「はい、では六十円のお返しです」
スレイくんはそう言うとにっこり笑いながら釣銭を差し出してきた。私の手にきちんと自分のそれを添えて。こんなに丁寧な対応をしてくれるコンビニ店員を、私はスレイくんしか知らない。スレイくんの柔らかな笑顔と張りのある爽やかな声は、出勤前のサラリーマンの憂鬱をわずかの間ではあるが和らげてくれるのだ。
「ありがとうございました!」
耳に心地好いその響きを背に私は店を出た。駅までの道を歩きながら、先までスレイくんの手に包まれていた自分のてのひらを見つめ、その感触を思い返す。それだけで元気が湧いてくる気がする。
今日も可愛かったな……。
スレイくんはおそらく学生だが、春期休業の時期だからか近頃ではほとんど毎朝あの店でレジを担当している。かれの笑顔にどれほど私が救われているか……大袈裟かもしれないが、私にとってスレイくんはまさに神のごとき存在だった。コンビニへ行けばいつでも会える神さま。
一年ほど前、給料が上がらないのを妻に一方的にがなり立てられながら、いつにも増して陰鬱な気分で家を出た朝、私ははじめてスレイくんと出会った。今でもはっきりと覚えている。いつも中年の女性店員が立っているはずのレジにかれがいたのだ。いらっしゃいませ。私がお茶と弁当をレジに出すと、満面の笑みでかれは言った。朝からずいぶん元気のいい子だなと思いながら私は代金を支払った――支払って、ぎょっとした。
釣銭を受け取ろうと出した私の手に、かれがそっと自分の手を添えてきたのだ。
こちらがぎくりとしたのが伝わったのだろう。
「あ、嫌でしたか……? すみません」
かれは申し訳なさそうに添えた手を引っ込めると、釣銭だけを丁重に私のてのひらに載せた。
驚きはしたが、私は嫌ではなかった。むしろその礼儀正しい優しさは私の沈んでいた心を確かに励ましてくれた。
「び、びっくりしただけで……嫌ではなかったよ」
なんとかそれだけを伝えると、私はすぐにレジに背を向け歩き出した。店を出る瞬間、かれがはずんだ声でありがとうございました、と言うのが聞こえた。
それからというもの、私は毎朝あのコンビニに通い続けている。
スレイくん。名前は制服につけられた名札で確認した。もちろんかれに向かって直接呼びかけたことはない。こうして心の中でそっとその名をなぞっているだけだ。
辛いことも苦しいことも何も知らないという顔で声で笑うスレイくん。
あたたかなものや優しいものにだけ大事に大事にくるまれて生きてきたようなスレイくん。
かれと私の生きている世界はきっと違うのだ。あのコンビニだけが、スレイくんと私とを繋いでくれるたったひとつの場所だった。
だからその夜、誰もいない道の端に倒れているかれの姿を見つけたとき、私ははじめてかれに会ったとき以上の衝撃を受けた。
「す、スレイくん……?」
柔らかそうな茶色の髪に、清潔感のある顔立ち。見慣れない私服姿ではあったが、電柱のそばに横たわっているのは、間違いなくあのスレイくんだった。
スレイくんは私の声に反応してか、ぴくりと肩を揺らすと、伏せていた瞼をゆっくりと上げた。それから顔だけを動かし、きれいな緑色の瞳でこちらを見上げてくる。
「……え? あれ、おじさん確か……」
スレイくんはまだ意識がはっきりとしないようで、ぼんやりとした表情をしている。一体何があったのかと聞こうとした瞬間、
「ん? なんでオレの名前……」
しまった、と私は思った。これでは変質者のようではないか。私は急いで、
「あ、な、名札に……コンビニの」
「名札、……あ、そうか、店の」
スレイくんは得心したように頷くとすこし笑って、よいしょ、と上半身を起こした。が、立ち上がる力はなかったらしい。電柱に背中を預けて、座っているのがやっとという様子だった。
「きゅ、救急車を」
「あ、いや、大丈夫です! 具合が悪いとかじゃなくって、その……」
スレイくんは俯き、気まずそうに言葉を濁した。具合が悪いのでなければ、なぜこんなところで倒れていたのだろう。疑問と心配とが入り交じった気持ちでスレイくんを見つめていると、かれは顔を真っ赤にしながら消え入りそうな声で続けた。
「その……三日前からほとんど何も食べてなくて……」
思いがけないその告白に、私は愕然とした。
ほとんど食べてない? 三日前から?
「あ、きゅ、給料日前で。でも大丈夫です。慣れてるから」
私の戸惑いを感じ取ったのだろう、スレイくんは慌ててそう付け加えた。しかし付け加えられたかれの言葉が私の動揺を和らげることはなかった。
――私はずっと、かれのことを神さまのようだと思ってきた。朝、コンビニへ行けばいつでも会えて、職場でも家庭でも邪険にされている私に優しく微笑みかけてくれる神さま。
だが違ったのだ。
かれは神さまなんかではなかった。かれもまた、私と同じ……人間だったのだ。
あくせく働かなければ食っていけない。食わなければ当然腹が減る。腹が減るのは生きているからだ。かれもこの、理不尽なことばかりの社会で一生懸命に生きている、ひとりの人間だったのだと……いま、ようやく悟った。
私はスレイくんに肩を貸してやった。スレイくんはよろけながらもどうにか立ち上がる。肩にまわされた手首の細さを、私は今更ながらに知った。一年近くもかれを見てきたというのに……いままで気が付きもしなかった。
「すぐ近くにうまいラーメン屋がある。奢るよ」
私が言うと、かれは眉尻を下げて首を振った。
「え、あの、それは悪いです」
「いいんだ。そうしたいんだ」
私は半ば無理やりラーメン屋の方へ向かって歩き出した。スレイくんはしばらくのあいだ、本当に悪いから、とか、大丈夫です、などと口にしていたが、やがて、
「ありがとう、おじさん」
そう言って、嬉しそうに笑った。
その笑顔はやっぱりいつもの清らかさに満ちていて、私はすこし泣きそうになった。