うすぼんやりとした記憶の中、少年の足は使い込まれたスパイクシューズを履き、青い芝生を踏みしめている。身体を包み込むような歓声が、少しばかり鬱陶しい。
ふと、その目が彼の意思を無視して辺りを見回す。
空を裂いたロングパス。力強く蹴られた黒白のボール。ステップでも踏むみたいに足を差し出し、難なく受け止めてみせる。予備動作のない軽快な動きは、籠から放たれた鳥を思わせた。
駆け出した少年の前に、体躯のいい男たちが立ち塞がる。一対三。線の細い少年を相手にしているとは思えないほどの過剰戦力。
邪魔、退けよ。少年の口から、無抵抗に棘が飛び出した。母親が訊けば顔を真っ赤にしていただろう言葉。意図せぬそれに驚き、誤魔化すように視線を彷徨わせ。
(お前ならそこにいるよな)
相手選手のマークを引き離そうと、逆を突いて駆けた彼の姿。その眼光も、その走りも。自分が彼にパスすることを心底から信じているのだと雄弁に示しているものだから、思わず少年は唇を歪めた。嬉しくておかしくて、なんだか変な気分だった。何もおかしなことはない。だってあいつはいつだって
少年に二人、守備がつく。両側からプレスしてくる彼らに対し、少年の体格は貧相だ。フィジカル勝負は分が悪い。
それなら、逃げてしまえばいいのだ。
少し先に転がしたボールを足裏に滑らせ、踵で蹴り上げる。背後から頭上を通過したボールに相手が気を取られた瞬間、少年は一気に加速し自分からのパスを受け取った。
トスン、ボールが足の甲の上で柔らかくバウンドする。
「――!」
ゴール前、躍り出た君。知らないはずなのに、やけに耳障りのいい言語で少年ではないはずの誰かを呼ぶ彼に、迷うことなくボールを託す。
刹那、鋭い一閃。ゴールネットを揺らしたボールが芝生の上に落ちる。
終了を告げるホイッスル。一瞬の静寂のあと勝鬨が空気を震わせ、駆け寄ってきた彼は痛いくらいに少年を抱きしめた。受けた風が振り落としきれなかった汗は、けれども無臭で。
ああ、いや、違う。甘ったるい。これは、バニラの――。
「
甲高い声。脳が揺さぶられ、
眠気まなこを擦りながら半身を起こす。欲しがっていたおもちゃを手に入れた子どもみたいに破顔するのは、眠りに就いたばかりの仁稀に割く優しさをこれっぽっちも持たない女。
熱を通して丹念に作られた巻き髪。母の機嫌に合わせてゆらゆら揺れる人工色は、ツヤツヤと輝いている。手にあるのは少女趣味なワンピース。フリルとレースが過剰なほどあしらわれたピンクは、素知らぬ顔で飾り立てる者を待っていた。
急かすように目を細める母に、仁稀は慌ててネグリジェのボタンを外していく。
本来女児向けのそれは、けれども凹凸のない未成熟な仁稀の身体にぴたりと合っている。覆うもののない下半身の涼しさに虚しさを感じる時期は、とうに過ぎ去ってしまっていた。だって、不満を訴えても返ってくるのは振り被られた手のひらだけだから。
フリルをまとった仁稀は、鼻唄を歌う母に導かれドレッサーの前に座らせられる。鏡面に映るのは美しい
ミルクの如き白い肌、綻ぶ花を思わせる柔い桃色の唇。オリーブグリーンを縁取る睫毛は長く、華奢な肩を流れるハニーブロンドは緩いウェーブを描いている。幼き乙女の無垢な処女性は、芽生えを待たずとも可憐な美を宿していた。
「きゃあ、仁稀ちゃんとっても可愛い! さすが私の理想の
水仕事なんて一切しない滑らかな手が、仁稀の両肩にしとりと乗る。頬にくっつきそうなほど顔を寄せてきた母がぐずる子どものように唇を尖らせたものだから、仁稀は彼女の要望通りにニコリと口角を上げてみせた。
母は女の子を欲しがった。
それでも仁稀はXとYの染色体を有して生まれた、男の子であった。
◆◆◆
自分が奇妙な子どもであるという自覚はあった。
物心ついた頃から見える景色に首を傾げ、聞こえる言語に首を傾げ、鏡に映る自分に首を傾げる毎日。言語化できない違和感が頭には常にあったし、周りの子どもと比べてやけに早熟だったこともさらに拍車をかけた。
幸いだったのは、言語能力が低いおかげで周囲から不審に思われずに済んだことだろうか。
自分とあまり似ていない母親は家を空けることが多く、それゆえに話し相手のいない自分は年のわりに語彙力がなかった。
否、正確に言えば流暢に話せはするのだが、それが明らかに日本語ではないものだから口を噤む他なかったのだ。時折テレビで聴く幼児向け番組のそれとはまた違うので、どうやら英語でもないらしい。一体どこでこんな知識を身につけたのやら。
溜息を呑み込み、地面に着かない足をぶらぶらと揺らす。
広いスペースでサッカーをしている少年たちを羨ましく思いながら、邪魔くさいスカートの裾を握る。夢の中では自由に動けたこの足は、現実世界で一度もボールに触れたことがなかった。
(僕もサッカーができたら)
何か変わるのだろうか、なんて思う。
けれども、母の理想から外れた動きをしてヒステリックに怒鳴られるのは少々面倒臭い。
テレビ越しで見られる家族の温かさ、というのは現時点でもないが、理想の子どもを演じているうちは少なくともごっこ遊びの延長戦のような家族生活を営めるのだ。
ぬるま湯のようなそれに浸っているほうが、面倒事を自ら起こすよりも幾分か気が楽だった。
先程まで隣できゃいきゃい騒いでいた母は、かかってきた電話に甘い声で応えるなり僕を置いてどこかへ行ってしまっていた。連れ出してきたのはあちらなのに、まったく自分勝手なものである。
公園のベンチには不釣り合いな恰好をした僕は、さぞかし浮いていることだろう。さっきから妙に視線がうるさい。
だって、一般住宅が立ち並ぶばかりである平日の公園に、フリルとレースが過剰なほどあしらわれたピンクのワンピース姿の子どもだ。これで目立たないはずがない。一般的な女児服は、僕の知る限りではもっとシンプルなのだから。
(そもそも僕、女の子じゃないんだけど…)
胸の前に垂れる、くるくる巻かれたブロンドヘアに目を落とす。
母は女の子が欲しいらしかった。らしかった、というのは僕の想像だからで、彼女自身からその台詞を直接聞いたことはない。
けれども事あるごとに、「仁稀ちゃん、こんなに可愛いのに女の子じゃないなんて」やら「女の子なら完璧なのに」やら言われていれば、否が応でも気が付くというもの。
それで終わればよかったのに、母はあろうことか僕に女の子の服を着せ、女の子として扱うようになった。
胸の辺りまで伸びた髪も、スカート一色の私服も、カラフルな髪飾りも。すべては母の趣味であり、僕の意思が尊重されたことは一度としてない。
本当なら、飾り気のないシャツやパンツを強請るのはそんなに悪いことじゃないはずなのだ。決して裕福ではない家計を考えれば、無駄に装飾の多い服を買うよりも余程健全である。
だから、何処ぞのお姫様のように金に糸目を付けず物を買っている現状は非常にまずかった。主に生活費と日々少なくなる僕の食費(コンビニのおにぎり)という側面で。おかげでこの頃の僕は、いつも空腹に苛まれていた。
「ここ、こんにちは。お、オジサンと一緒にお菓子食べない?」
だから、というわけではないけれど。
腰を屈めて僕を見下ろす男性に、僕の耳は都合よく”お菓子”という単語を拾った。えっこの人お菓子くれるの?タダで? 最高じゃん。
くぅ、と小さくなった腹の虫に応えるように頭をフル回転させ、知っている日本語から「お金」の単語を引き出す。リスニングはできるけれど、日本語は文法も発音も僕の知るものと違うから未だに口に出すのは苦手なのだ。
「お、お金はいらないよ。ちょっとオジサンにつ、ついて来てほしいんだ」
男性は僕の不自由な単語でも理解できたのか、やけに鼻息を荒くしながらそう言った。鼻詰まりだろうか。それとも肥満…いや、これはさすがに失礼だから考えないでおこう。
差し出された男性の、汗で湿った手をじっと眺める。
誰かが日本は治安がいいって言ってたけど、親切な子ども好きの人がいるだなんて確かに治安がいいのかもしれない。そもそも日常的にスリに合うこともナイフで切りつけられることもないのだから、今更な感じもするけれど。
あまりにも僕が何も言わずにいたからだろうか。男性が急かすようにその手を伸ばし――
「うボゲェ!!?」
その横顔に、綺麗な弧を描いたサッカーボールがめり込んだ。…あ、気絶してる。ごろん、と蝉の死骸のように転がる男性を眺めていれば、突然誰かに右手を引かれた。
「Was!?」
驚いて口から出た言葉は当然不慣れな日本語ではなかったが、僕の手を繋いだまま走る彼には聞こえなかったらしい。
……というか、どういう状況なの? これ。僕の前を走る少年と、僕と同じように手を引かれて走る黒髪の少年。黒髪の子のほうが全体的に小さいところを見るに、兄弟だろうか。バサバサと翻るスカートの裾に足を取られつつ、そんなことを考える。
ようやく少年が足を止めたと思えば、それはどこかの家の前だった。なんの躊躇いもなくドアを開けたあたり、どうやら彼の家らしい。
出迎えた女性が僕の姿を見て驚いているのをぼんやりと観察し、しばし口ごもる。ええと、日本語の挨拶ってなんて言うんだっけ。
「…Guten Tagこんにちは?」
思い浮かばないまま、とはいえ何も言わないのは失礼だろうと遠慮がちに女性を窺い見る。分厚い言語の壁が作り出した困り顔の女性と首を傾げる少年たちに、僕は早急な日本語の習得を決意せざるを得なかった。
***
歓声を塗り潰す実況、プレー解説に滲む興奮。アナウンサーが選手の名を挙げ称賛するのを聞き流しながら、僕はぺらりとページを捲る。
手にしているのは和英辞典で、日本語を学ぶ教材としてはこれ以上ないほど適当だ。僕の家にもあればいいのになんて思うけれど、誕生日ですらフリルと刺繍たっぷりの日傘をプレゼントしてきたあの母親に言っても無駄だろうことは想像に難くなかった。
「仁稀」
名前を呼ばれて振り返れば、僕の目よりも濃い緑の瞳と視線が合う。テレビに流れるコマーシャルが次の瞬間には真っ暗になり、冴が電源を切ったことがわかった。
「おわったの?」
「ああ。着替えろ、サッカーやるぞ」
「サッカー!」
手渡された体操着に着替えるのも、もはや慣れたことだった。胸元の名札に『いとしさえ』と大きく書かれたそれは僕の身体よりもワンサイズ大きかったが、フリフリのスカートよりもずっと動きやすい。
着替えが終わって部屋を出れば、サッカーボールを小脇に抱えた冴の後ろから待ちわびたとでも言うように凛ちゃんが顔を覗かせた。
すでに靴を履いて準備万端な彼らに追いつくためこれまた借り物のスニーカーに足を通せば、後ろからおばさまに「五時までに帰ってくるのよ」と声をかけられた。
糸師家との交流が始まったのは、僕がフシンシャに話しかけられた日からのこと。僕と凛ちゃんの手を握って家まで駆けた冴はおばさまに経緯を説明し、次いで連れてきてしまった僕との意思疎通を図った。
当時の僕は日本語を聞き取れはするものの満足に話せず、冴とおばさま、ついでに凛ちゃんも僕との会話にずいぶん苦労していたと記憶している。
心配性なのか、はたまた兄という属性が彼をそうさせているのか。その後は冴と公園で会うたびに「知らないやつについてってないか」「話しかけられてもちゃんと無視してるか」と聞かれるようになった。下手したら凛ちゃん以上に年下扱いされているかもしれない。凛ちゃんよりも僕のほうが一年早く生まれたのに。
距離が縮まるにつれ、冴は僕が遠目で見ることしかできなかったサッカーを近くで見せてくれるようになった。
ボールを操る冴は、夢に見た彼のようで。いつだったか、僕は興奮のあまり彼からボールを奪ってしまったことがある。
おかげでほんの少し裾の汚れたスカートを見咎めた母に絶叫されたけれど、その日から冴にサッカーに誘ってもらえるようになったことを思えば後悔はまったくなかった。
「仁稀はクラブチームに入んないのか?」
ぽん、と冴が胸で押したボールが僕の足元に落ちる。完全に地面に着く前に足の甲で高く上げ、僕はラリーを続けるように腿を使ってリフティングした。
「クラブチーム?」
「俺たちが入ってるサッカーチームみたいなとこだ。うちは三歳から入会できるし、お前ならすぐレギュラー入りできんだろ」
相槌代わりにボールを凛ちゃんへパスする。チームかぁ、考えたことなかったな。そもそも半年前まではサッカーができるとも思っていなかったし。
「仁稀ちゃんといっしょにサッカーできるの?」と目を輝かせる凛ちゃんに、僕は曖昧に口角を上げた。
「やりたいけど、ゆるしてもらえるかな」
「仁稀ちゃんのママ、きびしーの?」
「きびしい……どうだろ…?」
理想と外れた言動をすると怒る母が、世間一般で言う「厳しさ」にあてはまるのかは不明だ。けれども二人のお母さんが僕の母と似ても似つかないことを考えると、少なくとも糸師家とうちの教育方針は違うのだろうとは思う。
そんな漠然とした感想を抱くぐらい、僕にとっては興味のないことだった。というか、僕は僕の母に対して思考の容量を割くほどの関心がなかったのだ。
そうしてその日、僕はいつも通りお姫様チックな服を手に叩き起こしてきた母に、クラブチームに入りたいと言った。
ひとつ言い訳をするならば、この頃の僕は僕を着せ替えるための僅かな時間しか接することのない母よりも、糸師のおばさまや冴たちと交流することが増えていて――少しばかり、母への対応の仕方を忘れかけていたのだ。
「私の理想の仁稀ちゃん女の子はそんなこと言わない! サッカーなんて野蛮な男の子のスポーツやりたいなんて言うわけないの!!」
ぼきん、と本来の方向とは真逆に折り曲げられた左足に痛みが走る。
僕を押さえつけてくる肘がちょうど胸の上に当たり、肺が膨らむことを阻害する。呼吸のできない苦しさに喘ぎながら、僕は内心で溜息を吐いた。
――あーあ、失敗しちゃった。
生理的な涙に滲んだ視界の中、二人になんて言おうかなとぼんやり考えていた。