如何して、皆僕の事を、変なものを見るような目で見るのだろう。僕はただ、皆が気付けるような、簡単なことを言っているだけなのに。大人が全て気持ち悪い。何を考えてるのか分からない。何なんだよ。如何して。如何して僕は独りなんだよ。
「出てけ!! お前なんか
今回の就職先も、頭っから怒鳴られて
「彼女は僕が何を云っても怒らなかったなぁ」
これは僕と彼女の、迚も短い間の短い御噺。
▽
「矢っ張り居た」
「矢っ張り来た」
僕がその場所≠ノ行くと、彼女はいつもそこに居た。僕の言葉を真似して、怠そうに此方を見る彼女は少しだけニヤリと笑みを溢した。
彼女は近くの美術大学に通う学生で、いつも警察学校の裏の河原で絵を描いていた。バランスの悪い石の上に器用にイーゼルを立てて、同じ絵を何日も何時間も掛けて描いている。彼女を見つけたのはほんの三日前の事で、然しその三日間、彼女が此処に居ない事は一度としてなかった。今の絵の完成度は三分の一くらい、だろうか。絵の事はよく分からないが、見た感じはそんな完成度。川なんか描いて何が楽しいのだと思うが、きっと僕には分からない楽しさが彼女にはあるのだろうと無理矢理納得する。僕がいつも規則を破って来ている事をこの間彼女に言ったら、「見かけに拠らず悪いんだねぇ」と興味なさそうにそう溢していた。彼女はいつも、何事にも興味を示そうとしなかった。絵を描いている時でさえも、本当に絵を描くのが好きなのか疑問に思ってしまう程、何時見てもつまらなさそうだった。彼女はいつも、僕と話していても僕を見ていない。それでも不快にはならなかった。不思議な子だった。
「ね、お姉さん名前は何て言うの?」
「あは、君の何時もの色々
「そんなの出来無いって分かってる癖に」
大人は何時も、分かり切ってる事を態々僕に云わせようとして、色々と問うてくる。それが何でなのか、何が目的なのか、
一番最初、此処で会った時、僕は彼女を見て分かった情報を凡て言った。いつもなら皆図星を突かれて怒るか気味悪がるかの何方がなのだけど、彼女は絵を描く手を止めて、ただ一言。
『ぅわあ、凄いね君』
只々感心されたのは、初めての事だった。一体何を感心しているのか分からなかったけど、どうやら彼女は僕が一目で其処までを見抜いた事に驚いてしまったらしい。こんなの、皆やってる簡単な事じゃないか。そう云ったら少し驚いたような顔をされて、『そうだね、私は莫迦みたいだ』とへらり、と彼女は悪意のない笑顔で笑った。僕はその時それで納得して、何も分からない哀れなその彼女に色々と教えてあげる為、毎日会う事にした。それが三日前の事で、今日が三日目。彼女と噺をするのは楽しい。悪意がないのが分かるから。
「そういえばお互い名前識らなかったね」
「あれ? 僕云ってなかったっけ?」
「うん。私の記憶が正しければ多分聞いてないと思うよ」
「そっかぁ。僕は江戸川乱歩。乱歩で良いよ」
僕が名乗ると、彼女は矢っ張り何時もの興味なさそうな顔で「ふうん、格好良い名前だね」とそう云った。そんな態度でも、矢っ張り腹は立たないから不思議だ。僕だけかな。だけど名前を褒められて気を悪くする奴なんか滅多に居ないだろう。僕の自慢の両親が付けてくれた名前だ。少し気を良くして今度は彼女の名前を聞くと、「んー、只の美大生其の壱、だよ」と何故か
「真辺京、だよ。私の名前」
他の奴ら、喩えば同じ警察学校に通っていた奴、喩えばと或る雇い先の、雇い主、喩えば同僚、だとか、其奴らの名前は全く思い出せないのに、彼女の名前は、何故だか鮮明に覚えていた。今でも偶に、彼女の苗字だとか、名前だとか、何方かが同じ奴がいると、少し反応してしまう。
「じゃあ、改めて宜しくね、乱歩くん」
「うん。ええと――京さん」
此方を見る事もなく云った彼女に僕はそう返して、彼女の描く絵を、その日はずっと眺めていた。
▽
「江戸川貴様また規則を犯したな!」
また、其奴は僕を頭ごなしに叱る。父上や母上とはまた違う感じの、嫌な怒り方。胃がムカムカしてきて、何だか吐きそうになった。気分が悪い。何で僕が此奴に、こんな奴に怒られないといけない。
「女に振られたからって僕に当たらないでよ」
余りにも苛ついて、そう云ったららカッと顔を真っ赤にした其奴に外に閉め出された。何だよ本当の事を云っただけじゃないか。呆れに息を吐き出し、何時もの河原に行こうと門を出ると、丁度彼女――京さん、が、通り掛かった所だった。真逆会うとは思わず驚いて固まっていると、京さんはへラリと笑って「やっほう乱歩君」と抑揚のない声で挨拶のようなものを僕に投げかけた。
「、…ああ、京さん。偶然だね」
「ねー。…此処は警察学校だね。乱歩君、警察学校の子だったんだ」
「うん。見て分からなかった?」
「変わった格好だなぁって思ってただけ。御免ね、制服とかそう云うの、疎くて」
並んで一緒に河原に向かいながら、ふうんの彼女の話を聞く。いや、然し疎いにしてもこの格好なら直ぐに分かりそうなものだが。だが何となく、それで納得出来てしまうから矢張り彼女は不思議だ。
重そうなイーゼルと、何時も描いているカンバス。そして絵の具とパレットと、沢山の道具を何でも無さそうに持って歩いている彼女を横目に、僕は少しだけ悔しくなって、彼女に声を掛けた。どれか一つ、持ってあげようか。僕にだってそのくらい持てるんだぞ、って云う、ただの仕様もない意地だった。何時もみたいにヘラって笑って、一つ何か、渡してくれると思ってた。でも彼女は。
「御免ね、画材道具は誰にも触らせたくないんだ」
後にも先にも、誰かの考えを読み逃した事なんて、彼女の、この一度だけ、じゃないだろうか。
何でもないことなのだと思う。だけど、僕は思った以上に少し
▽
その日から暫くして、彼女はあの河原に来なくなった。あの日から少しだけ気拙くて、あの場所には行っていなかった。だけど矢っ張り彼女に会いたくて、話をしたくてそこに行けば、もう彼女は居なかった。きっと、早く帰っただけだとか、そう無理やり考えて、僕はその日、諦めて寮に帰った。然し次の日も、其の次の日も、彼女がその場所に現れることはなかった。
絵が完成したのか、と。もうそれしか考えられない可能性を、ポツリと呟いた。本当は、最初、彼女がいなかった時点で気付いていた。ただ、もう彼女に会えないと、信じたくなかっただけ。
その日、彼女がもう来ないと分かってからも何度か其処に行っていた。何処かに彼女に会えるかもしれないなんていう淡い期待もあったのかもしれない。
と或る日、僕はいつもの様に追い出されて、フラフラと河原にやってきていた。その日も矢張り彼女は居なくて、僕はふう、と溜息を吐き出した。その時、「あ!」と、耳馴染みのない声が耳に届いた。何だ、と声のした方を見れば知らない女の人が立っていて、首を傾げるとその人は迷った挙句、此方に駆け寄って来た。
「君、江戸川乱歩君?」
「? そうだけど。何で知ってるの?」
「あ、良かった。あのね」
聞けばその人は彼女の友達らしく、彼女に頼まれて僕を探していたらしい。毎日ここに来ていたのだが擦れ違ってたみたいで――なんて御託はどうでも良い。彼女が何で僕を探していたんだ。食い気味に聞くと、彼女の友達だと云うその人は苦笑した。
「此れ渡して欲しいって」
そう言ってその人が差し出してきたのは、額に入った、ずっと彼女が描いていたあの絵だった。完成してる。そう呟くと、彼女の友達のその人は苦笑したまま口を開いた。
「あの子、一度絵に描いた場所には二度と行かないって変な拘り持っててさ。御免ね」
「……へえ」
気のない返事をしながら、僕は内心ホッとしていた。良かった。別に僕が嫌われたとか、そういう事じゃなくて。
その人は絵を持ったまま俯く僕に二言三言何か云った後、何処かに行ってしまった。
その時彼女に貰った絵は今でもまだ持ち歩いていて、正直大きいし嵩張るし邪魔だけど、捨てるっていう選択肢はなかった。
彼女に会いたいとは思わない。この出来事はもう僕の中では綺麗な思い出≠ナ、引き摺りたい過去≠カゃない。彼女に抱いていた感情の名前も、彼女が僕をどう思っていたのかも、彼女が、京さんが何を思って僕にこの絵を渡したのかも、もう知らなくていい。
だけどきっと、此の思い出≠煌Gも、僕の一生の宝物だ。