鼓動が速くなっているのが自分でもわかる。それはど、ど、と大きな音を立てて、この恐ろしい場所からいますぐ離れろと僕に訴え続けている。
逃げようと思えばいつでも逃げられるのだ。おそ松兄さんは僕に、ここにいろとは言わなかった。先に帰る、と告げてこの場を立ち去っても、兄さんは僕を責めたりはしないだろう。
けれど僕はそこを動かなかった。長時間にわたる疲労と恐怖が、足を重くしているというのもある。しかし何より、この状況を作り出したきっかけが僕にあるということ……他でもない僕自身が、兄さんにあのような行動を取らせているのだとわかっていたから、ひとりでとっとと逃げ出すなんて、そんな真似できなかったのだ。
「一松ゥ」
ざ、ざ、とシャベルで土を掘る手はそのままに、兄さんが呼びかけてくる。いつもと変わらないのんびりとした声が、いまの僕の耳にはひどく不気味なものとして響く。なに、と返そうとして、口のなかがからからに渇いているのに気が付いた。喉の奥から絞り出すようにして、僕はなんとか声を出す。
「……なに。兄さん」
「んー。悪いんだけどさあ、煙草。吸っていい?」
そう言ったところでようやく手の動きをとめて、兄さんがこちらを振向いた。煙草。そんな、普段ならなんでもないような言葉にすら動揺を覚えている僕に、果たして兄さんは気が付いているのだろうか。
「別に……いいんじゃない」
持ちうる限りの冷静さで返すと、兄さんはふう、とひとつ息をつき、持っていたシャベルを地面に置いた。煙草を取り出そうとズボンのポケットに手を伸ばしたところで、自分がいまはめている軍手の存在を思い出したらしい。手をおおっているそれを無造作に外し、シャベルの方へ放り投げる。
「悪いな」
申し訳なさそうに言って、小さな箱から抜き出した一本をうまそうに喫み始めた兄さんの横顔を、僕はこっそりと窺っていた。そこからは僕がいま感じているような恐怖も、焦りも、後ろめたさも見て取れない。うっすら弧を描いた目元と口元には、この状況を楽しんでいるとでも言いたげな余裕すらあった。
僕は信じられない思いで、とうとう兄さんに問いかける。
「あんた、どうして……」
兄さんは、兄さんの足元に転がる黒ビニールに包まれたかたまりを見下ろしながら、ゆっくりと煙を吐き出した。
昨夜の話だ。なんだか無性にアイスが食いたくなった僕は、ひとりで近所のコンビニまで出ようとしていた。サンダルをつっかけ、玄関の扉を開けたとき、おそ松兄さんが駆け足でやってきて、もうすぐ煙草きれそうなんだけど、と言った。いや、自分で買えよ。僕が返すと兄さんは、ケチだなーなんて文句を言いながら、それでも素直に靴をはいた。
ぽつぽつとくだらない話をしながら歩いているうちにコンビニに着いて、お互い目当てのものを手に入れることが出来た。僕はカップアイス。おそ松兄さんは煙草。
そこまではよかったのだ。
帰り道、公園の横を通りすがったとき、暗がりの方から何か物音がした。兄さんが、カップルじゃねえの、冷やかしに行ってやろーぜ、と言って、小走りに音の方へ向かっていった。僕ははやく帰りたかったのだが、まったく興味をひかれないわけではなかったから、アイスの入った袋をぶら下げたまま兄さんの後に続いた。
ベンチの裏の茂み。音はそこから聞こえた。先に覗いていた兄さんの隣に立ち、僕も夜の闇に目を凝らす。
そこにいたのはカップルなどではなく、小太りの中年男だった。地面に座り込んで、何やらぶつぶつ言っている。
あ、これやべえ奴だ。そう思ったとき、男の周りに何かが散乱しているのがわかった。
たくさんの猫の死体だった。
大きいのから小さいのまで、見覚えのある猫も何匹かいる。
頭が、カッと熱くなるのを感じた。
何してんだ、テメエ。自分でも驚くような低い声で言いながら、僕は男の胸ぐらを掴んだ。男は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにニヤッと笑って、嫌いなんだよ。猫が。そう答えた。
制御不能な怒りというものを、僕はこのとき初めて知った。
僕は、おそ松兄さんがとめるのも聞かずに、その男の腹を、渾身の力を込めてぶん殴った。何発も何発も。殴っただけじゃない。痛みに蹲った男の頭を、胸を、足を、蹴り飛ばし踏み付け続けた。
ふと我に返ると、男が地面にぐったりと横たわっていた。
「それ、たぶん死んでるよ、一松」
肩で息をする僕に、兄さんが静かに言い放つ。
「は……? 死……?」
冷静になっていく頭で、僕はその意味を考えた。死んでるよ。痛め付けられた男はぴくりとも動かない。先まで出していたはずの呻き声ももうない。僕が……僕が殺したのか?
体が震えだした。ただただ恐ろしかった。自分がしてしまったこと。そして、この過ちによりこれから起こるであろうこと。様々な想像が一気に膨れ上がって、気付くと僕は、みっともなく泣きじゃくっていた。
「とめたんだけどな。一応。でもお前、聞いてないみたいだったし」
男の死体のそばには、放り出され袋から飛び出たアイスが転がっている。
「ま、やっちまったもんは……しょーがないだろ」
穏やかな声で言う兄さんの顔を僕は見た。涙で視界はぐしゃぐしゃだったが、声と同じに落ち着いた表情をしているのが見て取れた。
「とにかく、こいつを隠さなきゃな」
この言葉を、どこかで期待していたのかもしれない。
あとは兄さんに指示されるまま、夜が明ける頃には県外の山林の奥に、二人で男の死体を埋めにきていたのだった。
兄さんの口から吐き出された煙が、ゆらゆらと朝の澄んだ空気のなかに溶けていく。
「ん? なんか言った? 一松」
かたわらに人間の死体があるというのに、しかもそれを埋めるための穴を掘っている真っ最中だというのに、兄さんにはまるで取り乱したところがない。
僕は兄さんに詰め寄り、その見慣れたパーカーの襟元を掴んだ。突然のことに、わ、と言って兄さんが煙草を取り落とす。
自分だけが混乱しているというこの状況が恐ろしかった。目の前で、なんでもないという顔をしているおそ松兄さんに、それをぶつけたかった。受け止めて欲しかったのかもしれない。
「どうしてそんな……平気な顔してられんだよ……」
吐き出すように僕が言うと、へらへらとした表情はそのままに、兄さんがすこし目を細めた。しばしのあいだ見つめ合い、そして、
「……手ェ震えてる」
兄さんが、兄さんの襟元を掴む僕の手を、そっと包み込んで、言った。重ねられたてのひらはあたたかく、ほんのり汗ばんでいる。僕は自分の手から、自然と力が抜けていくのを感じる。
兄さんは、地面に落ちた吸いさしの火を靴裏で踏み消した。
「だーいじょうぶ……なんとかなるって。ま、なんとかならなかったらそんときは」
可愛い弟の代わりに、おにーちゃんが地獄に落ちてやるから。……
愕然とした。あれは、兄さんが掘っているあの穴は、そこで転がっている死体のためのものなどではなかった。地獄の入口。あれは地獄の入口だ。兄さんは、自ら望んでそこへ飛び込むつもりなのだ。僕の身代わりとなって。たったひとりで。
心臓の音はいま、不思議と落ち着いていた。僕は力なくその場に座り込む。座り込んで、目の前にいる人がふたたびその手に薄汚れた軍手をはめるのを、ただ呆然と眺めていた。
墓掘りはようようと帰る
↑この文章を元に描いてもらった漫画です。