「本当によろしかったんですか?」

 そう言って、チカゲはすぐ傍に立つ半透明の男を振り返った。
 男は目を細め、チカゲの姿を焦がれるように眺めてふと視線を落とす。上背のある男の顔はそれでもチカゲにははっきりと見えていた。

「いいんです、もう。彼女には…着させてあげられなかったから」
「……左様ですか」

 拳を握り、諦念を滲ませて笑った男にチカゲも眉を下げる。涙を堪えようと言葉を詰まらせた彼に、それ以上何か言葉をかけようとは思えなかった。
 チカゲは着物の袂を持ち上げ、まんじりと眺める。経験があったわけではないのだろう。近くで見ると針を刺し違えたらしき穴や、歪んだ牡丹の花がはっきりとわかる。百年も前のことならこの辺りに極東の話が浸透しているわけでもないだろうに、目の前の男はそれでもこの一張羅を仕立て上げたのだった。

 チカゲは丁寧に裾を下げると、どこか遠くを見ている男に目をやった。
 こちらの事情など知らぬとばかりに、コンユウカがそよ風で揺れている。その様はまるで、華胥の国に遊んでいるようであった。
 
「――あれはもう、偶像に取り憑かれた化け物に成り果てていた」

 憐憫のようにも聞こえる、冷めた物言い。
 男の言う”あれ”が、村長を指していると理解するのに数秒を要した。凪いだ瞳に宿る炎が、ちりり、と揺れている。
 やがて吹き消されたようにふ、と炎が消えると、男は嘲るように片端の唇をつり上げた。
 
「尤も、僕も人の事なぞ言えませぬが。犯した罪への償いの気持ちがありこそすれ、省みるつもりなど毛ほどにもないのです。非道いものでしょう」
「彼方でどう過ごそうと、それは私の領分ではありません。ですので、貴方は貴方の思うようにお過ごしになればよいと思いますよ」
「…慰めて、くださるのですか」
「いいえ。真のことを申し上げただけですよ」

 瞬きをひとつ。ゆっくりと瞼を開けたチカゲは、左手に持っていた鞘から護り刀を抜いた。男は承知したようにチカゲの正面へと立ち、憑き物が取れたとばかりに柔く笑う。

「ひとつ、伺いたいことが」

 刀を抜き切る寸前、そういえばと日常会話の続きをするようにチカゲが口を開く。

「彼女の――アズサミさんのお名前ですが、あれは真名ではないのでしょう?」
「……よく、わかりましたね」
「私自身、縁のある家の出なので」

 アズサミ。梓巫女。歩き巫女を意味する言葉だ。
 彼女自身がそうだったのか、それはわからない。すでに儚くなった者の気持ちを推し量れるほど、チカゲは彼女のことを知らないのだから。

「彼女は花の名を贈られていました。皮肉なことですね。あれは彼女に花を贈り続けていたのに、肝心の名を忘れてしまった」

 風が吹く。
 風が、チカゲの髪を揺らす。
 揺れ動かない男の藍の髪は、そのまま彼の止まった時を表していた。

「そろそろ向こうへ行きます。……その、痛いのは得意ではないので、一思いにやってください」
「ふふっ、安心してください。貴方が感じる痛みはきっとありませんから」

 チカゲは両の手に護り刀を構えると、とん、と男の胸に優しく切っ先をあてた。
 驚く男に茶目っ気たっぷりに笑い、チカゲは刀を戻す。
 刹那、男の身体が柔らかい光に包まれ――瞬く間に消滅した。

「――お疲れ様でした、カナーギさん」

 静寂(しじま)でひとつ言、誰に聞かせるでもなくチカゲは呟いた。