賞味期限切れの恋は捨てた

「別れよう」

 中学の時から付き合っていた彼氏に、高二の夏、そう言って振られた。なんとなく、最近彼の心が私から離れていっているのは感じていた。私は黙って頷いた。不思議とその瞬間、なんの感情も抱くことは出来なかった。彼はそんな私を見て、少し眉を寄せて、「お前、別に俺のことなんか好きじゃなかったんだろ」と言った。そんなことない、と声に出そうとして、出来なかった。何故か声が出てくれなかった。本当に、本当に彼のことが好きだったのに、何も答えることができなかった。

「もういいよ。じゃあな」

 彼はそう言って踵を返した。私は最後まで何も言えずに、その場に立ち尽くしていた。待って、とも、大好きだったよ、とも言えずに、ただ彼の背中を見送った。彼がいなくなってようやく、頬に涙が伝った。嗚咽と一緒に、声も出た。その場に膝をつく。好きだった。好きだったのに。

「うっ……うぅっ…」

 ぼろぼろと、とめどなく涙が溢れた。さっきは一滴も出てこなかったくせに、彼がいなくなった途端堰を切ったように溢れてきた。きっと、泣いて彼に縋りつきたくないという意地があったのだと思う。こういうところが可愛くない。だから彼も、私のことを好きでなくなってしまったのだ。あそこで泣いて別れたくないと言えでもすれば、まだ可愛げもあったのだろうに。

 しばらく、その場にしゃがみこんで泣いていた。そうしていると、ふと頭上から「あ、の…」と声を掛けられた。え、と頭を上げると、目の前にハンカチが差し出されていた。

「……え…?」

 ハンカチから手をたどっていくと、顔を真っ赤にして背けている男の子がいた。知っている子だ。確か、クラスメイトの辻くん。クラスの子がかっこいいって騒いでいた。クールで無口でなんでも卒なくこなしてしまいそうな感じがする。
 そんな辻くんが、何故か今、目の前で顔を真っ赤にしてハンカチを差し出してきている。そのことと、泣いていたのを見られたことへの羞恥で頭がこんがらがってしまって、私はしばらくハンカチを見つめたまま呆然としていた。

「えっ、と」
「あ、の……こ、これ、」

 辻くんが詰まったような喋り方でそう言った。え?と首を傾げて、聞き返す。辻くんはやっぱり詰まったような喋り方で同じようなことを繰り返した。
 もしかしてこれを使って涙を拭け、という意味だろうか、と気付いて、ハンカチを受け取った。端の方にある恐竜のワンポイントに少し笑った。辻くんがこんな可愛いハンカチを使っているなんて意外だった。

「あり、がとう…」
「っ、」

 お礼を言うと、やっぱり真っ赤な顔で辻くんは頷いた。なんだかこんな反応をされると、辻くんは私のことを好きなのかもしれない、と錯覚してしまいそうになる。だけど多分、これは違う、と思った。なんとなく、自分に向けられているこの感情は恋愛感情ではない、と思った。多分、そういうのではない。
 涙は止まっていたが、貸してもらったハンカチで濡れた頬を拭いた。このまま返してしまうのも気が引けたので、洗って返すね、と言ったらなんだか慌てていた。そんなのいい、と言おうとしているのが分かったが、気づかないふりをしておいた。そんな私に辻くんは困ったような顔をして、そうしてすぐに諦めたように目を横に逸らした。先程から視線は合っていなかったが、更に合わなくなってしまった。一応こっちを向いてはいるものの、何故か目だけが合わない。もしかして辻くんは女の子が苦手なのだろうか。
 そう当たりをつけて首を傾げていると、不意に辻くんが口を開いた。

「あ、の…」
「…、」
「えっと……その、げ、元気出し、て」

 え?と、思わず声を上げた。辻くんは目を合わせないまま、言葉を続けた。

「桐原さん、は……その、素敵な人だと、思う……から、」
「…え」

 驚いて目を見開くと、辻くんは勢い良く頭を下げてどこかに走って行ってしまった。私は呆然とその後ろ姿を見送った。もしかして、先程の振られるところまでしっかり見られていたんじゃないのか、と思い至った。途端になんだか恥ずかしくなって、顔を覆った。うわあ、見られてたなんて。恥ずかしい。

「(…でも)」

 ふ、と顔を上げて、先ほど貸してもらったハンカチを見た。恐らく女の子が苦手なんだろうに、わざわざハンカチを貸すために声をかけてくれた。

「(優しいな)」

 ハンカチを握りしめて、少し笑う。先程の嫌な気分が少しだけ、軽くなっていた。


 ▽


「あ、辻くんおはよう」
「っ、」

 次の日の朝、校門をくぐったところで辻くんを見つけて声をかければ、辻くんは驚いたように私を見た。途切れ途切れに、私の名前を呼んだ。

「これ、ハンカチありがとう」
「え、あ、う、ん」

 辻くんは懸命に目を逸らしながら私の差し出したハンカチを受け取った。その様子を見て、あまり傍にいるのも可哀想だと思い、そのまま離れようと踵を返す。しかしその前に辻くんが口を開いた。

「良かった」
「え?」

 ぼそりと、呟くような声だった。実際、私に言ったわけではなくただのひとり言だったのだと思う。だけどその小さな声がはっきりと耳に届いて、私は思わず動きを止めた。聞き返した私に辻くんは少し焦ったような顔をして口を抑えたあと、わたわたと焦ったように視線を右往左往させていた。

「え、あ、いや……その」
「……」
「げ、元気、そう、だから…」

 良かった、って。
 小さな声で、途切れ途切れに辻くんは言った。私は辻くんを見つめたまま、その場に固まった。

「……」
「…え、っと」
「…辻くん」
「は、はい」
「ありがとう」

 再度お礼を言った私に、辻くんは不思議そうに首を傾げて頷いた。そのまま辻くんと別れて、思わず顔を覆った。顔が熱い。

「(あー、だめだ)」

 どうやら、私は早くも新しい恋を見つけてしまったらしい。

SANDGLASS