世界はきみで溢れている

すっかり秋も深まって、空気の肌寒さに身震いする。ついこの前ハロウィンが終わったばかりだというのに世間ではもうジングルベルが流れ始めていて、まだひと月も先なのにと少し可笑しくなってしまった。
夕飯の材料が入ったマイバッグを肩にかけ直す。家でお腹を空かせている人もいることだし早く帰ろう。ぼくも一緒に行くと駄々を捏ねる彼を宥めるのは大変だった。変装がまるで意味を成さない彼はとにかく目立つので、また今度にしようと言って何とか置いてきたのだが……今頃いじけているかもしれない。マイバッグの中の、ご機嫌取りのために買ったスイーツに目配せをする。ああ見えて意外と庶民の味にも理解があるから、お気に召すといいんだけれど。

「ねぇねぇ、あれ見て! Edenじゃん!」
「うそライブやんの!? 絶対行くわ」
「チケ戦争がんばろ……この日和様めっちゃ顔が良い〜」

耳に入ってきた名前に釣られて振り向けば人だかりと、巨大なポスターにでかでかと映る見知った顔があった。そのすぐそばには『Eden LIVE TOUR』の文字。あ、これのせいか。どおりでいつもよりやけに人が多いと思った。

――もうすぐ大きな仕事の告知が出るから楽しみにしていてね。

詳しくは教えてあげられないけど、の前置きをした彼がそんなことを言っていたのは先週電話した時だった。見えなくても分かるほど上機嫌な声を思い出し、ライブのことだったのかと一人納得する。

「ツアー初日は……四月かあ」

もう半年もない。チケット販売開始はいつからだろう。戦争に備えるため、帰ったら公式サイトをチェックしなくては。つい先程クリスマスを先取りした世間を気が早いと笑っていたのに、同じ頭で数ヶ月後のライブに思いを馳せているのだからダブルスタンダードもいいところだ。
ヴヴ、と手に持っていたスマホの振動でハッと我に返る。新着メッセージの通知。ロック画面に表示されたそれは一言、まだ帰ってこないの?とだけ。ロックを解除して、もう少しだよと手短に返信する。既読がついたトークアプリを閉じてカメラを起動した。通行人の邪魔にならないよう気をつけながらポスターの全体を一枚、それと彼だけで一枚、世界から切り取って自分だけのカメラロールに保存する。なかなか上手く撮れた気がする写真に満足して、スマホをバッグにしまい歩き出した。メッセージで伝えてもいいけれど、せっかく今日は一緒に居られるんだから直接言いたい。きっと彼もその方が喜んでくれるだろうから。

日和くん、また忙しくなるんだろうなあ。
クリスマスや年末なんかは休む間もないみたいだし、お正月だって家族や友達とゆっくりしたいだろうから私と過ごしてもらえるのはそれらの後に少しあるかないかぐらいかもしれなくて、寂しくないと言ったら大嘘になる。でも負担にはなりたくないから無理やり飲み込んで、喉元過ぎれば何とやらだって自分を慰めるのだ。
だけど最近はひとつ気づいたことがある。寂しい寂しいと泣いていただけの頃には見えなかったもの。例えばコンビニに陳列された雑誌だったり、ショッピングモールの有線だったり、電車で隣に座る人のイヤホンから漏れ聴こえる歌だったり、あるいは街で見かける大きな広告ポスター。会えなくてもいつもそばに居てくれて、私の日々に寄り添ってくれる。それは日和くんがアイドルとして仕事を頑張っているからだ。輝いている日和くんの欠片は世界のあちこちにちりばめられている。
随分前を歩いていたはずのサラリーマンをいつの間にか追い越していて、自分が早足になっている事に気づく。家に着く頃にはほとんど駆け足ですっかり息が上がっていた。吐き出す白い息に大好きって気持ちが混ざって溶けていく。

「ただい……わぷっ」

家に入った瞬間ぼすんと柔らかい壁にぶつかる。そのままがっちり抱きとめられてしまい、もがく背後でバタンと音を立てて扉が閉まった。

「も〜名前ちゃん遅すぎるね! ぼくを待たせるなんて、きみはいつそんなに偉くなったんだろうね?」

柔らかい壁こと日和くんはどうやら待ち構えていたらしく、抜け出そうと身を捩る私の頭にぐりぐり頬を押し付けた。ち、窒息する……!
ようやく抜け出せた頃には日和くんの着ているニットセーターによる静電気で髪が大爆発してしまっていた。

「手もこんなに冷やして……まったく、困った子だね」

私の手をとった日和くんは、はぁと息をかけて優しく包んでくれる。少し感覚の鈍くなった肌にじんわり温もりが移って心地いい。

「次同じようなことがあったら迎えに行くからね?」
「えっ……それは嬉しいけど困る。日和くん目立つから。嬉しいけど……」
「なら、ぼくを待たせないよう一秒でも早く帰ってくることだね」

髪を手ぐしで整えながら、リビングに戻っていく日和くんの背中を眺める。荷物を置いて、とりあえず手洗いうがいだと洗面所に向かおうとして足を止めた。そういえばまだちゃんと言ってない。

「日和くん」
「うん? なぁに、名前ちゃん」

リビングに顔だけ出して、ソファに座っている日和くんに声を掛ける。話したいことがたくさんあるけど、まずはひとつ。

「ただいま!」

私ね、日和くんのおかえりって言葉が好きなんだ。

2020.11.12
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