おやすみホットミルク

「名前ちゃん、こっちにおいで」

夕食とお風呂を済ませ、時刻は二十二時半を過ぎた頃。キッチンにいた私を日和くんが呼ぶので、ちょうど温まったホットミルクを零さないようマグに移してリビングへ向かう。
両手に持ったお揃いのマグは日和くんが選んだものだ。注いだホットミルクから湯気とほんのりバニラの甘い香りが立ち昇る。マグをローテーブルに置き日和くんが座るソファーの隣に腰掛けると、良い子だねと彼は満足げに目を細めた。
日和くんはおもむろに距離を詰めて、大きな手が私の手にそっと重なる。思わず息を凝らした私のことなどお構い無しに、重なった手は下から包み込むように優しく握られた。気恥ずかしくて視線をさまよわせる私にくすりと笑みをこぼしたのがなんとなく面白くない。だって意識しない方が無理でしょう。
そのままじっとしていてね、という日和くんの言葉と同時に肩へぼすんと軽い衝撃。

「わっ……日和くん?」

日和くんが頭を私に寄りかからせていた。
ふわふわの髪が首筋を撫でて、くすぐったさに身を捩ろうとしても肩に乗った重石と繋がれた手がそれを許さない。彼が愛用しているシャンプーのいい香りがする。

「日和くん、髪の毛くすぐったい。あと重い」
「このぼくの頭を支えられるなんて名前ちゃんは幸せ者だね。ありがたさを存分に噛み締めてね!」
「えぇ……」

確かに彼はいま人気絶頂のアイドルグループ『Eve』、そして『Eden』に属しており、数多のファン達からすればあの巴日和様に寄りかかって頂けるなんて!と喜びに卒倒しそうなものだと思う。そんな贅沢を現在進行形で私一人が独占しているのが紛れもない事実だとしても、頭を乗せられた肩が重たいことに変わりはないのだ。

テレビをつけていない部屋の中はシンと静まり返っていて、針を進める時計だけが存在を主張していた。日和くんは先程から私の手を握ったり離したり、形を指先でなぞったりと遊んでいるようで、とくに嫌ではないからそのままにしている。

「名前ちゃん。久しぶりに会えたね」
「え? うん……そうだね」

日和くんのお仕事は本当に多忙で、最後に会ったのはいつだったか……三週間、いや1ヶ月ぶりくらい。今夜から明日の夕方まで久々のオフだったらしく、彼から連絡が来たのだ。会えない間も合間を縫ってメッセや電話のやり取りはしてくれていたけれど、やっぱり直接会えるのがいちばん嬉しい。

「ぼくと会えない間、寂しかった?」
「……それは」

もちろん、と言いかけて口をつぐむ。何だか試されてるみたいだったから。
タイミングを逃した言葉は喉奥に飲み込まれてしまって、少し気まずい沈黙。時計の音がやけに響いてうるさい。時刻はいつの間にか二十三時を回っていて、ローテーブルのマグからもう湯気は昇っていない。せっかく温めたのに。

「ねえ、続きは? 聞きたいね」

痺れを切らした日和くんがぐっと私の顔を覗き込んでくる。上目遣いがあざとい。顔がすごく綺麗。アイドルなんだから当たり前だけど、至近距離でこの輝きを受け止めるのは一般人の私にとって少々荷が勝ちすぎている。

「…………さ、さー……」
「さ?」
「……寂しかったよ! これで満足!?」
「どうして怒るの」

負けた。嬉しそうに口許を緩めるこの男が今だけは憎たらしい。

「……日和くん」
「うん?」
「日和くんこそどうなの。私と会えない間、寂しかった?」

悔しくて自らも同じ問いかけをしてしまい、それが失敗だったと気づく。彼に大事にされている自覚はあるが、そもそも私にとっての日和くんと、日和くんにとっての私が等価値な訳ないし……愛玩動物くらいかもしれないし。ああ、もし否定でもされてしまったら確実にしばらく立ち直れない。されど覆水盆に返らず、吐いた言葉は口の中へ戻っては来ない。
処刑台に臨む死刑囚の面持ちで隣を見やれば、日和くんの視線はまっすぐこちらに向けられていた。射抜かれた私はぐ、と息を詰める。

「ぼくも寂しかったね。きっときみと同じくらい」

だから今日は良い日和だね。
そう穏やかに笑う彼に私は唖然としてしまった。
嘘。うそ。本当に?
でも彼は自分の気持ちにとても正直な人だから、嘘なんかじゃない……と思う。
日和くんはあけすけに言ってしまえばめんどくさい人で、私のような凡人なんかでは彼の思考を理解することなど到底できっこない。だけど、いまこの瞬間、彼と同じ気持ちを抱けたということが、どうしようもなく胸を高鳴らせるのだ。

「う、嬉しい……かも」
「かもじゃなくてそこは嬉しいってハッキリ言うべきだね!」

私を見つめる日和くんの瞳は優しい。何だか可笑しくなって、どちらからともなく笑った。
もう遅いからそろそろ寝ようねと、寝室へ手を引かれる。ずっと繋がれたままの手は日和くんの体温が移ってぽかぽかだ。
すっかり冷めてしまったホットミルクに視線だけでおやすみを告げ、私たちはリビングを後にした。

2020.4.27
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