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 何故、悲鳴を上げない? 語弊がある言い方になるが、特に女は惨事に際して悲鳴を上げるものではないのか。 偶々高所に登っていたから分かったものの、普通だったらそうとは気づけないような奥まった場所で騒動は起きていた。悲鳴を上げれば大通りくらいには届いたろうに。 無性に、苛ついた。 これだから弱者は嫌なのだ。理不尽な力にねじ切られてゆく様というものは、見ていて不愉快極まりない。そこで相手の喉笛のひとつでも食い千切るくらいのことをすればいい、と。そんな技も力もない故に、だが、無性に苛ついてしまうのに変わりはない。 後になって街全体の空気を読むに、少々派手に動いてしまっていたようだ。自分では気づかなかったが、よほど苛ついていたらしい。  そう言えば、あの女。神学者の娘#name#が寝込んでいるらしいという話を街で聞いた。先の騒動で怪我こそしなかったものの、血に酔ったとか。それらの話を囁くのは路肩で遊ぶ子供や生活用品を売る店の亭主、薬湯香る店の客らしき老婆など様々だ。心から心配しているかどうかはともかく、まるで親戚のことのように話題に上げる人々。 この街で生まれ育った者ならば当然のことだろう。ただ、語られる内容の下らないまでの安穏さは、奇妙な居心地の悪さと自身の場違いさをむざむざと見せつけられているようで酷く嫌な気がした。 例えば、小さな庭園の花が咲いたこと。彼女の三番目の妹が懐妊したという風の噂、今週は三日ほど大衆浴場が休みになるといったこと。 あの程度の立ち回りを見ただけで伏せるとは納得の行くぬるさである。 ちょうどいい。 これで立つ世界の違いもよく分かったことだろう。彼女の方から断りが出れば都合がいい。 そんなことを安直に考えながら眼下の街を見下ろす。はたはたと、団服の裾が風に靡いて渇いた音を立てている。 そこは彼女の、#name#の住む街で一番高い塔の上だった。 「ここにいたか!まったくどこをほっつき歩いてたかと思いきや……。」 呆れた声。マリクも登ってきたらしい。 胡乱な眼差しに、大導師がお呼びだ、との言葉が応えた。 「どうやら俺たちに重要なご用事があるらしい。任務だ、アルタイル。」
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 死とは、境界線だ。 死は人と人の間に絶望的に横たわる。もう二度と会えない、などの生温い言葉で表しきれるものでもないそれは唐突にやって来る。まるで最初から誰も何も存在しなかったように。 また、これを犯すことでもひとつの境界線を超えることになる。それはある意味、ひとつのたがでもある。 この境界線の厄介なことは、ひとつを超えればふたつも沢山もそう変わらないと、勘違いし易くなることだ。 業とは、本人が気付いていようといまいと降り積もっているものだ。普通に生きていても業を重ねてしまうというのに、一つの人生を終わらせる業は、いかほどか。 では、一体何回? 彼は、いくつ境界線を引いて来たのだろうか。 一番最初の鮮血と狼狽と嘔吐感を経た後も、何度となく繰り返して、それを何とも感じなくなるまで。 「うぇ……。」 菜食主義になった記憶はない。ただ、あれからしばらく血の通うものを食べることを精神が拒否していた。 血糊をがぶ飲みした。 最悪な表現をするとすれば、そういった気分だ。 羊など家畜の血液を料理に使う地方もあるとは聞くが、それとこれとは話が違う。本当に、あんなに沢山の血を見たことなどなかった。喧嘩や暴動、敵襲など流血沙汰と無縁とは、悲しいかな、言えない時世である。それでも気が動転してしまった。……いや、これは単なる言い訳だ。 私は彼を心底怖いと感じたのだ。漠然と感じていたものとは到底比べようもない、まさに皮膚が粟立つような恐怖を。 彼が人を殺める存在なのだという証をありありと示された。そんな気がする。 頭の上のことに気を取られて危険地帯に入り込み、それを助けて貰っておいて、恐怖で思考を止めた愚かな私に。 なんてことを考えていたらまた嘔吐を呼ぶような頭痛がやってきた。バカバカ、止めろ私、この考えは止め!おしまい! ぼすんと枕に顔を埋める。そういえば、こんなふうに寝込むのも久しぶりだ。ここずっと、腫らしたり熱を出したりするのは妹たちの役割だった。 父は。 そういえば父について気にかかることがある。 いつも書斎の奥に引きこもってばかりの父が、彼が街に来ていることを知っていたということだ。 何時もながら関連性の掴めない、数多の情報を何処からつかんでくるのやら。 そんなことを考えながら目を閉じた。