06
遠くの空の向こうより数多の悲鳴を聞いた気がした。
それがただの気のせいではなく、獅子王が大都市を占領したからだと知ったのはかなり後のことだった。
「#name#、向こう数週間は堀の向こうに出るのはおよしよ。」
放任が基本の父ですら、夕飯の席でそう言い出したほどだ。
その頃には遠くから聞こえてくる爆音や悲鳴にも眉を顰める程度には、慣れてしまっていた。
悪い兆候だ。そう思う。
路地裏に迷い込んだ日から数日もしないうちにマシャフもまた襲撃を受けたと聞いた。城下の村民、教団員共々から多数の死傷者が出たという。
故にだろう。教団からの使者は途切れたままだ。
縁談とも呼べない、彼と#name#の話は破談なのか凍結なのかすらはっきりしない状態にあった。
そしてあの塔の上の人影も、しばらくの間見ていない。
乾いた青に旋回する黒い陰を見上げながら椅子に座り直す。鳥影の映える尖塔を追うことはまだ止めてはいなかったが、ここ最近は塀の近くはおろか街を歩く気すら起きなかった。
殺気立つ兵、残忍な十字軍の噂、押し寄せる難民、街頭で演説する人。大通りを歩けば嫌というほど戦禍の臭いがした。
家の中ですら静かな場所はここしかなかった。
水路に面した北向きの部屋。父の書斎は隣だ。
乾期に入ったものの、ここにはまだ水の流れがあった。ちゃぽりと、流れる水がまるい音を立てる水路をぼうと眺める。年頃の娘には少々似つかわしくない、日課のひとつがこれだった。
ふと、異様なものが視界に入った。
水路に半ば沈みながらゆっくりと流れて行く白い何か。最初は何か布の固まりだと思った。どこかの家がうっかり洗濯物を丸めたものを水路に落としてしまったのか、と。
だが明らかにおかしい。
洗濯物の袖から手は出ているものだろうか?
「……はぁあ?」
思わず、頓狂な声が喉から出てしまう程度には、仰天した。
な、何やってるのあの人……。
それは人だった。
慌てて周囲を見回すが、何故かこういう時に限って途絶えるのが通行人だ。父を呼ぼうとも思ったが、生憎と今日は出掛けていることを思い出す。
「……ああ、もう!」
もう一度、通りに人影さえないことを確認して#name#は駆け出した。
幸いにもここいらの水路は浅い。さして大柄でもない#name#の腰にも満たない深さの、流れもささやかな場所でどうしてそうなっているのかは知らない。知らないが、自宅側の水路で溺れている人を見つけたからには放ってはおけない。
誰も見ていないことを願いつつざんぶと水路に入る。ゆっくりと流されて行く肩付近の布を急いで捕まえたはいい。
そこから先が問題だった。
水をたっぷりと吸った衣服だけでも随分な重さだと言うのに、脱力した人間を水から引き上げることはなかなかに骨が折れた。四苦八苦の末、なかなかの長身を土の上に下ろす頃には#name#自身の息も絶え絶えという体になっていた。衣服は勿論、ヒジャブまでぐっしょりと濡れてしまっている。
溺れた本人は、タフなことに水を吐かせるまでもなく、#name#が衣服の裾を絞る間に、派手に噎せながら目を覚ました。
さて、何と声をかけるべきだろうか?
彼を引き上げる前から、それは"彼"だとは判っていた。
だがそれにしても前より軽装になったのだろうか?以前背中に履いていた武器がなくなっていた。他にも、以前と比べて色々と装備が足りない気がする。
水路のどこかで流されてしまったのか等あれこれ思案していたところで、急に凄まじい力で前方に引っ張られた。
一瞬何が起きたのか理解できなかった。
ひやりとした感触が首筋に沿って、ある。これは
「何の、つもりだ。」
先日あの髭の男性の喉を貫いた刃が、今は#name#の喉に突きつけられていた。
「わざわざ嘲笑いにでも来たか。」
この人は一体何を言っている?
息のかかるほど近くにあの薄ら寒い光の宿る目がある。それも焦りや苛つきの色が濃い。
何故か、えらく癪に触った。
「それは、」
こちらの言葉だ。
恐怖よりも怒りの方が先に頭に到達したが、語尾が震えた。
また私の悪い癖が出始めているのだ。自分でも本当に厭になる、憎たらしい。
滲みそうになる目を叱咤して頭巾の奥を睨み上げる。
「それが、貴方がたの流儀か、アサシン教団……!」
もっと強い言葉を、抉るような言葉を言ってやりたいと思う。だが、あまり長い言葉であればどうしても震えて仕舞うだろう。悔しいことに一定の規模以上に感情が高ぶると勝手に涙が出て来るのだ。どうしてこんな性に生まれてきたのか。
頭の半分でそんなことを忌々しくも考えながらなも睨み合いを続けていると、ふいにするりと顎下の刃が退いた。一瞬最悪の事態を想像したがそうではなかった。
胸倉から手を放し、体ごと一歩後退したのはアルタイルの方だった。
返ってくる視線の強さが萎んだと思いきや、一挙動で屋根の上へ駆け上がった後ろ姿。
「……は?」
声をかける間もなく猛烈な速度で屋根屋根の上を跳び去って行く姿に、思わずあんぐりと顎が開いた。
その顎の開閉に伴いふたつのことに気がつく。ひとつは胸倉を捕まれた拍子にヒジャブが解けていたこと。もうひとつはひりつく感覚。
手をやると首の皮が一枚切れていた。
一歩遅れてど、と恐怖が冷や汗と一緒に到着する。
首はヒジャブで隠れるから家人にとやかく言われることはない。
だが、だ。
何なのあの人、最悪だ!!
ぎゅうと唇を噛み締めて、改めて最悪な後ろ姿の見えなくなった方向を睨み上げた。