思う存分甘やかせ
指先に柔らかい何が触れる。
眠たい目をこすりながら身を起こした芽唯がそちらに振り向けば、目を閉じたままの夫が自分の手を取りそこに唇を落としていた。
「レオナさん……?」
こてんと首を傾げた芽唯が名を呼ぶもレオナは反応を示さないし、長い睫毛に縁どられた瞼はぴくりとも動かない。
「レオナさん」
もう一度、今度は身体ごとひねって向き直り、彼の顔にかかっている髪を掴まれていない方の手で払う。
褐色の美しい肌の上をチョコレート色の髪が滑り落ちる。思わず息をこぼしたのはその美しさに見惚れたのもあるが、そんな男がやけに幸せそうな寝顔をしていたからだ。
ニヤリと弧を描く形のいい唇も、ぎゅっと寄せられる可愛らしい眉間の皴も。時折意地悪く眇められる美しい双眼も。そのどれもこの状態で見ることは出来ないが、無防備に、今にも喉を鳴らして甘えてきそうなほど気を許した姿を見られるのは妻の特権。
「ふふ、かわいい……」
起こしてしまわないよう注意を払いながら、未だに自分の手を離さないレオナの頭を軽く抱きかかえた芽唯はゆっくりと己の膝の上に下ろす。
今日は特に急ぎの用事はない。夫婦の微睡を邪魔する尋ね人は来ないだろう。
最近仕事に追われ続けていた夫を労わっても許されるはず。……自分が寂しかった、というのももちろんある。
レオナの寝息に合わせるように彼の頭や耳を撫でながら、カーテンの隙間から差し込んでくる朝日を浴びるのはとても気持ちが良かった。
◇◆◇
「ん……?」
歌だ。歌が聞こえる。
浮上したレオナの意識が最初に捉えたのは聞いたことがないメロディだった。
歌詞はない。誰かの鼻歌だ。それが妙に心地よくて、せっかく浮上した意識がまた沈みかける。
それでもなんとか片目を開けたレオナに気づいたのか歌声が止む。
「起きましたか?」
「メイ……?」
頭上から降ってくる声に疑問を持ったレオナだったが、すぐに自分が置かれている状況を理解すると力を抜いて彼女の膝に頭を預け直す。
「今日はずいぶん機嫌が良いんだな」
「そんな、私が普段は機嫌が悪いみたいな言い方」
「目が覚めたら俺を置いてすぐ出て行くだろう?」
「それは朝ごはんの準備をしなきゃいけないからです」
もう、と口を尖らせた芽唯だったが彼女が自分を膝から落とす様子はない。それどころか、片手はずっと自分の頭を撫で続けているのだから今にも喉がゴロゴロと鳴り出しそうだ。
「……今日、お休みでしょう? だからちょっとくらいお寝坊さんでも良いかなって」
「クク、お前のちょっとはずいぶん気が長いらしい」
ベッドサイドに申し訳程度に置かれた時計はもうすぐ十二時を指しそうだ。こんな時間までのんびり寝るのはいつぶりだろうか。
「だって、誰かさんが手を放してくれないから……」
「手……?」
頬を赤く染め目を逸らす芽唯をぱちくり見つめた後、レオナはようやく自分の左手が何かを掴んでいることに気がついた。
柔らかくて小さくて、少しでも力を込めたなら折れてしまいそうな。そんな脆くて、この世で一番大切にしてやりたい手だ。
なぜ彼女の手を握っていたのかは見当がつかない。数度瞬いたレオナは考えるのを放棄すると目の前の愛おしいものを、まるで捕食するように、その指先に口づけた。
わざとらしくちゅ……と音を立ててやれば僅かに震えたそれを逃がさないように指を絡める。薬指に嵌められた揃いの指輪が反射した光が眩しくて目を細めれば、また頭上から芽唯の「もう」という声が降ってきた。
「なるほどな、このせいで逃げられなかったと」
「……レオナさんは寝てても狩りがお上手ですから」
「俺の匂いがイヤって程ついてるからな、こんな極上の獲物逃がしてたまるか」
指をほどいて、包み込むように掴むと己の頬へと引き寄せる。褐色で男らしい指とは真逆の白くて細い指先が惑うことなくレオナの頬を撫でれば彼の口角が上がる。
「……朝、寝てるレオナさんを見るの私好きですよ」
「へえ?」
「レオナさんとお話しできないのは寂しいですけど、安心しきった寝顔を見てると『あ、私この人に心を許されてるんだな』って実感するというか」
学生の頃、いつもなら他人の気配を感じれば否応なしに目が覚めるのに、自室を訊ねた彼女の入退室に気づかなかったことがある。
ふとそんなことを思い出したレオナは黙って芽唯の言葉に耳を傾けながら彼女を見上げる。
自然と視線が絡むと芽唯の瞳が蜂蜜でも溶かしたかのように甘くとろける。きっと、自分も同じような瞳をしているのだろう。
昔から、彼女と自分の瞳は互いを写す時に見せる色がよく似ている。色、と言っても実際のそれは大きく違うのだが、そこに溶け込んだ感情が同じということ。
ゆっくりと目を閉じたレオナは大きく息を吸い込んでから身を起こす。瞳どころか今では匂いすらも互いのモノが溶け合ってほとんど同じなのだから不思議なものだ。
「俺は……そうだな。……お前がこうして、照れながらも逃げなくなったことは喜ばしいな」
向き合って座ったレオナは開いていた方の手で彼女がしていたように彼女の髪を撫でる。目覚めた時のままなのだろう。少しはね飛んだ髪すらも愛おしい。
揃いの寝間着が少しはだけ、そこから見える肌に額をすり寄せればくすぐったそうに芽唯が笑う。
「もう少しのんびりしてても?」
「お腹すいてない?」
「今は飯よりお前がいい」
「齧っちゃだめですよ」
「善処する」
ぐりぐりと額を押し付ければ芽唯が後ろに倒れるのでレオナも共になだれ込む。
ぽすりと二人を受け止めたベッドが少しだけ悲鳴を上げるが、この程度の衝撃に耐えられないものを選んだ覚えはない。
シーツの海に広がる芽唯の髪を梳くレオナの大きな手は一房それを掬い上げて、そこにまたキスを落とす。
それをくすぐったそうに受け止めた芽唯が己の背に手をまわすものだから、レオナはたまらず彼女の唇に食らいつく。
何度も何度も落とされるそれに「んっ……」と芽唯の声がこぼれるたびにレオナの尻尾が楽しそうに揺れ動く。背中にまわった手が逃げないのだから嫌がられていはいない。それどころか、もっとと強請るように両手をまわされて応えないわけにはいかないだろう。
流石に少し息が荒れてきた芽唯を気遣って距離を取れば、二人の間を銀色の糸が結ぶ。
ぷつりとそれが切れる瞬間、もう一度噛みつきたかったがいつのまにか背中から離れた芽唯の手がレオナを遮る。
「齧っちゃダメって言ったのに!」
「煽ったのはそっちだろう?」
「……だって、レオナさん指先とか髪とかばっかりで口にしてくれないんだもん」
逃げるように身をよじり、近くにあった枕に顔をうずめた芽唯の尖った唇にもう一度噛みついたらさすがに本気で怒られそうな気がする。
仕方がなく隣に並べられた自分の枕に寝転んだレオナは目覚めた時と同じように彼女の手をそっと取る。
ふにふにと柔らかいその感触を指先で楽しむだけで疲れていた心が洗われるのだから単純な男になったものだ。いや、彼女じゃないと満足できないことを考えれば逆かもしれない。レオナを満たすことができる唯一無二。
絶対に誰にも譲れない温もりを感じて目を細めたレオナはまたその指先に口づけた。
「なあ、今日はこの後どうしたい?」
「え?」
「一日ベッドで戯れても良し、今日こそお前が話してた場所に買い物に行ってもいい。飯食ってからでも鏡で行けば十分な時間があるだろ?」
「でも、レオナさん疲れてるんじゃ……」
ごろんと寝返りを打った芽唯が心配そうにレオナの顔を覗き込む。
細い指先が目の下に触れるのを見るに最近の己は隈があったのかもしれない。鏡で見ていた分には気づかなかったが、長年連れ添って今では芽唯の方がレオナの体調変化に敏感だ。
「俺を誰だと思ってる? 可愛い奥さんが午前中ゆっくり寝かせてくれたからな。もう平気だよ」
本当に?と首をかしげた芽唯がさらに顔を近づけるので額を合わせれば、彼女の方からぐりぐりと押し付けてくる。
じっと見つめてくる丸い瞳を見つめ返せば彼女の唇が弧を描く。レオナが離れようと力を抜けば、彼女の方から口づけと呼ぶには一瞬すぎる柔らかさをレオナの唇を押し付けた。
「じゃあ、おでかけしたい。本当はもう期間中に間に合わないかもって諦めてたの」
「そんなギリギリだったのか。別にお前ひとりで護衛でもつけて行けばよかっただろ」
実は芽唯の希望先に行く予定はこれまでも何度か立てていた。だが、今レオナがメインで動かしている計画がなかなか上手く進まず。そのしわ寄せに彼女との予定を度々延期にせざるを得ない状況になっていた。
しょうがない、と寂しそうに……けれど笑って許してくれる芽唯に甘えていなかったと言えば嘘になる。だからこそ、やっと手に入れた休日の午前を彼女に甘やかされ、しかも寝て過ごす結果になったのは不本意だった。
この休みは芽唯を思いっきり甘やかそうと決めていた。その為には彼女の体力を奪うのはやめておこうと久方ぶりの一緒にいられる長い夜だった昨夜も芽唯を抱かずに過ごしたというのに。仕事のみならず、プライベートすらも計画が上手く進まないなんて。
「だってね、レオナさんと一緒に行きたかったんだもん。それに初めて行った場所のお土産話をするとレオナさん拗ねちゃうし」
「拗ねる? この俺が?」
何のことだと眉間に皺が寄る。すると、すぐに芽唯の指先がそれをぐりぐりと伸ばす。
「熱砂の国とかエペルの故郷の話とか。レオナさん全部凄い不機嫌そうな顔で聞いてたの覚えてない?」
「それはお前が他の男と出かけるからだろ。しかも俺を置いて」
「ほら〜」
それそれ!と足だけをぱたぱた動かす芽唯は口のわりに楽しそうに見える。
芽唯の言葉を受けて、今度はレオナが唇を尖らせるとやはり芽唯は楽しそうに声を弾ませレオナに抱き着く。
「だから、一緒に行きたいの。行けなかったら残念だなって思うけど、レオナさんを置いてどこかに行くのはもうしないって決めたから」
レオナの足に自分の足を絡ませた芽唯がレオナの胸元に頬をすり寄せる。
まるで甘えるような仕草だが、これではこちらが甘やかされているような気がしてならない。
「…………」
するりと尻尾を巻き付けて、レオナからも抱きしめ返せば芽唯がころころと笑い声を転がした。
「それに行けなかったら後日通販すればいいし」
「おまえ、それが本音だろ」
ちゃっかりしてやがる。と、ほんの少しだけ体の力が抜けてしまったレオナは芽唯の頭の上に顎を乗せ、彼女を抱えたまま身をひねる。レオナの上に乗っかる形で寝返りを打たされた芽唯がずるりとレオナの身体をまたぐように足を広げて身を起こせば、寝ころんだままのレオナがにやりと笑う。
「今のでせっかくの充電が切れちまったな。出かけたけりゃ、再充電よろしく頼むぜ」
「えっ⁉ じゅ、充電ってなにすればいいんですか⁉」
「さあ? お前に任せる」
ほら、好きにしろ。と両手を広げてわざと喉を逸らしたレオナに真っ赤になった芽唯が何をしたのかはその後満足そうに準備を始めたレオナだけが知っている。