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 我々が何者かの顔を覚えたとしてもそれは情報の一つであり、何ら支障はない。だが、反対に我々が何者かに顔を覚えられることほど厄介なことはない。 だからこの度の件について異を唱えた。相手はよそ者の、それも単なる娘だ、と抗議したのだ。 「弟子よ。」 これに対して大導師はいつもの調子で飄々と言ってのけただけだ。 「鋭利に余る刃は己自身や仲間さえ傷つけてしまうものだ。故に、ある程度の鈍さも必要なのだよ。」 「私に、鈍れと?」 「殺気という己の中の牙を制御せよと言うておるのだよ。聞いたぞ? 先の席では彼女を随分と畏縮させたとか。」 彼女、とはいったい誰のことを指しているのか。思い出すのにいささか時間を要した。 先日まで存在すら知らなかった#name#という名前を記憶の中より探り当てた時には、アル・ムアリム及び周囲にいる他の団員たち一同からの視線を集めることになっていた。無論、心底呆れた色をしている。 「アルタイルよ。もしやつい先日会ったばかりの者を今の今まで忘れていたのではあるまいな。」 「そんなことはありません。」 しれっと言ってのけたものの、父親を亡くしてから師としてあるいは親のようにアルタイルを見て来た老人には全てお見通しらしい。どうだかな、とよく動く左目に睨まれ、アルタイルは背筋を伸ばす。 「先達て言うた通り、彼女の父親は神学者である。我が教団にもよく貢献してくれておる。――それに、こちらから言い出したことでもあるし、今更断れぬのだよ。神学者を怒らせると後々厄介でな。色々と。」 確かに街中に出る際、彼らの貢献によって無事遂行できた任務は数知れない。また、様々な伝承や歴史だけでなく技術や社会の動向の摂理、医療等多種多様な知識に通じた者も多く、断崖絶壁に孤立するマシャフにとって彼等は優れた情報収集媒体と言える。特にがちがちの本の虫であるアル・ムアリムにとって、弟子10人と同等の価値ある友人たちと言うべき存在であるらしい。 以前彼らから送られて来た膨大な量の書簡を運び込む作業を兄弟ら総出で手伝わされた時のことを思い出して、アルタイルは少々げんなりした。 「その厄介事、仰せとあらば私が」 「馬鹿たれ。」 アルタイルが何を言い出そうとしたのかを即座に理解したらしい。お前はすぐそうやって物事を力で押し通そうとする、と飛んだ恫喝には険が含まれている。 「道の真ん中にそうと知らず咲く花を刈ると言うのか?石や雑草であるなら兎も角、それが花であるのならば我々は植え替える手間を惜しむべきではない。」 「……花、ですか。」 「知識の花だよ。様々な情報を考察し、蓄積、伝達する。たとい一面の砂漠であってもやがては楽園のそれにも相当する鮮やかな野原へと変貌させる。それが知識だ。特に、彼女はなかなかに勘が鋭い。」 大概女というものは勘が鋭いものだがな、と。 思い当たる節がある様子を見せた弟子を面白そうに眺めながら老爺は顎を撫でた。 「さあ、では弟子よ。早速だがその楽園の苗木たちの様子を見に行ってはどうだ。そろそろ雑草が蔓延る時期だ。」  もしや、まさかと思ったが、彼の師の言は正しかったらしい。 雑踏の中の此方の存在に瞬時に気がついた。戯れにだが放った殺気を感じ取った経験もあるのかも知れない。しかし、だから何だと言うのだ。 左手の小指に力を込めれば、微かな音を立てて籠手の手首部分より刃が滑り出す。この刃を使うには薬指が邪魔だ。故に教団のアサシンには薬指がない。中には職人を兼業する故にそうしない者もいる。だがアルタイルにとって薬指のない左手は優れたアサシンの証であり誇りそのもので、彼女はそれを恐れた。否、畏れたのだろう。平和暈けした生活を送る者にとっては当然の話だが。 “彼女”ならばそうではないだろうに。 “彼女”ならば何と思うだろうか? “彼女”ならば、怖れずに畏れずに、微笑むのだろう。 必ず助け出すと決めた。こんなことをしている時間など無駄なだけだ。 世は何故こうまでままならないのだろうか。
***
 結局、懸念していたアサシン教団からの使者はあれ以降#name#の家に訪れることはなく、街中であの姿を見かけることもない。それはそれで薄気味悪い日々が続いている。 その代わり#name#は外出の度に高い尖塔の頂上を目で追うようになった。 やはりあれは単なる目の錯覚で大きな鳥か何かと見間違えたのだろうと一時思いもした。 だが、そんな考えも吹き飛んだのは、街中で最も低い塔の上に立つ姿を見たからだ。 違う、あれは人だ。 そう分かった。 何故なら鳥は手掴みでパンを食べたりしないからだ! あんな高所に登ることなど普通の人では出来る筈ない。 普通ではない人――。 まるで条件反射のように脳裏によぎったのは、雑踏の中に立っていたあの神学者風の姿をした彼、だ。騒々しい雑踏の中にいるというのに、その一部だけがあたかも異空間へ切り取ったかのように異様な空気を纏った白い姿。 これは偶々なのか。 またどこがで肉食の鳥が鋭く鳴いた。 今度は近い。 あの姿は大抵鷹や鷲の止まるほど高いどこかで見かける。そこで何をしているのかまでは#name#の視力では判別できない。 あれほどの高さから見える世界はどんななのだろうか。 そう思いながら、長いこと前も見ずに歩いていたのが良くなかった。 まずは違和感。いつも歩き慣れた大通りとは明らかに違う空気。はっと気がついた瞬間に、ぞっとするような猫なで声がからかけた。 「いけないねぇこんな所をあんたみたいのが歩いちゃ……。」 陽に赤く焼けた髭の男が通路を塞ぐ形で立っていた。 おい、と男が声をかけた曲がり角からはじわじわと大柄な姿が黴のように出て来た。全員口元に不穏な笑みを浮かべている。 まずい。と思い、次にしまった。と判った。 もう遅いのだが。 この街はオアシスから成り立ち、また街と街の間の中継点でもある。当然周囲には盗賊や追い剥ぎが出没するため、各街には警備隊が嫌でも必要となるわけだが、警備隊と言っても軍隊のようにある程度でも統制されたものではない。腕っ節を見込まれた無頼漢やチンピラ上がりも多い。 そして、どの街にも必ずと言っていいだろう、普通の街の住民なら決して足を踏み入れない区画が存在する。 #name#が立っていたそこはちょうどその境界線にあたる路地だった。そして、そこにいる警備員ということは、彼らは当然彼方側のもの、ということである。 「……失礼しました。直ぐに出て行きます。」 無駄だとは思うが。残念なことに予想通り、下品な笑い声がどっとあがった。 「こりゃあイイ「シツレイシマシタだってよ!「昨日のよりも「毛色の良さそうな「済んだらバラしても「いい金にもなりそうだ。」 聞くもおぞましい会話をなるべく聞かないよう後ずさった背中に当たったのは壁だ。他の道なんて、疾うの前に目の前の男たちに塞がれてしまっている! 濃厚な酒気と下卑た臭いが迫って来る。 髭の男が右手がこちらに伸ばすのが分かった。 こんな時ですら思い浮かぶ人物がいないとは、我ながら悲しい話だ、と。 まるで他人事のように頭の片隅が呟いた。