パタパタ、と、静かな廊下に、足音が響く。
ミルグラム――罪を犯した囚人たちを裁くための監獄。薄暗く、無機質で、閉塞感が漂うその場所には、クロックスから鳴る足音は、あまりにも不釣り合いなように思えた。
遡ること、数分前。夕食の支度をあらかた終えたワカバは、囚人たちに食堂へ来るよう呼び掛けていた。
ワカバの声に従うように、それぞれの独房から、老若男女、個性豊かな囚人たちがぞろぞろと姿を現す。その風貌は、様々であった。
ここへ来たばかりの頃とは、状況が一変している。第一審が終了し、赦されて思想の自由が与えられた囚人、赦されず思想の否定と第一段階の身体的拘束を余儀なくされた囚人、更には、コトコによる襲撃事件が起きた際、怪我を負った囚人もいる。
食堂へ向かう囚人たちを眺めながら、ワカバは、良くも悪くも皆、雰囲気が変わったということを再認識した。そこでふと、一人姿が見えないことに気付く。
目立つ赤茶色の髪に、意志の強いツリ眼が特徴的な囚人――フータ。彼は、襲撃事件後、怪我を負い、精神的にも身体的にもかなり疲弊しているようで、そのためか、呼び掛けても食事の際に姿を現さないことがままあった。
ワカバはまたか、と肩を落とした。元々フータは特にワカバに対して反抗的な少年……否、青年だが、ここ最近の行動は、単なる反抗とは違うだろう。
それに、だ。以前に比べると、言い合いをすることもめっきり少なくなった。それは関係が良好なものになったから、というわけではない。フータに避けられている。顔を合わせても、ほとんど会話は無い。だから言い合う機会が減っているのだ。
全ては、第一審の結果を受けてのことだ。
最後尾を歩いていたユノを呼び止め、フータの所在を問いかけると、「また自分の部屋に閉じ籠ってるんじゃない」と無関心で冷めた調子の返事が返ってきた。
こういう時は、大体出てこないけれど。ワカバは踵を返し、フータの独房へと向かった。
***
現在。フータの独房の前で足を止め、扉を軽く2、3回ノックする。続いて名前を呼ぶ。予想通り、反応は無い。そしてまた、シンと静まり返る。既に何度か経験したルーティンだ。
しかし、いつまでもこのまま放っておくこともできない。食事を抜くことは、フータの体や健康面にも関わる。ワカバの、お人好しで、世話焼きで、お節介な性分が、どうしてもこれ以上は看過できないと叫んでいる。
「フータ、いる? ご飯できたよ」
意を決して、再び呼び掛ける。中で、小さくギシ、とベッドが軋む音がする。寝ていたフータが起きたのだろうか、このまま出てくるかもしれない、とワカバは期待したが、それ以降何が起きることもなかった。
それならば、と。ワカバはいつもとは違う提案をしてみることにした。
「もし食堂に来たくないなら、こっちにご飯持ってこようか?」
すると。
「……腹減ってねぇよ」
小さく、低い声が返ってきた。独房の奥から反応が返ってきたことにホッとし、ワカバは頬を綻ばせた。
しかし、フータが食事を取ることを拒否している現状は変わっていない。食欲が無いというのは、勿論精神的状況も影響しているが、今の自分の姿をあまりワカバに見せたくない、と思っているから、あえて食欲が無いと理由を付けて、拒んでいるというのもあるのだろう。
どうにかしなければ、とワカバはフータの返事を軸に置きながら、更に言葉を紡ぐ。
食欲が無くても、体のために少しでも食べてほしい、と。嘘偽りない、心からの言葉だった。
ミルグラムは特殊な環境だ。それこそフィクションの中の世界そのものだ。けれど、そんな環境下でも、育んだ関係は嘘ではない。他愛もないことを話したり、一緒に食事をとったりする中で、芽生えた情も確かに存在する。打ち解けるほどに、それは深くなっていた。
囚人たちにも、エスにも、ジャッカロープにも。ここにいる皆には、せめて不自由のない健康的な生活を、と、ワカバは、家政婦として力を尽くしてきた。皆がどう変化しようと、その気持ちやスタンスは今も変わらない。ワカバなりの心遣いだった。
けれど。その心遣いが、今の彼の癇に障ったのか、地雷だったのか。中からドン、と拳で強く扉が叩かれたような音が響いた。
「しつこいんだよ! いい加減お前のそのお節介にもウンザリなんだよ!!」
続けて、扉越しに、そんな怒号が聞こえる。ワカバはビクッと肩を揺らした。そして、ふぅ、と小さく息を吐き、心を落ち着ける。ここで動揺しては、益々フータとの交流が難しくなるだろう。
普段から突っぱねられることは多々あるが、心身ともにボロボロの状態だからか、いつもよりも当たりがキツいように感じた。しかし、そこで怖じ気づきはしなかった。
再度フータ、と名前を呼び、言葉を続けようとすると、今度は固く閉ざされていた扉が勢いよく開かれた。驚いたのも束の間、フータはワカバの胸ぐらを掴み上げ、そのまま荒々しく床へ押し倒す。背中が床に叩きつけられ、苦しさから一瞬呼吸が止まった。馬乗りの状態で睨み付けてくるフータと目が合い、ようやく組み敷かれたことを理解したワカバは目を丸くし、唖然とするしかなかった。
「しつこいっつってんだよ!!」
更なる怒号を浴びせてくるフータの、胸ぐらを掴む手にグッ、と力が加わる。息が詰まる感覚を覚え、脳が危険を知らせる。
「てめぇもどうせ、腹の底ではオレのこと否定してんだろ!! ヒトゴロシだと思って見下して、差別してんだろ!!!」
言い切ると、フータは短い呼吸を繰り返す。手の力は緩む気配がない。
なんとなく、本気で言っているようには見えなかった。赦されなかった囚人たちは皆、「自分を否定する声や責める声が聞こえる」と言っていた。フータも例外ではない。きっと、それをずっと聞いているうちに、ワカバもその声と同じ気持ちなのではないか、と感じるようになってしまったのだろう。人間不信になりかけてもおかしくはない。
彼がどれほどの不安を抱えているのか、ワカバには計り知れない。
ワカバは、胸ぐらを掴んでいるフータの手に、自らの手を添えた。すると、動揺したのか、フータはピクリと指を動かす。手の力も緩んだので、ワカバはゆっくりと倒された体を起こした。
「良かった。避けられるくらいなら、そうやってぶつかってきてくれる方が全然マシだよ」
床に座ったまま、眉を緩く八の字に曲げながら、ワカバは笑う。その姿を見て、フータは少し落ち着きを取り戻したようだった。
「フータ、あたしはね。今までずっと、あんたをヒトゴロシだとか囚人だとか、そう思いながら接してきたつもりはないよ」
添えた手に少しだけ、力を込める。
「あたしはここの家政婦として、【梶山風汰】という、一人の人間と接してきただけ。勿論、他の皆もね」
与えられた立場による差別などしないということを、強く、強く主張する。
それだけはきっと、皆の【罪】を知ったとしても変わらないだろう。
それは、かつて、自分が犯罪者となり、たくさんの人に罵詈雑言を浴びせられ、辛い思いをしたからか、あるいは同じ囚人として過ごした時期があるからか――。
「……ワカバ、」
目の前にいる彼の、名前を呼ぶ声は震えていた。今にも泣きそうなほどに、表情を歪めている。彼の左目は、罪悪感で満ちていた。
先程まで向けられていた警戒心や疑念のようなものは、もう感じない。
フータは、胸ぐらを掴んでいた手を離し、立ち上がって、ワカバの体から退いた。ようやく体が解放されたワカバも、一緒になって立ち上がる。フータは、俯いたまま黙り込んでいた。
「このワカバさんを見くびらないでちょうだいな! あんたが何を思ってても、何をしてても、ほったらかしになんかしないんだから!」
ニカッ、とおどけるように笑う。ハッとしたように、フータが顔を上げた。まだ、泣きそうな顔をしている。その手を握り、ワカバは意気揚々と歩きだした。
「っ、おい!」
「ほら、わかったらさっさと食堂行くよ!」
フータの制止の声も聞かず、ワカバは食堂に向かい、ズンズン進む。
また少し、打ち解けることができただろうか。彼の心のしがらみは、そう容易く取り払えるものではないのだろう。けれど。
――今は美味しいご飯を食べて、少しでも元気になってくれたら。
そう願い、フータが今日の夕食の感想を聞かせてくれるのを、人知れず楽しみにするのだった。
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MILGRAM夢
花畑