ゆっくり寝かせる
緩く巻き付いた腕と尻尾に多少行動を制限されているものの、今日もぱたぱたと世話しなく右往左往しているお姫様の姿を使用人や護衛達は微笑ましく見守っていた。
レオナの縄張りである離宮の片隅……と言っても出入りするシェフや使用人もいる為、一般家庭の物と比べればかなり広いその場所は言わば芽唯の城。お砂糖はここ、フライパンにお鍋はこっち。高い戸棚には普段使いしない食器をぎゅっと詰め込んで。
普通の妃ならきっと踏み込みすらしないキッチンは、全て芽唯が使いやすい配置になっている。
そんな最愛のテリトリーで彼女に引きずられている第二王子は特に文句を言うでもなく、それどころか鼻歌すら歌いだしそうなくらい機嫌がいい。
何かに真剣に取り組む妻の手元を興味深そうに覗き込む獅子は彼女の首筋に顎を乗せ、視線の高さを合わせては相変わらず鮮やかな手付きに感嘆の息を漏らした。
「それで? 今年は愛しの旦那様を放置して何を作ろうと張り切ってるんだ」
「放置って……ずるずる一緒に動いてるじゃない」
「今日だけは何を言っても無駄だと学んでるからなァ」
こうして彼女と過ごす今日≠ヘ果たして何度目だっただろうか。
普段はあまり物を強請らない嫁がアレが作りたいだのコレが必要だとタブレットとにらめっこをして材料を買い集める珍しい時期。購入したい理由を熱心にプレゼンをしてくる時もあれば、今年のように内容が伏せられている時もある。
「甘いのと、苦いのと、ちょっと特別なのの三種類」
「特別?」
「お酒入ってるお菓子ってあるでしょ。……嫌い?」
「好き」
くすくすと笑いながら「知ってる」と応える芽唯の手がちょうど洋酒を掴んで生クリームとチョコの海に混ぜ合わせる。手順通りにしっかり計って、まるで錬金術のような工程で作られていくお菓子は勘で分量を決める普段の料理とはまた違った趣がある。
芽唯にしては珍しく、レシピを用意し都度確認し、慎重に、それは慎重に作業を進めているのだ。
一昨年、あまりにレオナがちょっかいをかけたせいで手元が狂い、強すぎる火力に包み込まれた……有体に言えば焦げてしまったカップケーキもまぁ美味しかった。
失敗に青ざめ、慌てふためき。焦げた部分を切り落そうかとうんうん悩む。その全部が自分を思っての行動なのだから、愛おしさを感じない方が無理だろう。
トレイ先輩がいれば良いアイディアをくれるのに、なんて共有の知り合いとは言え、頼りたい相手として未だ縁の切れない男の名を零すのは少し面白くなかったが。ほろ苦いケーキを肴に赤く熟れた頬をなぞって、一等赤い唇を堪能すれば嫉妬心はすぐに燃え尽きた。
鼻孔を擽る匂いが既に美味そうで、きっと今年は上手くいったのだろう。気の抜けるような短い悲鳴もあまり聞いた覚えがない。
「あとは冷やして、あっちは寝かせて……。こっちも寝かせる?」
不意に振り向いた芽唯の手が緩く己の体に巻き付いていたレオナの腕の上をすべる。
「終わったか?」
「お菓子ってどっかのライオンさんみたいに睡眠が大事なの」
「冷蔵庫には入れないでくれよ」
「大丈夫、ライオンさんはソファに招待しますから」
「そいつは僥倖。抱き枕に可愛い嫁さんは付いてくるんだろうな?」
手を引かれるがまま二人で座るには大きくて、寝転ぶには少し狭い。けれどラギーに言わせれば贅沢すぎるソファに揃って腰かける。
当然のように足の間に座る最愛が、これまた当然のように力を抜いて身体を預けてくるのはいくつになってもくすぐったい。
服の裾を捲りあげ、ゆるりと動いて悪戯をしそうな手のひらを先んじて押さえつけた芽唯がレオナの顔を見上げてくる。意外と敏い女は咎めるように口を窄めた。
「だめ」
「まだ何もしてない」
「だーめ」
「……わかったよ」
渋々だ。渋々納得したように頷いたレオナはこれだけは譲らないと彼女の腹に手を回す。
その上に位置する二つの柔らかな膨らみを腕で押し上げるようにぎゅっぎゅっと力を籠めても怒られなかったがこの辺りが引き際だろう。
◇◆◇
レオナが尻尾をピンと伸ばしたり耳をぺたりと伏せたりするのを観察していた芽唯は彼にバレないよう少しだけ息を漏らした。
芽唯だって鬼じゃない。まだ使用人達も居るし、作業だって終わったわけじゃないから止めただけで、本当は自分だってレオナといちゃつきたい。だが、それを言うと調子に乗るのでまだ言わない。
ソファに深く腰掛け、ぬいぐるみのように芽唯を抱え込むレオナの身体が徐々に斜めに傾いていく。本当に抱き枕にされるのを悟った芽唯は言い聞かせるように口を開く。
「ニ十分、ニ十分だけですよ」
「ン……」
別にレオナに言ったわけではない。
耳元で甘い声を漏らす夫が時間を指定したところで公務でもなければ起きるなんてないのだから。
今のは完全に気配を殺し、自分たちは壁であり空気であると静に徹する使用人達へのお願いだ。
ニ十分経ったら起こしてください、お願いします。そんな意味が込められている。
レオナやラギーの厳しい審査を乗り越えて、芽唯とも完全に打ち解けた使用人達は夫婦のやり取りを邪魔することなく、けれど些細なことも見逃さずに拾い上げてくれるプロフェッショナルばかり。
仮に芽唯の救出に失敗したとしても、シェフかメイドが残りの工程を引き継いでくれるはず。
自分の手で完成させたいところだが、甘えるレオナと過ごすのも吝かではないのでその時次第だ。
完全にソファに横になってしまったレオナに抱きこまれた芽唯の首筋を豊かなチョコレートブラウンの鬣が流れ落ちる。顔の横に垂れてきたそれを指先で絡めとり今年のチョコの出来栄えを思い出して芽唯の口角が少し上がる。
甘い匂いが充満した室内で、なによりも甘い大好きな人に包み込まれて。これ以上の幸せがどこにあるのだろう。
完成したお菓子たちに囲まれた、さらなる甘い時間を楽しみにして。今はじっくり寝かせるのだとゆっくりゆっくり瞼を下ろした。