御伽噺理論


甚爾が帰ってこなくなってもう3ヶ月。
最初の一ヶ月はそのくらいお仕事でいなくなることもよくあったから特に気にしてなかった。まあ、別に彼の住民票にわたしんちの住所が書いてあるわけでもなし、転がり込める数多の女性の家の内の一つだったのはとっくに知ってたから“帰ってこなくなった”という表現は正確には正しくない。
見切りをつけられたのだろう。心の冷めた部分ではわかっているが頭が理解を拒んでいるのか「まだ大丈夫」と冷めた方のわたしを無理やり追い返した。
大きな溜息を一つ吐いて冷蔵庫を開けると、甚爾が来るからと買い込んでいた食材たちは甚爾の口に入ることなく底を尽きようとしていた。

「買い出し、行くかあ」

独りごちてから財布を引っ掴みむんむんと蒸し暑い外界に足を踏み出す。面倒だが致し方ない。今度は一人分の食材で事足りそうだということを考えたくなくて
買い出しを渋っていた部分があるのはここだけの話だ。

***


一人分だけのはずがなんの願掛けか少し多めに買ってしまったスーパーの帰り、両手の袋がちょっとキツくなってきた頃。ぱらぱらと頬に冷たい滴が落ちる。嘘でしょ。予報じゃそんなこと一度も……
考える暇もなく一気にバケツをひっくり返したような大雨。ツイてない。何もこんな傷心の日に、よりにもよって外に出たタイミングで降ることないじゃないか。ここまで来てしまった以上これはもうさっさと帰るに限る。通り雨だろうが、こっちには買ったばかりのアイスがあるのだ。止むのを待っている間にダメにするわけにもいかない。

ばしゃばしゃと家路を急ぐ途中、いつものゴミ捨て場で段ボールに窮屈そうに収まっている生き物が一匹。思わず足を止めた。
この土砂降りの中、こちらをじっと見るだけで鳴きもしない黒猫は今一番会いたい人を思い起こさせるようで、なんだか放って置けない。

「…ここで死なれちゃ寝覚め悪いもんね」

誰に聞かせるでもなく言い訳じみた独り言を零し、猫をナマモノが入ってない方の袋に入れてから賃貸マンションの扉を開けた。ペット禁止物件じゃなくてよかった。

部屋の鍵を開けてまずは風呂場に直行。てっきり嫌がられるかと思ったが思ったより素直に言うことをきいてくれた。買ったものをてきぱきと冷蔵庫に詰めたあとは猫の汚れを落とすついでにわたしもシャワーを浴びた。
すっきりしたところでタオルで水気を拭ってやる。
よく見ると口元に傷。こんなところまで甚爾に似ているあたり、皮肉だなと思った。

「とーじ」

愛おしくなってその名前を呟けば猫は「なぁん」と鳴いた。おなかが空いているのだろうか。

「いいよ、何か持ってこようか」

さっき買ったばかりのツナ缶を思い出す。本当はサラダ用だったが、この際どうだっていい。
缶を開けて、ケガをしないように皿に盛ってやるとがつがつといい食べっぷりをみせてくれた。余程空腹だったのだろう。
なんだかその姿が甚爾を思わせるようで、自然と涙が溢れていた。見ないようにしていた現実が急に襲ってきて胸が苦しくなる。
わたしの何がだめだったんだろう。それとも、ほかにもっといい人が見つかったのか。

「寂しいよ、甚爾……」

ずっと我慢していた、言葉にしないようにしていた台詞が口を突いて出ていた。わたしの言葉の意味を知ってか知らずか、黒猫はわたしの両の目から流れる涙をざらざらの舌で舐めとってくれた。
この子はどうやらわたしに懐いてくれたらしい。甚爾とは違って。

「ん、ありがと」

泣き疲れたわたしは、真っ黒の鼻先にキスをして、微睡みに落ちた。

***


「ん、とーじ……」
「起きたかよ、オヒメサマ」

寝ぼけ眼で猫を撫でようとしたところで一番会いたかったひとの声。何時間寝たのか、夜があけて外が明るさを持ち始めていた。いや、それより。なんでこの男がここにいるのか。

「は、え、いつ帰ってきたの」
「んー、昨日。オマエと。」
「はぁ?」

昨日甚爾と帰ってきた記憶はない。わたしが昨日連れて帰ったのはあの黒猫……そうだ、黒猫。

「あっ、とーじは!?どこいっちゃった!?」
「ここにいんだろ」
「ああもう違う!黒猫のとーじ!!昨日拾ったの!!」
「だから、ここにいんだろって」

わざとらしくにゃあ、と言ってみせたこの大男。たしかに、あの黒猫は甚爾に似てるなとは思ったけど。まさか。まさかそんな。ありえない。そんな夢みたいな話。

「依頼でミスって、ちょっとな」
「い、つから……」
「んー、二ヶ月くらい?」

じゃあ、わたしが悶々としてる間甚爾はあの姿で二ヶ月間も過ごしていたというのか。しかもあの姿のまま、仕事場からわざわざうちのゴミ捨て場まで歩いて…?

「…もしわたしがあそこで拾わなかったらどうしてたの」
「所詮その程度だったってことだろ」
「どっちが?」
「さあね。」

そういえば、なんで二ヶ月も猫だったのにうちに来て突然人間に戻ったのか。寝て起きたから?いや、それはないだろう。二ヶ月間寝てないなんてことはないだろうし。わたしが甚爾にしたことといえば、ご飯をあげて、寝る前にキスしたくらい。
まさか、御伽噺みたいにキスで解けるとかだったのだろうか?

「じゃあお姫様だったのは甚爾の方じゃん」
「あ?」
「なーんでもない」