貸出不明

 鮮烈な赤が走った。
 爆ぜた柘榴。熟した林檎。雪をかぶった椿。どれもしっくりこない気がして、その赤を目で追いかける。重なったのは、夜空に輝く赤い星。
 ああ、そっか。

「――蠍の火の色だ」



 真新しい上履きが、リノリウムの廊下に音を立てた。
 ひとけのない教室に、閉め切った窓。時折響く運動部のかけ声と、名前の分からない楽器の独奏。
 吹奏楽部に入部した彼女もあの中にいるのだろうか。なんて、入部届を書いていた友達のことを思い出しながら、目的地を目指す。

 クラスから階一つ分離れた、ちょっとだけ不親切な場所。
 誰もいない空き教室は、五時間目に来たときと変わらず少し埃っぽい。けほ、と小さく咳込みながら、消え残った黒板の文字を睨む。
 消さなかった、というより消えなかったと言ったほうが正しいかもしれない。あの先生は筆圧が濃くて、黒板消しを何度も往復させないといけないから骨が折れるのだ。

「よし」
 
 教卓の真正面の席に鞄を下ろし、脱いだブレザーを置く。チョークの粉で汚さないようブラウスの裾をまくり、黒板消しを手に右から左。届かない部分は椅子に乗って下りてを繰り返せば、新品同然の黒板ができあがった。
 満足げに白の消えた緑を眺めたところで、本来の目的を思い出す。私、忘れ物取りに来たんだった。

 四列目、前から三番目の席。引き出しのない机の中を覗けば、見慣れた書店のブックカバーを見つける。
 手に取ろうとしたのは一瞬。チョークの粉で汚れた両手に近くの水道まで小走り、綺麗になった手で今度こそ本を取り出す。
 念のため中身を確認しようと表紙を開けば、ひらりひらりと何かが落した。

 なんだろう。ちょうど足元に降りたそれに手を伸ばす。
 長方形の白い紙片。……メモ用紙、だろうか。
 どうしてこんなところにと思いながら文字を追えば、どうやら私に宛てたものらしかった。

 ――初めまして。春氷って知ってますか?

 細く端正な文字。男の子のものか、女の子ものかの判断はつかない。
 けれども、メモの持ち主が本を読む人だということはわかった。『春氷』。私が今持っている本と同じ作者が書いた、恋愛メインのファンタジー小説だ。
 普段から恋愛ものを読まないから手に取ったことはないけれど、あらすじを流し見て、面白そうだなと思ったことは何度か。今まで読んだことのないジャンルを含んでいるから、手を出す勇気がなくてそのままになっている。
 
 ……読んでみようかな。

 ふと、そんな思いが芽生えた。
 もともと気になっていたから。という気持ち以上の、別の何か。正体不明の感情は、けれども不思議と不快ではない。
 幸い、学校近くの本屋さんは個人経営ながら少し大きめだ。新刊でなくとも、名の知れた著者の本なら置いているだろう。そうと決まれば善は急げだ。

 中で動いて角が折れないよう、ポーチの中に本を入れる。メモは少し迷って、クリアファイルの一番上にしまった。肩にかけた鞄が、少し重い。
 校庭の微かなざわめきは、下駄箱まで届いていた。
 走っているのは陸上部だろうか。強いと噂のサッカー部は少し離れた場所に練習場があるため、ここから姿を見ることはできない。興味があれば自分から足を運ぶから、見る気がないと言ったほうが正しいのだけど。

 道の隅に白い花びらが散っていた。入学式に見頃を迎えた桜は砂利と泥に踏みつけられ、すっかり汚くなっている。
 なんとなく、花弁を避けるようにして帰り道を進んでいく。途中で本屋に寄るのも忘れない。いらっしゃいませと告げる初老の男性に軽く頭を下げ、見出しプレートに沿って本棚を辿る。
 あ、この本面白そう。手に取った本をお試しで一ページ。気づけば防災無線が子どもの帰宅を促していて、急いで見つけた『春氷』と一緒に、手にしたままの本も買った。

 結局、『春氷』を読み始めたのは週が明けてからのことだった。
 あの日空き教室に忘れた本と、立ち読みした本。読み途中のものを先に読んでいたら、自然と日が空いてしまって。

 ぱたり、本を閉じる。慣れない恋愛ものはファンタジーが絡んでいたからか、存外読みやすかった。すっかり火照ってしまった頬を手の甲で冷やす。
 美しい物語だった。[[rb:薄氷 > うすらひ]]に亡くなった恋人を想うシーンの繊細な情景は、息をすることすら忘れるほどの鮮やかさを伴っていて。ああどうしよう。もう寝ないといけないのに、もう一度読みたくなってきちゃった。

 うずうずする心に深呼吸。なんとか気持ちを落ち着かせ、本棚に『春氷』を加える。
 メモの持ち主がいなければ、きっと私はこの物語を知らないままでいたのだろう。
 顔も知らない見知らぬ誰かに一言お礼を言いたくて、机の引き出しからメッセージカードを取り出す。デザインに一目惚れしたはいいものの、買ったその日以降しまい込んでいたものだった。

 ――はじめまして。恋がこんなにも美しく描けることを、初めて知りました。ありがとうございます。

 お世辞にも綺麗とはいえない、丸みを帯びた文字。数秒迷って席を立ち、本棚から一冊引き抜く。

 ――お礼になるかは分かりませんが、よければ読んでみてください。

 書き終えたカードを一番最初のページに挟む。
 奇遇にも、メモをもらった日から明日でちょうど一週間となる。移動教室といえど席はあらかじめ指定されているから、きっとメモの持ち主もこの前と同じ席――たぶん、私と同じ席に座る。はず。
 頭の中で無意味なシミュレーションをしながら、布団に潜る。妙に目が冴えていて、眠気が訪れるまで何度も寝返りを打った。
 
 次の日。五時間目に机の中に入れた本は、放課後になるとなくなっていた。
 帰ってきたのは一週間後。四列目、前から三番目の席。本は二冊に増えていて、新しいメモにはやっぱり綺麗な文字が並んでいた。