失くした靴の片方は
端的に言えば芽唯は困っていた。
靴を失い直接床に置かれている片足は徐々に冷えて身体全体の体温を奪っていくし、すぐに戻ると言ったのに帰ってこないキファジはきっと交渉を続けているのだろうが話しが簡単に進むとは思えない。
道中で起きたトラブルを含め、複数の悪意が自分に向けられているのが痛いほどわかる。
周りからの「誰あの子?」という冷たい視線、冷笑、蔑む声が耳に届いて芽唯は目を伏せる。人の聴覚を舐めているのか、もしくはわざとか。獣人属の嫌味はやたらと声が大きかった。
どうしても都合がつかずレオナとバラバラに来てしまったのがいけなかったのか。彼が居なければ身分を証明できないこの身が口惜しい。
行きたくはないが行かなくてはならない、要は大事なパーティーとやらにお呼ばれしたレオナ王子≠フパートナーとして正式に招待されているのにとんだ歓迎を受けてしまった。
片方だけ残された靴を脱いだ芽唯は受付に遠回しな柔らかい言葉だったが「居座られても邪魔だ」という意味で壁際に用意された椅子に腰掛け息を吐く。
(早くレオナ先輩かキファジさん来ないかな……)
芽唯だけだとますます無遠慮に悪意を向けてくる空間は居心地が悪い。
車を降りてからのわずかな距離、そして会場内でもやたらと幼稚な嫌がらせにあったが、流石にレオナの立場を悪くしてしまうと思うとやり返す気は起きなかった。
「はぁ……」
この靴、片方だけでもいくらくらいするんだろう。せっかくレオナに貰ったものなのにもう履けないな。
思わずそんな全く関係のないことを考え始めた芽唯の頭上に影が差す。
「失礼お嬢さん。申し訳ないがお引き取り願えないだろうか。ここは君のような少女が来るような場所ではないよ」
顔を上げればスラリとした品の良いスーツに身を包んだ男性が見下ろしている。
何度かぱちぱちと瞬きをした芽唯は首を傾げながら口を開く。
「正式にご招待いただいているはずです」
「ではなぜ入場を断られてロビーに?」
「手違いがあったようで、……従者が確認をしている最中ですのでどうかお気になさらず」
芽唯を見下ろす男の視線は鋭く、恐らく悪意を持って接してきたのは確かだ。難癖付けてどうにか恥をかかそうというタイプだろうか。男は不機嫌そうな顔で芽唯の傍から離れようとしない。
しかし、なんと言われようと芽唯は正式な招待客であり、手違いもしくは嫌がらせを受けてこの場に留まることを強いられているだけだ。
眉間にしわを寄せた男性は唇もむっと尖らせ誰かに目配せをする。
(この人、結構偉い人なのかも……)
きっと芽唯の名前が招待客リストから何故か消えていることを知っている権力者なのだろう。わざと芽唯に近づいてきたのも挑発してなんらかの失態・失言を狙ってのことかもしれない。
もちろんナイトレイブンカレッジで鍛え上げられた芽唯にとっては何の意味もないモノなのだが、芽唯のそんな凪いだ態度が気に入らなかったのか、男は少し鼻息を荒くし忌々しそうに目を細める。
「確かレオナ様のお連れということだったがそれを証明は出来ますか?」
「申し訳ありません。殿下のご意向で式を上げるまでは顔写真などの公表もしておりませんので……」
以前、学園内でもトラブルがあったことを危惧してレオナは芽唯との婚約を発表したものの個人が特定できる情報は伏せていた。
招待客だと証明できるものはキファジが持っていった招待状くらいだろうが、偽造だなんだと相手にされないのは目に見えている。
「入ることも許されない私のことはお気になさらず、せっかくのパーティーなのですから」
豪華な料理やお酒を片手に賑わう扉を一枚隔てた先にある会場を指差し、男性にそれとなく立ち去ってほしいと促せば片眉を上げて芽唯を見る。
「いえ、この場を預かるものとしてそういう訳には。たまにね……居るんですよ。招待客の知り合いだと嘯く輩が。ああ別に貴女のことを言っているわけではないのですが」
口角を上げ、男はさらに続ける。
「それに、大きな声では言えませんがあのレオナ様のお連れとなればやっかみも多いでしょう? 女性からの嫉妬はもちろん、彼を快く思わない方も多くいる。どんなトラブルに巻き込まれるかわかりませんよ」
彼の言う通り、レオナが「嫌われ者の第二王子」と自称する程度にはレオナのことを嫌う人物は一定数存在しているし、レオナが王族として真面目に政務に向き合おうとしているのを「今更」と罵るものもいる。
男の言葉に何も言い返せなかった芽唯は表情を変えず、視線を逸らさないようにまっすぐ男を見つめ続けた。上手い返しが出てこない以上、目を逸らしてしまえばレオナを悪く言うこの男の発言を認めてしまうことになる。
「ところで、靴の片方は如何したのですか? 本日は立食パーティーですのでそのままでは例え入場が認められても楽しんでいただくのは難しいかと」
「トラブルで失くしてしまって、……お見苦しいですよね。侍従が戻り次第身なりは整えますのでお許しください」
「……ならば良いのですが」
椅子の傍らに置いた靴は片方しかない。
人ごみに巻き込まれ、もみくちゃにされているうちに気が付いたらなくなっていた。
今思えば不自然なあの団体は芽唯に対する嫌がらせだったのかもしれない。道幅は十分あるのに芽唯とキファジに向かってまっすぐ突っ込んできた内の何人かは会場内に姿が見える。
(レオナ先輩大変だなぁ……)
必要以上に絡んでくる彼らはレオナをどうにか貶められないかとあの手この手で隙を突こうとしている派閥の人間に違いない。
非常に難しい立場にいることは承知の上だが、やり方が幼稚だと思ってしまうのはヴィランばかりのあの学園に毒されてしまった証だろう。
「……しかし殿下もパートナーを先に送り出して自分は未だ姿を見せないとは、話には聞いていましたが随分とマイペースな方でいらっしゃる」
「いえ、先に来てしまった私が悪いんです。本来共に来るべき所を申し訳ありません」
向けられる言葉をすべてやんわりとかわしていけば、だんだんと男の口端が引き攣っていく。
大方、日本人特有の容姿の幼さから侮っているのだろうが生憎と四年生のインターンと称して王宮で教育を受けている最中だ。当然、レオナのことを疎ましく思っている者から絡まれることを前提に。
それに内容がお上品すぎて芽唯には相変わらず嫌味としてピンとこなかった。なにせ学園ではレオナに対する批判はもっと過激なものだった。玉子だとか怠惰だとか王子相手とは思えない言葉が飛び交っていた。
比べて最近の彼を取り巻く言葉は遠回しすぎて嫌味なのかどうかすら芽唯は一瞬疑問に思ってしまう。
「女性を満足にエスコート出来ない方に政治のなんたるかがわかるとは私には到底思えませんね」
男は矛先を完全にレオナに変えることにしたのか、そう言って鼻で笑うと芽唯の前に膝をつく。
「今日ここに来ることは以前からわかっていたはずです。そして紳士ならばなによりも貴女を優先するべきだ。侍従に任せて後から合流するだなんてありえない」
下から顔を覗き込んでくる男が何を考えているのかはわからないが、芽唯からレオナを否定する言葉を引きずり出したいのはわかる。
黙って男の顔を見つめていると「お手に触れても?」と問いかけられた。
どうぞ、と返すべき場面だろうか。けれど許可を出せばなにをされるかは明白で、レオナは良い顔をしないだろう。
「あの……」
初めて芽唯が返事を渋れば男はようやく笑顔を見せる。芽唯が初めて見せた隙に好機を見出したのだろう。
視線を一度彼から外してキファジの姿を探すが帰ってくる気配はない。
助け船を諦めた芽唯は出来る限り背もたれに身を預けて男から距離を取る。
どう断れば失礼ではないのか、教わったことを必死に手繰り寄せるが頭の中の引き出しに答えが入っている気がしない。
跪いて恭しく手を取らせてほしいなんて手の甲にキスをさせてくれと同義だ。
挨拶と割り切ればいいのだろうが芽唯には慣れない文化であり、レオナ以外とそうした触れ合いをすること自体あまり気分が良くない。それにこの男に気を許したと思われるのも嫌だ。
「えっと……」
どうにか逃げ出せないかともう一度芽唯が男から視線を逸らせやたら近くでカツ、と足音が響く。
「失礼、私のフィアンセが何か?」
カツカツともう何歩か追加された足音と共に聞き慣れた声が耳を打つ。
少し視線をずらせば足の間から揺らめく尻尾が見え隠れする。パシンパシンと不機嫌そうに鞭打つそれは男が慌てて身を引いて立ち上がれば目の前にやってきた。
「い、いえ! 彼女が一人でしたので私で良ければとお相手をさせて頂いておりまして……」
先ほどまでのすました声はどこへやら、男は必死に言葉を紡ぐ。
「レオナせ……さん」
その背に縋るようにスーツを掴めばレオナはわざとらしく息を多めに吐いて首を横に振る。
「それはお気遣い痛み入る。ですが、こちらのレディは私の大切な方ですのでどうかお引き取りを」
「っぁ、はい!」
異様に怯えた男は跳ねるようにその場から逃げ去っていく。ばたばたと音を立てて駆けていく様はさながら捕食者に怯えたヌーのようだった。
男が逃げるのと同時に芽唯に向けられていた嫌な視線がなくなった。それどころか腰かけている椅子が置かれている壁際付近を中心に、まるで見えない壁でも出来たかのように人が近づかなくなっている。誰も彼もが獅子の怒りに触れるのを恐れているのがよくわかる。
レオナが大きなため息をついたのを見てなんらかの魔法を使ったことを確証した芽唯はいつも通り声をかけた。
「……レオナ先輩、あんまり怖い顔しちゃだめですよ」
「してねぇよ」
「絶対嘘……」
振り向いたレオナはやはり絵に描いたような不機嫌そうな顔をしていて、人が避けていくのもわかる。
芽唯には拗ねたようにしか見えないのだが、知らない人から見れば威嚇されていると捉えかねない。
「キファジはどうした」
「手違いで私の名前が招待客リストになかったみたいで、交渉というかクレームに行ったまま帰ってきません」
「はあ……。どうせお前を一人にするためだろ。適当なこと言って引き留めて俺が来るまでにお前に恥をかかすか弱みを握ろうって魂胆だ」
「だと思います」
芽唯の前に跪いたレオナは眉間に皴をぐっと寄せると傍らに置かれていた靴を見る。
「無理にでも一緒に来ればよかったな。嫌な目にあったろ」
「大丈夫です。って言っても、靴の片方を無くしちゃったので大丈夫じゃないんですけど……。ドレスの汚れとかはキファジさんが魔法ですぐ落としてくれましたし」
「それを大丈夫とは言わねぇんだよ」
眉間にぐっと皴を寄せ、ため息をついたレオナが何かを思いついたようにニヤリと笑う。
「せ、先輩?」
「防音魔法を解く。いい子にしろよ」
そう言ってスーツの内ポケットにしまっていたペンに付けられた魔法石に触れたレオナは一度目を閉じ、そしてゆっくりと開かれたサマーグリーンで芽唯を貫くように見つめる。
「触れても?」
「は、はい」
魔法を解いたということはここからの会話はすべて他の人にも聞かれている。
下手なことを口走らないように……少なくとも先輩だなんて呼ばないように姿勢を正した芽唯はレオナを見つめ返しながら頷く。
「では失礼」
レオナは自分の膝に芽唯の足を乗せるとまずは優しく全体に触れる。往復する手はやがて足を持ち上げて左右に捻って捻挫をしていないかも確かめているようだ。
右足、そして左足を確認すると安堵したように息を零す。
「怪我は無いようだな」
「はい、キファジさんが守ってくれたので大丈夫です」
声には出さないが当然だろうと言いたげに鼻を鳴らしたレオナは芽唯の靴を手に取ると丁寧に右足に履かせる。
「片方しかないから代わりを用意した方がいいんじゃ……?」
「いいえマイレディ、それには及びませんよ」
わざとらしい言葉遣いでにやりと笑ったレオナは芽唯の左足を持ち上げると足の甲にゆっくりと口づけを落とす。
びくりと跳ねる身体を抑えてなんとか耐えていると、代わりにと言わんばかりに成り行きを見守っていたであろう受付や招待客から小さな悲鳴が上がる。
どこの馬の骨が迷い込んだのかと嘲笑っていた相手が一国の王子にそんなことをされていればいろんな意味で内心は穏やかじゃないだろう。
観衆の悲鳴をものともしないレオナは懐に手を入れると靴を取り出す。
「あっ、それって……」
思わず声を上げればレオナは掴んだままの芽唯の左足にも靴を履かせた。
するりと芽唯の足を包むそれは失くしたはずの靴。以前レオナが贈ってくれたそれは芽唯の足を飾るためだけにデザインされた唯一無二の物。
「レオナ様、そちらの方は……」
背後から声をかけられたレオナは立ち上がると芽唯の手を取り隣に立たせる。声の主である責任者と思わしき人物がレオナと芽唯を見比べ、その隣ではキファジが安堵から息を吐いていた。
「事情は彼女から聞きました。彼女が私のフィアンセである証明はもう十分できたでしょう?」
「ええ、……まあ……確かに……」
ぐっ、と悔しさをこらえるように顔をしかめた男は芽唯の足元をじっと見つめる。
視線の先にあるのは──靴だ。
「靴の片方をレオナ様が持っていた。これ以上の説明は不要でしょうな」
目を細めたキファジは気分がいいのか何度も頷く。殴りこんでくると言わんばかりの勢いで責任者に会いに行ったときの憤りが嘘のように晴れやかな笑みを浮かべて芽唯とレオナを見て笑う。
「靴……?」
悔しさで震える男から隠れるようにレオナの腕にしがみ付きながら問えば「知らないのか」と逆に問い返される。
「この世界で靴の片方を持っていることは身分の証明になる。しかも片割れを持っていたのが王子であるこの俺で、この靴には失くした際には贈り主の元に戻ってくる魔法をかけてある」
「そういえば学園長がそんなことを言ってたかも……」
記憶の彼方になった入学式のあの日、初めてこの世界に迷い込んで右も左もわからない状態で問われたような気がしなくもない。
「……っ、こちらの不手際でとんだ御無礼を。レオナ様と婚約者の……」
「メイです」
「メイ様をすぐにお通しするよう手配させていただきます」
そう言って礼をした男は謝罪も程々に逃げるように去っていく。
「ったく、最初からそうしろよな」
「メイ様だけなら簡単に辱められるとでも思ったのでしょう」
肩を竦めたレオナの隣にやってきたキファジは綺麗にまとめてある蓄えた髭を触りながら満足そうに笑うと芽唯を見る。
「受付に残して行ったのは失敗でしたな。メイ様お一人で嫌な目に合われましたでしょう」
「いえ、あの……レオナさんが助けてくれたので大丈夫です」
「そのようで。しかし、大胆にも程がありますな。こんな公衆の面前で王子が女性の足の甲に口づけを贈るなど」
「俺がメイをどれだけ大事にしてるか知らしめるにはいい機会だったろ」
ハッと笑って芽唯の肩を抱き寄せたレオナはそのままするすると腰まで手を降ろすと受付に向かって歩き出す。
「足の甲……ってどんな意味があるんでしたっけ」
なんとなく体の部位によって意味があることは知っているが流石に細かくは覚えていない。けれどキファジがやれやれと肩を落とし、レオナが満足そうに笑っていることから想像はつく。
「気になるならスマホで調べろよ、と言ってやりたいところだが帰ってからにしてくれ」
「なんでですか?」
「でけぇ声で喚くだろ。恥ずかしいだの周りの目を考えろだの」
「……意味がわからないまま喚いてもいいんですよ」
「あー、はいはい。文句は後でいくらでも聞くから大人しくしてろ。また変なことをされないように今のうちに俺の最高の婚約者を自慢して歩かなきゃならないんでな」
「もう……!」
くつくつと喉を鳴らして笑うレオナはまだ物足りないようだが、ちらちらと芽唯とレオナを見て口元を隠しながら話し出す人々を見るに既に十分先ほどの口づけの効果が出ているに違いない。
そんな恥ずかしさを伴いながら申し訳なさそうに頭を下げる受付を通り過ぎ、入ることを許されたパーティー会場へ歩み出す芽唯の足元ではようやく揃った靴がキラキラと輝いていた。