またリジェクトか。
徒労に終わってしまった計画書を鞄へと仕舞いながら、財政部の無駄に長い廊下を歩く。
玄関へとたどり着くと、来た時にはなかった湿った匂い。土中の放射菌が作るジオスミン――、一般的には「雨の前のアスファルトの匂い」と表現される、あの独特の匂いだ。まだ降ってはいないようだが、ラボに帰る途中で一雨来るのは確実とみていいだろう。
この時期の雨だから降ってもおそらく通り雨。ここで雨が止むのを待ってからラボへ帰るのが良いのだろうが……。
そこはかとなく立ち込めるジオスミン臭が徐々に強くなるのを感じながら、白衣の裾を軽く整えて玄関を出た。
雨宿りをしてから出るのが賢明だ、と頭では分かっていても、進んで行く足を止める気にはならなかった。政治的な理由を並べ立てて科学の可能性とまともに向き合おうとしない保身だらけの衆愚のいる棟に留まりたいとはとても思えない。ずぶぬれになろうが早く自分のラボへと帰りたかった。
時として、衝動的な選択というのは良くない結果をもたらすものである。今がそうだ。
ハッと口角を上げて笑ってみたが、生憎この皮肉で笑ってくれる彼彼女は現れそうにない。
濡れ鼠、と表現するほど悲惨な状態には未だ至っていない。しかし、頭上で急速に発達していく積乱雲が雨量をさらに増やすのも時間の問題だろう。
走っても、ラボへの道のりはまだ随分とある。
「なんだか、疲れたな」
走る気にもなれず、足を止める。ベンチでもあったなら、雨に打たれるのも構わず座り込んでしまいたい。そんな衝動を覚えたせいか、衆愚の棟へ戻るのも、ラボへ進むのも急激に面倒になってきてしまった。ここに留まっていたって、それこそ何の意味もないのに。
「ドクター……?」
雨音に混じって小さく響いた戸惑いの伺える声に振り向くと、パウダーブルーに白いつる薔薇の織られた傘の下でナマエがみるみると目を見開いていった。
「ドクター!」
悲鳴のような声でもう一度僕の名を呼んだナマエは、小走りで駆け寄ってきたかと思うと僕に持てとばかりに彼女が差していた傘の柄を手元へぐいぐいと押しつけてきた。地面へ落とすわけにも行かず、有無を言わせず押しつけられたそれを流れのまま利き手で受け取ると、今度は鞄を持っていた方の手首をぎゅっと握られた。
「ナマエ?」
「⋯⋯」
雨音で僕の声が聞こえていないのか、ナマエが僕の手首を掴んだまま黙々と前を進んでいく。傘の内からはみ出ることを厭わずに進んでいくものだから、ナマエに雨が当たらないようにと僕の歩くスピードもナマエに合わせた早さになっていく。雨のせいか、何も言わずに前を歩いていくナマエに漠然とした不安が広がっていく。返事がなかったのは何か苛立っているのか、ただ僕の声が聞こえていなかったのか、それとも——口を利きたくないほどに僕を嫌っているのか。
最後に立てた仮説が脳内で反芻され、ドクリと心臓が跳ね上がった。途端にすっかり大きくなっていた雨音が嫌になるほどクリアに耳に入ってくるようになり、雨に濡れた身体から随分と体温が奪われていたことにも気がついた。
濡れた野良犬のような、行き場のない気持ちのまま彼女に手を引かれているといつの間にか普段来ない棟の玄関へと入っていたようで、今までずっと視線の合わなかったナマエがくるりとこちらを振り向いた。
「ドクター・ゼノ!風邪引いたらどうするんですか!今すぐかがんで!」
怒りを乗せた、初めて彼女から向けられた厳しい口調に考える間もなく身体が動いた。「かがんで」という言葉の通り膝を折ると、持ったままの傘の先から水滴が落ちて膝を濡らした。
僅かに眉を顰めたナマエが開いたままの傘を僕の手から奪ってぽいと玄関の端へ置いた。丁寧な彼女にしては随分荒っぽい所作だなと傘をぼんやり眺めていると、屈めている頭にふわりと柔らかい何かが乗った。
「ひざ掛けですけど、そのままよりはマシでしょう?」
タオル代わりに使えということらしい。
前髪にかかるペールグリーンのラップ・ローブには小粋なワイルドストロベリーが描かれている。シミ一つなく、繊維のほつれや毛羽立ちもないこれは、きっと大切に使われてきたのだろう。雨水で汚すのは憚られて屈んだままの姿勢で硬直していると、ナマエがむっと顔をしかめ、わしゃわしゃと僕の頭を拭き始めた。
「ナマエっ……?」
「ボーっとしてるドクターが悪いんですからね。ヘアセットが崩れたとか、文句は一切聞きませんから!」
水浴びした犬へするようにラップ・ローブを動かしていたナマエが、仕上げとばかりに前髪を左右からぎゅっと挟み、同じ力で両耳の水分を拭き取った。
薄手のラップ・ローブ越しに伝わってきたナマエの手のひらの熱が離れていくのが名残惜しい。彼女に叱られるのだって、驚きはしたが悪い気持ちはしなかった。
まだこのままでいたいなんて言ったら、ナマエを困らせるだろうか。
どうすれは、少しでも長くナマエを留まらせることができるだろうか。
手早く畳んだラップ・ローブをレストランのウエイターのように腕へかけていくナマエを見つめながら逡巡していると、彼女が先程放り投げたつる薔薇の傘を拾いあげた。
「ドクター、何かありましたか?」
「⋯⋯別に、何もないさ」
リジェクトされてヘソを曲げて、さっさと大好きな自分のラボへ帰ろうとしたらこのザマですなどと言うわけにも行かず、何でもないふりをする。聡い彼女が受け流してくれるのを待っていると、ナマエは拾いあげた傘を手に僕を見上げた。
「本当に?」
「……ああ。本当だよ」
澄んだ瞳から僅かに視線を逸らすと、ナマエは僕の頭上へと傘を差した。まるで、打ち付ける雨から僕を守るように。
一歩進み出て、抱きしめられる近さまでやってきた彼女がやわらかく微笑んだ。
「ここは薔薇の下ですから、どんな秘密も守られますよ」
その一言で、外で降り続いている雨音が止んだ気がした。
傘の内側にもぐるりと描かれているつる薔薇を眺めながら、いつの間にか引き結んでいた口元から自然と力が抜けていく。
「なるほど、Under the rosesということか。確かに内緒話にはうってつけだね」
「ええ」
傘を差したまま、ナマエが玄関の角に置いてあったベンチへと座り、傘を僕の座高くらいまで掲げて空いている隣のスペースを勧めた。
絶対に聞いて欲しい秘密があるわけではない。むしろ、男として魅力的に感じて貰えそうな何かを示す前から恰好のつかない部分を曝け出すのは気が引ける。彼女の前ではいつだってエレガントでいたい。
確かにそう思っているのに、話を聞いて欲しいと思うのもまた真実で、僕は導かれるようにしてベンチへと座りこんだ。
「彼彼女の名前は伏せるが、……科学を理解する頭がない人物に不満がある。僕より歳も役職も上なのに」
「ええ」
否定も肯定もせず、ナマエはただ頷いた。
穏やかなたった一言の相槌を聞いただけで、言わずに済ませようと思っていた不満が堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。
「こちらが何度科学的に事実を説明しても政治都合と感情論ばかりでね。実験結果より、政治家がどう思うかという理由を優先する。議論にならないんだ。……理解しようともしない人間に、研究の舵を握られることが耐えられない」
言うつもりのなかった本心。
それを言葉にし終わった瞬間にマズいことを言っただろうかと頭に冷静さが戻って来る。
ナマエも研究者ではなく、紛うことなき事務方の人間だ。同じ分野の人間をいきなり悪く言われて良い気分にはならないだろう。
ナマエの顔を見ることができず、膝に置いたままの自分の両手のこぶしを眺めていると、静かに聞いていたナマエが口を開き、それに合わせて傘が僅かに揺れた。
「それは……悲しいですね」
「……え?」
悲しい。……そうだろうか?
感じていた不満は悲しみなどではなく、怒りだった……ように思う。言葉を尽くしても分かり合えない苛立ち、端から理解する気などないと言わんばかりな政治家の方向ばかり見て意見を発する相手への憤り……。
うん。悲しみなどではない。僕の中にあったのは怒りだ。
「君は悲しいと?」
「……?ええ。部署が異なっても皆NASAの一員です」
言うんじゃなかった、と膝の上のこぶしに力が入った。
ナマエが何と言うつもりか、続きを聞かなくても分かる。何が悲しいか?決まってる。「仲間を悪く言うなんて悲しい」と、きっと彼女はそう言うつもりだ。ボランティアの電話相談員が言いそうな上辺ばかりの綺麗ごとなんて聞きたくない。
「実力の優劣はさて置き、NASAという機関に入るくらい、皆科学が人並み以上に好きなはずでしょう?それなのにしがらみで科学の話が置き去りになるのは悲しいじゃないですか」
「……!」
胸を占めていたのは確かに怒りだったはずなのに、ナマエの言葉は驚くほど自然に、ストンと胸に落ちた。
「仲間を悪く言うなんて」という非難はもちろん、「でも仕事だから」、「相手にも事情がある」なんて慰めは一つもない。
それでいて、怒りに隠れて存在していた僕の感情を見つけてくれた。
悲しかったのだ。
エレガントな科学の可能性に見向きもされないことが。
悲しくて悔しくて、寂しかったのだ。
もちろん、大して中身を見ずにプロジェクトをリジェクトした、科学への理解を示そうとしないしする頭もない彼に対して静かな怒りもかなり感じてはいるけれど、自分でもうまく見つめることの出来ずにいた感情を、ナマエがそっと見つけてくれた。
「ナマエ。僕は、君が――」
この先を伝えて、どうなる?
ナマエと僕がこうして親交を保っているのは、お互いが善き同僚だからだ。ナマエは時折耳に入れておいて困らない予算部の動きについての情報を持って来るし、僕もナマエに渡しても構わない程度の研究情報をほんの少し共有している。ある種のギブアンドテイクで、僕たちの関係は成り立っているのだ。
欲をかいて今ある最良のバランスを崩すべきでは、ない。
「――君がスパイだったら危なかったよ」
奥歯を噛んで飲み込んだ言葉の代わりに肩をすくめてそう言うと、ナマエは小さく首を傾げた。
「そう……ですか?ドクター、何をしても引っかからなそうですけど」
「いや。“薔薇の下”の効果は絶大だよ。このまま機密を聞かれたら答えていたかもしれないな」
「まあ。じゃあ悪用しないようにしないと」
傘をくるくると回しながら冗談めかした口調でナマエは言ったが、なんだろう。冗談に聞こえない。
「君、他の研究者にも似たようなことをしていないだろうね?」
1つの可能性を想像して、体温が瞬時に低下した。
もしも、孤独な研究が行き詰まった者が今の僕と同じように傘の下に入れられたなら。彼彼女の悩みは大きく軽減されるだろう。
だが、僕ら科学者にとって理解者という存在は非常に貴重だ。傘下へ招かれた幸運な彼彼女は――ナマエという理解者を一度手に入れたら、二度と手放したくなくなるに違いない。
嫌だ。同じ科学を志す者であっても、ナマエの隣だけは譲りたくない。⋯⋯取られたくない。
僕だけでありますように。
僕だけでありますように。
僕だけでありますように。
流星へ願い事をする子供のごとく脳内で唱えていると、ナマエがいつもと同じように微笑んだ。
「ふふ。さあ、どうでしょう」
傘を小さく揺らして、ナマエはどちらともつかない返答をした。
僕といったらナマエの言葉の隕石で気が気ではないというのに、ナマエときたらやけに表情が晴れ晴れとしていて随分楽しそうである。
さてはナマエ、僕をからかって遊んでいるな。
手のひらで転がされている感覚にムッと口がとがっていく。
このままやられっぱなしでいられるか、という対抗心が湧いてくるのも仕方のないことだろう。
「アンフェアじゃないか」
「はい?」
「僕だけ一方的に秘密を喋るのは不公平だろう?君も何か言うべきだ」
これでは押し売りもいいところの、めちゃくちゃな理屈だと自分でも思った。
僕が彼女であれば確実に言い返すところだが、ナマエは困ったような苦笑交じりの吐息を漏らすに留まった。
「そうですねえ」
言ってみるものである。ナマエも何か、僕へ秘密を教えてくれるらしい。思わずナマエの方へと前のめりになりそうになるのを抑え、ナマエの持つ傘の柄を支えようと手を伸ばした。
「小さい頃、父がフランス土産にパンをくれたことがあったんです。観光名所でもなんでもない、街のブーランジェリーの。それがなんだか嬉しくて、食べるのがもったいなくて明日にしようって思ってたら⋯⋯そのパン、カビが生えてしまって⋯⋯」
⋯⋯。まさかこれで終わりだろうか。
僕の明かした秘密は同僚への不満。
ナマエの明かした秘密は幼い頃のカビたパン。
なんと言うか、これでは――。
「僕の秘密と違って随分可愛くて微笑ましいエピソードじゃないか」
「まあ。今も忘れず気にしているくらいには、私の中では大きな秘密ですよ」
もっともらしいことを言っているように聞こえるが、どうも上手いことを言って逃げられている気がする。
ナマエの秘密は吹聴されて困る類のものではない。ナマエが僕に明かせる胸の内——僕への信頼というのはその程度なのかと、 恨みがましい気持ちを胸の中で沸々と湧き上がらせていると、ナマエは靴のつま先のあたりを見つめながらポツリと言った。
「雨がもっと酷くなればいいのにと思ってました。週末にお見合いがあるんですが、父には申し訳ないけれど気乗りしなくて」
笑い話のような口調でナマエは言ったが、ごまかしを含んだ笑みはいつになくきまりが悪そうだった。
そして――見合い!?
今ナマエは見合いと言っただろうか。
言った。確かに僕は聞いた。週末に見合いだと。気乗りしないとは言っていたが、彼女の判断だけで決められることではないのだろう。
こんなとき、ナマエと自分との関係が「職場の同僚」に過ぎないことがもどかしい。恋人や、将来を誓い合った仲であったなら、堂々と止めることが出来るのに。
今の関係を壊さず、且つ他者との交流に正攻法で干渉できるほど親密な仲になるにはどうすればいいだろう。
自然と顔の前で右手をクロスした状態になって考えていると、ナマエが「あ、」と小さく声を上げた。
「雨、止んだみたいですね」
雨音がすっかり止み、薄暗かった窓の外は徐々に日が差し込むようになってきている。この調子なら完全な雨上がりの空気になるのはすぐだろう。
ナマエも同じように思ったのか、傘を僕らの頭上からそっと下ろした。
「ではドクター、さっきまでのお話はどうぞ内密に」
「ああ、君も⋯⋯〜〜アッックシュ!!」
最悪だ。エレガントでないタイミングで、エレガントでないくしゃみが出てしまった。
ナマエの前ではいつだってエレガントでいたいのに、どうも上手くいかない。
また鬱々とした黒い気分に苛まれそうになっている僕をよそに、ナマエはミームの猫そのままの驚いた表情をした。
「大変!ホールの控室にタオルがいくつかあったはずですから、ちょっと拝借して⋯⋯きゃっ――」
滑って転倒しそうになったナマエへ慌てて手を伸ばす。とにかく転ばないように。そう考えて伸ばした右腕は、狩猟本能のようなものなのか、気づけばナマエを自分の懐へとと抱きとめていた。
「君も案外そそっかしいな。目が離せないよ」
「すみません、ドクター。⋯⋯お恥ずかしいところを⋯⋯」
しゅんと肩を落とし、走って転びそうになったのをごまかすかのようにナマエがちょこちょこと小さな歩幅で歩き出そうとする。
「その控室、僕も一緒に行くよ。僕へのタオルで君が転んで怪我をしては心苦しいからね」
彼女の一歩前へ出て肘を差し出すと、それがエスコートのためのものだと瞬時に理解したらしいナマエは、そっとそこへ手を添えた。
「寒くないですか、ドクター?」
「ああ。君のおかげでだいぶいいよ。時間があったらこの後僕のラボに寄っていかないかい?お礼にコーヒーの一杯くらいは出すさ」
「おや、嬉しいです。機材を見ながら聞きたいこともあったので、ぜひ」
接触しすぎず、けれど確かに触れているナマエの体温が心地良い。
ナマエがラボへとやって来たら、コーヒーを飲んでいるうちに空模様が急変してしまえばいい。週末まで降り続き、予定もあらゆる都合も全て置き去りにして、僕の元へナマエを繋ぎ止めておけるくらいの天気に。
薔薇の下でも言えそうにない秘めた願望を胸に、控え室へと続く廊下をナマエと共に歩く。
僕の願いなどお構いなしで燦々と輝く夏の太陽が、ナマエの艷やかな髪を眩しいほどに照らしていた。