きゅるるとした顔で「ダメ?」と聞けば、呆れたように息を吐いた場地から「ダメじゃねえけど」との声が返ってきて。正直に、『けど』ってなんだよ、とすら思った。──ただ、場地の懸念点が私にも潰せるところなのであれば、サクッと潰すに限るのだ。後はゴリ押しで約束を取り付けた。

「お願い場地〜〜!! 高速代とご飯代とガソリン代と、あとはよくわかんないけどお金かかるところが他にもあるなら全部出すから〜〜!! 今からお小遣い貯めるし高校行ったらバイトもするから〜〜!! 一緒に行こうよ〜〜!!」
「馬鹿だろ。誕プレなんだからオレが出すわ」
「義務教育で留年した奇跡の馬鹿に馬鹿って言われるのは死ぬほど腹立つけどそれはそれとしてときめいた」

 一息でそう言い切れば、喜んでいるのかドン引いているのかすらよく分からない顔で「へえ」なんてことを言われてしまったけ。「いつか背中から刺されないようにね。私に」と続けたときは、わかりやすい呆れの顔で「オマエかよ……」と返された覚えがある。

「いよーし、ナビは任せな。地図はしっかり頭に叩き込むから」
「アー……それは頼む」
「OK、お金も私が出すからね」
「だからしつけえンだって」
「場地はあと一年で体力だけ付けておいて」
「はァ? 今でも余裕だっつの」
「言ったね、よろしくお願いします。楽しみにしてる」
「オウ」

 ──結局、その幼馴染はその年の誕生日が来る前に死んでしまったから。その幼馴染が「今年の誕生日」に欲しいものを聞くこともなく、当然、一緒に富士山を見に行く約束が果たされることもなかった。しかも、きっちり私ではない人羽宮一虎に背中から刺されて。
 デートだと思って浮かれていたのになとか、きっちり刺されてんじゃんとか。しばらくぐるぐると頭を回っていた恨み言は、次第に考えることすらやめてしまった。

 それで、私がずーっと、密かに片思いしていた誰よりも格好良い馬鹿な幼馴染が中学で死んで。そのままゆっくりと時間をかけて別れを惜しむ間もなく、高校生になったタイミングで親の転勤で地方に引越した。
 幼馴染との思い出もない、娯楽だって渋谷よりは少ない──あんな、誇張抜きでなんでも揃っている都心と比べてしまうものでもないと思うけれど──穏やかな場所で、とうとう耐えきれなくなったのか、そうでもないのかは今となっては分かるものでもないけれども。とにかく、ほんの少しの興味で、高校生のうちにバイクの免許を取った。

 幼馴染のせいで少しだけ詳しくなってしまったSUZUKIのバイクを見繕う中で、結局、流石に由来がそれ害虫はないだろうとも言いたくなるような愛称の、とびきり格好良い躯体を中古で買った。風になること自体、一人でもやっぱり楽しくて。後ろに誰かを乗せられる様になってからも、なんとなく、誰を乗せる気にもなれなかった。

 そのうちに、良くも悪くも幼馴染との思い出がひとつもない、ゆっくりとした時間が流れる田舎暮らしが妙に気に入ってしまって。地元である東京には戻らずに進学して、レポートやゼミの合間には、毎日のように大学の友達と遊んで──気が付いたら、私だけが・・・・成人していた。
 大学の友達とは成人祝いと称してベロベロに酔い潰れた。ゼミやサークルの付き合いで煙草だって吸い始めた。バイクも、お酒も、煙草も。私はしないながら、賭博だって、全部全部合法なのだ。──あの頃にしていた人は総じて不良だと言われる類のものが、全て合法で嗜めるようになってしまった。

 それから、就職を機に一人暮らしを始めて、会社の人ともそれなりに仲良くなった。歓送迎会を含めて飲み会はたくさんあった。趣味が合う同僚だって居た。話が合う同僚だって居た。
 それでもやっぱり、ツーリングだけは、今更誰かと一緒にしようとは思わなくて──念願だった山中湖での誕生日富士見だって、昨日に一人で決行したのだ。

 山中湖に居たときはよく晴れていたからか、富士山は綺麗に見えた。絶景だった。抜けるように鮮やかな青空と、夏らしい、イラストみたいな入道雲と。それから、くっきりとした富士山と。あまりにテンションが上がって、その絶景をバックにした愛機の写真だって撮りまくった。

 ──一人でも、あれだけ楽しかったのだ。本当に行きたかった人と一緒であれば、どれほど楽しかったことだろう。

 今更言ってもどうにもならないことを悶々と考えながら、途中では、やっぱりバイクの維持費って結構するよな、みたいなことも考えて。最終的には、社会人ってすごいや、なんて結論になった。
 ある程度の自由に使えるお金があれば、やりたいことはだいたいできる。──まあ、お金があってもできないことだってあるのだけれど。今更言ったとてどうにもならないし、どうにもできないのに。

 そうして、まとまらない頭ながら──世間的にはお盆休み真っ只中であるのを良いことに──明け方に一人、庭で煙草を吸っていた。山中湖から帰ってきて、ごっそりと持って行かれた体力を回復するために爆睡して。その間に降っていたらしい雨も、とっくに上がっている。
 とうに慣れてしまった煙草の苦味と、山中湖に居た日中よりも随分と涼しい、静かに澄んだ空気と。抜いても抜いても生えてくる豊かすぎる雑草が雨に濡れたあとの、妙に爽やかで、どことなく甘いような気もする、不思議な匂いと。種類も、独唱なのか輪唱なのかすら分からない、軽やかな虫の声と。
 そろそろ新聞配達が来てしまうかもしれないな、と明後日の方向に飛ぶ思考を放置して、まだギリギリ星が見える時間帯の空をぼんやりと見上げている。どう考えても星見には向かないはずの時間帯ながら、真夜中の渋谷よりもたくさんの星が見えた。

 そのまましばらくぼんやりとしていたところで、流石に首が痛くなってきて。新しい煙草に火をつけるためと、スイと視線を下に向ける。親指の腹でフリントを擦り下ろし、とうに慣れきってしまった動作でスゥ、と静かに息を吸い込んで──ふと、視界の端に小さな気配を感じて、思わず飛び上がってしまった。

「あっつ!? 鼻焦げ……や、流石に大丈夫か……」

 手元のライターでは大きく火をつけたまま、肩から腕を大きく跳ねさせてしまったのだ。そりゃあ、熱さも普段煙草を吸い始めるときとは比べ物にならない。心做しか焦げ臭い気もしてしまう。髪が焦げたか、顔の産毛が焦げたか。それとも、鼻毛が焦げてしまったか。どれも嫌すぎるな。
 というか──嫌だな。一人暮らしに慣れてしまうと、どうしても独り言が増えてしまう。鼻毛が焦げたかもしれないことと同程度には嫌だ。いや、まあ、顔周りのどこの毛が焦げたところで嫌なものは嫌なのだけれども。

 未だ焦げ臭さが残る鼻を擦りつつも、今度こそきちんと火をつけ、全てを諦めるようにふうー……と細く紫煙を吐いて。私の顔周りのどこかしらの毛を焦がす原因になった不届き者はどこのどいつだと、改めて視線を下げれば──つい今しがた視線の端に気配を感じた通りの場所に、黒く大きな、何か・・が居た。

「は……」

 ──何だコレは。毛足の長い狼にも見えるし、毛足の長い犬にも見える。なんとなくイヌ科っぽい気もするけれど、確信を持ってそうだと言い切ることもできやしない。
 この辺りの土地には、鹿やら猪やらならばしょっちゅう出る。気候が良ければ猿も出る。何ならたまに、熊の出没情報すら出てくる始末だ。
 だとしても、狼は流石に聞いたことがなかった。狼なんてこんなところに出るのか? ──いいや、そんなわけがない。日本で生息している狼はとうの昔に絶滅しているはずだ。

 信じられない気持ちのままに目を細めて観察していると、私が騒いだことで少し距離を取っていた黒い生き物は、恐る恐るといった雰囲気で傍に寄ってきた。人に慣れているのか、そうでもないのか。そもそも初手から知らない間に我が物顔で隣に陣取っていたくせに、今更近寄ってくることに臆するのかよ、なんて。
 総じてなんだコイツと思いながらそのゆっくりとした動きをじっと見ていれば、やはりというか──気付いたときに居た、私の隣に収まった。

「……お前、犬?」
「バウゥ……」
「それか狼?」
「バウゥ……バウ!」

 ──なるほど? かなり迷っていた気もするけれど、自認は狼であるらしい。まさかそんなわけがあるか。狼だか犬だか分からないが、そもそも人間でもないイヌ科の何某と意思の疎通ができるはずもない。間違いなく人間だったにも関わらず、何を考えていたかは最期まで全く分からない奴だって居たというのに。

「……ちょ、えっ?」
 
 狼だか犬だかよく分からない黒い生き物に、相変わらず「なんだコイツ」以外の感想を抱けないままにいれば──そいつは、あろうことか私の周りをぐるぐると周り始めた。その間はずっと、立ったままでいる私の顔を見上げている。本当に何なんだコイツは。いっそどこかの飼い犬かとすら思うレベルで人に慣れている。たまにチラチラと手元辺りに視線が向いているところも意味が分からない。せめて顔を見見るか手元を見るか回るかのどれかにしろ。忙しない奴だな。
 ふと、動物に煙草の煙はマズいか? と思い至って。煙草を持っている方の手を高く挙げれば、どこか怒っていそうな様子で死ぬほど吠えられた。──えっ、お前、煙草好きなの? そんなわけがあるかよ。

 煙草の煙なんてものはどう考えても毒でしかない。好き好んで吸っている人間にすら毒なのだ。あまり詳しくないからこそ完全な憶測でしかないものの、どう見ても人間ではない動物に毒でないはずもない。
 ──仕方ない。吸い始めたばかりなこともあってかなりもったいない気もするけれど、自分以外の健康を進んで害したいわけでもないのだ。コイツがいなくなってから存分に吸えばいい。

 そんな心持ちで──愛煙家としてはかなり名残り惜しいものの──塀の上に置いていた灰皿の上で、泣く泣く煙草を押し消した。そうすれば件の狼だか犬だかよく分からない生き物は、それまでよりも遥かに機嫌が良さそうに私の周りを周回し始めた。本当に何なんだコイツ。実は嫌煙家なの?

「……お前さあ、本当に何?」
「わふっ!」
「いや、『わふっ』じゃなくてね」
「バウッ!」
「『バウッ』でもなくてね」
「バウゥ……!」
「唸られてもわかんないんだって」

 「えー……?」なんて音を洩らしながらもまっすぐしゃがみ込めば、案外よく喋るらしい黒いの・・・は、ようやく私の周りでしていた高速周回をやめた。途端にどう見ても目が回っていそうな様子でべしゃりとへたり込んだからには、素で「馬鹿じゃん」なんて声が出てしまったわけなのだけれど。普通に吠えられた。なんとなく、すごくキレられているというか、文句を言われている気がする。
 待てよ──コイツ、ひょっとして、結構人間の言葉を理解しているのだろうか。残念ながら私はさっぱり理解できていないのだけれども。「ゥわう!」無闇矢鱈と吠えるな。近所迷惑だろうが。ご近所さんなんてものは五メートルは歩かないと居ないけれども。

「うるさいよ。時間が時間なんだから静かにして」
「……ゥ」
「お、静かになった。偉いじゃん」
「わうっ!」
「だから静かにしろって……」
「ゥ……」

 こちらの言葉に逐一反応している──ようにも見える──様子に、なんとなく、どこかで躾られたのかな、と思った。例えば、ブリーダーにしろただの動物好きにしろ、ここに来るまではどこかで飼育されていたとか。動物を飼ったこともないからこその貧弱な想像力と知識では、残念ながら他の例が思い浮かばないのだけれども。だいたいそんな感じの雰囲気があった。完全な野生動物ではなさそうだ。
 これまでに飼ったことがあるペットといえば、いつかに武蔵祭りで掬った金魚くらいなのだ。あとは、渋谷の団地で放し飼いにしていたデカいカマキリ。気が付いたら帰ってこなくなって泣いた記憶がある。今となっては、カマキリを放し飼いにする以上、当たり前すぎる結果だった。──と、そんな話はどうでもよくて。

 結局のところ犬だか狼だかよく分からない黒いの・・・の口の前に、スっと人差し指を立てた。「お前、どこかの飼い犬?」と聞けば、ふるふると首を横に振られる。そういえば自認は狼っぽかったな、と思い出して「どこかの飼い……狼?」と聞き直せば、またふるふると首を横に振られた。なるほど、わざわざ聞き直した意味はあんまりなかったかもしれない。
 気を取り直して「脱走してきたの?」と聞けば、今度は少しだけ目を細めてふるふると首を横に振られた。──やっぱり何なんだコイツは。動きがやたら人間臭いな。しかも今ちょっと面倒そうな顔をしたか?

「……ま、早く飼い主か仲間のところに戻りなよ」

 小さくため息を吐きつつ「きっと心配してるだろうから」と続ければ、何故かじっとこちらを見た後で、しゃがみ込んでいる私の足に背をつけて丸くなった。飼い主だか仲間だかのところへ戻りたくないのか、それとも、心配されていないとでも言いたいのか。あるいは、そもそもここ・・が戻る場所だとでも言いたいのか。私がこの犬だか狼だかよく分からない黒いのに見覚えがない以上、まさかそんなわけがない。
 一応色々考えてはみるものの、相変わらずさっぱり分からなかった。そもそもの話、都合よく解釈しているからこそなんとなく噛み合っている様な気がしているだけで、本当は何も噛み合っていないのかもしれない。──なんか、昔居たな、こういう奴。

 「あのね」と口を開けば、耳だけがぴくりと動いた。ただ音に反応しただけか、聞いてくれるつもりなのか。やっぱりなんにも分からなかったものの、もうなんでもいいか、と気にしないことにした。独り言も、話が通じているのかいないのか分からない犬だか狼だかに話しかけることも、意味合いとしてはあまり変わらないのだから。

「昔ね、お前みたいに微妙に何を考えてるか分かんない奴が居たんだ」
「……ゥわふ」
「うわあ、不満そう。仕方ないじゃん、お前のこともなんにも分かってないんだから」
「わふっ……バウ! バウ!」
「だから分かんないんだって」

 ──昔から、やたらと動物に好かれる奴だった。シンプルに動物の扱いが上手いのか、天性の才能か。私が教えてもらった通りにやってもソイツほど懐かれることはなかったから、間違いなく天性の才能あったのだと思う。きっとフェロモンか何かが出ていたのだろう。正直、もう少しくらいは頭の方に才能が割り振られたら良かったのにね、と思ったことも一度や二度ではなかった。
 凶暴なくせに人懐っこくて、勉強面は壊滅的だったくせに、勘はすこぶる良い。気に入った人は、それなりに分かりやすい態度で囲い込む。当然、良くも悪くも。

 なんとなく噛み合っていそうな会話と、なんとなく噛み合っていそうな感情と。それでも、本当に噛み合っていると無邪気に思い込めるほどの言葉をくれることはなく。根っこの部分では、本当は何を考えているかも分からなかった。
 本気で何も考えていないと言われたとて、普通に納得してしまいそうで。それでいて、お前に限ってそんなわけがないだろうとも言いたくなる。不思議な人だった。──そんなことをつらつらと、相変わらず狼だか犬だかよく分からない黒い毛玉に吐き出した。

「でね、ソイツ、勝手に一人で死んじゃったんだよね」
「……」
「私の次の誕生日にはね、山中湖に連れて行ってくれる約束もしてたんだ。私の次の誕生日どころか、その年のソイツの誕生日になる前に死んじゃった」

 次第に恨み言のようになっていく言葉は、その実、どう聞いてもな穏やかな音をしていた。──だって、私にとっては過去の存在でしかないのだから。とびきり楽しみにしていた約束すら、綺麗さっぱり忘れたようにさっさと死んでしまった。それくらい最低で、それでいて、綺麗な思い出だけを残して逝った。私より一ヶ月と少し後に成人することもなく、同じように歳を重ねることすらできなかった。
 だからこそ、私はあの幼馴染を過去の存在にした。過去の存在に、するしかなかった。

 はーあ、と息を吐いて顔を上げる。相変わらず背中を向けているとばかり思っていた黒いの・・・は、想定外にも普通に、私の顔をまっすぐに見詰めていて。別に、そこまで真剣に聞いてくれなくても良いんだけどな、なんてことを思う。──いや、案外ただ見ているだけかもしれないな。

「ねーえ、黒いの・・・
「……ぅわふ」
「ウッワ、すっごい不満そう。仕方ないじゃん、名前分かんないんだから」
「……わふ」
「まあいいや、撫でてもいい?」
「わふっ!」
「はは、うるさ」

 くすくすと笑いながら、そっと手の甲を差し出した。いつかの幼馴染に教わったやり方で、当たり前に煙草を持っていなかった方の手を向ける。確か、これで匂いを嗅ぎにきたら撫でても良いのだったか。

 体の正面は向けないままにしばらく待っていれば、やがて恐る恐るといった雰囲気で鼻が近付いてくる。──第一関門突破、というところだろうか。次はあごの下とか、首の前側辺りを毛並みに沿って撫でれば良いと聞いた記憶がある。ゆっくりと、あくまで面を意識するように、だったはずだ。
 どこを撫でて良くて、どこを撫でたら嫌がられるか。どういう撫で方だとより良いか──正直、未だにそこそこ覚えていた。アイツが死んでからは動物を撫でる機会なんかなかったのに。過去のものにしたつもりでも、なかなかどうして忘れられないものだ。

 教えてもらった記憶の通りに、ゆっくりと手を動かした。長い割に絡まりもごわつきも特になく、さらさらとした指通りが心地好い。少しだけひんやりしている気がしたから「寒いの?」と聞けば、よく分からないとばかりに首を傾げられた。そりゃあそう。今はお盆休み、つまり普通に夏真っ盛りなのだ。いくら雨上がりの夜明け前で昼間よりは涼しいとはいえ、秋冬ほどの寒さはない。

「お加減いかがですか〜」
「わふっ」
「うわあ、満足気な顔しちゃって」
「……ゥ」
「あー……お前ね……流石にヘソ天までが早すぎるよ……」

 私は元々、動物にはあまり懐かれないのだけど。比較対象がやたら動物に懐かれる件の幼馴染なのが悪いと言われれば、それもそうとしか言えないけれども。それにしたってヘソ天が早すぎる。「お前、やっぱり野生ではなさそうだね」と言えば、じっとりとした目を向けられてしまった。
 思わず「ヘソ天でそんな顔されてもな……」と呟けば、不機嫌そうにモゾモゾと動いて、また足元に丸まってきた。──この黒いの、あまりにも表情が豊かすぎるな。しかもまた手を伸ばしたら秒速でヘソ天になった。なんだコイツ、何がしたいんだ。

「お前、警戒心どこやったの。私、割と動物には懐かれないタイプなんだけど」
「わふ」
「『わふ』じゃなくてね」
「ヴゥ……」
「『ヴゥ』でもなくてね」

 相変わらず、警戒心を母親の腹の中に置いてきたとしか思えないようなヘソ天で。相変わらず、表情豊かに何かしらの不満らしきものを全力で表明してくる。そんな、やっぱり犬だか狼だかよく分からない黒いの・・・の姿に──本気で、どこか似ているんだよな、と思った。

「ねーえ」
「わふ」
「お、今のは相槌と取っていいのかな」
「わふ」

 ──どうも良いらしい。違うかもしれないけれど、まあ、その辺りは細かく考えなくても構わないだろう。というか、そろそろ考えることに疲れてしまった。

「今からはぜーんぶ都合よく受け取るからね」
「わふっ」
「──もしかしてさあ、わざわざ会いに来てくれたの」

 口から飛び出した声は、想像していたよりも震えていた。相変わらずのヘソ天のままパチリと目を見開いた黒いの・・・に、流石に驚かせたかもな、なんてことを考えて。そのまま「ほら、お盆だし」と続けて口にした。

「……ぅわふ」
「ウンウン、何言ってるかさっぱり分からん」
「ガウッ!」
「うわっ、今のは怒られた?」
「わふ」
「ははっ、急にお利口になるなよ。お前の情緒どうなってんの」

 妙に人間臭くて、動物に懐かれた記憶もない私に、あからさまに懐いている。まあ、お盆だし。少し不思議なこともあるのかもしれない。そんな、なんの根拠もないことを考えつつも腹を撫でていた手を止めれば、どことなく不満そうな雰囲気で寄りかかってきた。──寄りかかっているというよりも、最早のしかかられている気がする。

「……おい」
「わふっ」
「だから『わふっ』じゃねえんだって。全体重をかけるな。前足まであげるな」
「わふ」
「……うっそ、お前のそれって肯定じゃないの?」

 なんとなく肯定の相槌なのかな、と当たりをつけていた鳴き方が聞こえても、私の抗議が聞き入れられることはなかった。「やっぱ全然分かんないわ」なんてことをぼやきつつ。四苦八苦しながらも、狼だか犬だかよく分からない黒いの・・・が転けてしまわないように、どうにかして両腕で支えたのだ。コイツ、見た目よりも結構重いぞ。
 好き勝手にのしかかられて、挙句顔をベロベロに舐め回されている。本当に何コイツ。「お前がその気なら私にも考えがあるよ」と凄めば、やってみろよとばかりにベロベロ攻撃が勢いを増した。

 シンプルにナメられているなあとか、まあ物理的に舐め回されているのも事実なんだけども、とか。その割に、やっぱりやたら懐いてくるんだよなあ、とか。コイツがこんなに私のことを好き勝手にしているのに、私が遠慮してやる必要性とかないだろ、とか。
 こんな考えだから動物に嫌われるんだよな、なんてことをぼんやりと考えて──遠慮を、捨てることにした。支えることを目的にその背に回していた腕に、支えるためだけであるはずがない力を入れる。そのまま、大事に手入れされてきたとしか思えないさらつやの毛並みに顔を埋めた。

「……ねえ、」
「……」

 そんなわけがないとは分かっている。いくら既視感があっても、いくらありえないくらいに私に懐いてきたとしても。いくら今が、世間的にはギリギリお盆の時期に被る日だとしても。
 ありえないのだ。既に火葬も済ませている人間の、骨以外の何かしらに触れられることも。既に死んだ人間が、何故か犬だか狼だかよく分からない黒い生き物になっていることも。──今まで一度も会いに来なかった人が、今になって顔を見せに来るなんてことも。つっこみどころしかなくて、全部全部ありえない。よくよく分かっているのだけれど。

「──おかえり、場地」
「……わふっ」

 ──今日だけはどうか、許してほしい。どうせ陽が落ちる頃には、この感情も帰ってしまう現実を見るしかないのだから。