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 じりじりと照る太陽がやや傾きかける頃、#name#はそそくさと玄関から抜け出た。 時は正午過ぎ。うだるような暑さに通行人の数は疎らである。すぐ側の屋台を覗き込む。幌が深い陰影を生んで坪の中に入った果実を何だか不思議なものに見せた。そこで供え物と自分たちの食べる分を購入し、また歩き出す。 この時刻ともなると昼食の時間になるのと大層暑いのがあいまって、賑やかな市場はやや色褪せる。#name#はそんな時間帯に好んで買い物に出ていた。 暑いことはさして気にならず、また、暑い暑いと言って歩くのは結構好きだったからだ。 馴染み深い石畳を進み、物心ついてからずっと見上げてきた軒下を歩く。 籠売り屋を右に曲がり、薬湯のにおい香る薬屋の前を通ると、父の馴染みの巻物屋が見えて来る。 ここの店主もまた物心つくかつかないかの頃からの顔なじみで、唯一変わったことといえば顔の皺と声が深くなったことくらいだろうか。その店主が、こちらが声をかける前に声をかけてきた。 「やぁ#name#ちゃん、今日も暑いねえ。」 「ご機嫌よう、おじさま。父が頼みましたものは入りましたか?」 「実はまだなんだ。ごめんよ。それよりオミアイ、したって本当かい?」 流石片田舎。こういう事に限って広まるのが早過ぎる。 うぎゃあと内心渋面になりながら、ええ、とか、まぁ、等適当な音を紡いでおく。 「あんなに小さかった#name#ちゃんも、もうそんな年になったんだねぇ。」 感慨深げに言うが、すぐ下の妹の結婚式の際も同じ事を言っていた記憶がある。 この店主は決して悪い人ではないが、時折話しすぎる時がある。目的のものもまだ入荷していないということであるし、店主もまだまだ話を聞きたそうだということもあって、早々にその場を退散することにした。 「お見合い、ね。」 果たしてあれをお見合いと呼ぶのだろうか。 水酌みをする人たちに気をつけながら大通りを抜ける。 暑かった。 そして静かだった。どこからかやかんの静かに沸く音がして、余計に静けさを掻き立てる。 暑い。その筈なのに薄ら寒いものが背中を走って、#name#は左手を握り締めた。 指、それと目だ。 まだ、思い出すだけでも怖ろしいのだ。  教団の団員だという灰色の頭巾の男にほぼ脅されるような形で同席させられた。その席で。 何故、今、私なのか。そう何度も同じ疑問ばかり頭の中に浮かんで、そして戦慄した。 教団内において一、二を争う実力を持つというその人の左手は指が一本、欠けていた。 自分でも失礼だとは分かっていたが、ただ怖くてまともに顔を上げることも上手く行かず。だが一度だけ、一瞬虚ろで剣呑な蒼白い光が黒い眼に踊るのを見た。 刹那、この喉を一掻きされたかのような、呼吸の止まるほどに切迫した気配。きっとあれが殺気と呼ぶものなのだろう。悲鳴すら生み出す余裕もなく硬直した#name#を見て、あの人はわらった、のだと思う。 明らかに、嘲りの色で。 住む世界の違う人のあることは知っていた。この場合が一番顕著な例のひとつだろう。 人を密かに殺める人たち。神学者のしがない娘一人とは、余りに住む世界の違う存在だ。きっとあの人は今頃#name#という名前すら記憶の外に払い落としているだろう。 なのに、何故。
「なんで、私にしたんだろう……?」 大導師アル・ムアリム。暗殺教団の要。なかなかの老獪であると父も評した人。直に会ったことは勿論ない。ただ名前だけはよく聞く。その人が今回のことを押し進めている。此方側に拒否権は、ない。 もう一度誰とも無く呟いたところで、まるで問いに答えるような。 ぴゃあ、と。 どこか遠く高くで声がした。咄嗟に視線を上空へ向ける。 鷲だ。 片田舎のこの街の上を、鷲はよく飛んでいる。 街のあちこちに点在する高い建物の天辺に留まっては、獲物を探している。 その、尖塔の天辺に―― 「……何?」 白い、陰を見つけた。 鷹ではない。大きい鳥ではない。あれは、人の形をしている。 「え……?」 視界を鳥影が遮った。鷲の背中の向こう側には、もうあの姿はない。 気のせいにしてはやけに鮮明な光景だ。鷲も飛び去った後の尖塔を暫く眺めていたが、通行人に文句をぼやかれたところで我に返った。 夕方になる前には帰らなければ。おそらく、また教団の使者が家に来るのだろう。#name#がいなければ父の立場が悪くなるだろうし、家人も怯えることだろう。 先程の光景も気になるにはなるが、今日はもう帰ろう。 そう思ったところでぎくりと、足が止まった。 雑踏の中にまぎれて神学者に似た風体の男性が立っている。 神学者なんてごくありふれたものであり、多少の規模を持つ街でならどこでも目にする光景の筈だ。 しかし、今回は違った。その神学者に似せた姿をした者はただ普通にそこにいるだけに過ぎない。にも関わらず、唐突に#name#は白刃を呑み込んだような寒気に襲われた。 あの人だ。 そう思った。 直感的にではない。ただ、解ったのだ。 白い姿はすぐに人混みの中に見えなくなった。 どくどくと耳の奥で酷い音がしている。眉間を嫌な汗が流れる。 こちらに気づいただろうか? じとりと首筋に伝う厭な汗がいやに気になって、#name#は逃げるように帰路へと駆け出した。