01


 プスパカフェの片隅、店内でもっとも目立たない席。今日は少し早くプライベート時間を満喫していたアルハイゼンの傍らに誰かが立つ。

「こんにちは、あなたが噂の書記官さん?」

 明らかに自身に向けられた言葉だった。けれどアルハイゼンは声を無視すると取り出した本を広げて文字を目で追い始めた。
紙の束に記された著者の知識を掬い上げては正しいものだけを記憶の中に閉じ込める。アーカーシャ端末に頼りきった者は無意味と称することも多いがアルハイゼンはこの行動を好いていた。
いわゆる隙間時間と呼ばれるタイミングでも適当な場所に腰を落ち着け、本を広げるのが習慣になる程度には彼の人生に欠かせないものになっている。
 自身で開発したヘッドホンの遮音機能で外界の無駄な音を切り捨てれば、テイワット中のどこにいようと本を読むための空間を作り上げる。
 不要なもの、間違ったものを篩にかけては捨てることを繰り返し。アルハイゼンはまた少し新たな知識を増やす時間を楽しみ続けた。けれど、最後の一ページを指先でめくれば知識の探求時間は終わりを告げる。
 長時間本を読むという行為は忍耐がいる。同じ姿勢を続ければ身体を痛めやすいし目も疲れる。それでもアルハイゼンは本を読んで知識を得ることを好んでいたし、今は多少なりとも満足感に包まれている。
読み始める前に頼んでいたコーヒーもカップの中はとっくに空になっていた。
そろそろ会計を済ませて店から出よう。本を片付けながら代理店主の姿を探すためにアルハイゼンが顔を上げれば見知らぬ人物と目が合った。

「まだいたのか」
「その……」

 気まずそうに視線を泳がせた女性は恐らく先ほどの声の主だろう。先ほど……と言うにはあまりに時間が経ちすぎているが薄っすらと記憶に残っている。

「出直すつもりだったのだけれど、エンテカさんが『それじゃあ彼と話すなんて無理ですよ』って相席を勧めてくれて……」

 名を呼ばれた代理店主──エンテカに対して彼女にならって視線を向ければなんの悪気もなさそうに肩を竦める。

「お伺いはしましたよ。聞こえていたかは知りませんが……。コーヒー一杯だけで何時間も居座られるなら相席のご協力をお願いします」

 ツンと澄ました顔でそういうとエンテカは二人の視線から逃げるように店内清掃を始める。
 少し前に別の客が立ったであろう席には確かにカップが残されているが、相席を乞われるほど店内に人はいない。それどころか客が入った形跡があるのはそこだけで空席はいくつもある。
 同じように周囲を見渡した女性はエンテカに向けて苦笑したままこちらへ視線を移す。
 ──どうしたものか。口に出すことなく思考の中でアルハイゼンは独り言ちる。
 別に今すぐ席を立ってしまってもいい。会計を済ませて、店を出て、また自分だけの時間に戻るのは簡単だ。
 けれど彼女は「出直そうかと思った」と言っていた。つまり、自分と話すことができるまで何度も訪ねてくる気があるということ。
 ならば今多少なり時間を割いて相手をした方が二度、三度と顔を合わせるよりはずっと楽だろう。

「……十分だけ時間をあげよう」

 深く息を吐きだすように、熟考とは言わないが思いついた結論だけをぶつけるとそれまで困り顔だった女性の表情が花開くように明るくなる。

「それじゃあ改めて……、あなたがアルくんよね?」
「……アルくん?」
「あなたの名前、アルハイゼン。だから長いからアルくん」

 己が教令院の書記官であるのかと尋ねてきたのだから名前を知っていても不思議ではないが、慣れない呼ばれ方にアルハイゼンの眉が僅かに動く。

「君にそんな風に呼ばれる覚えはない」

 不愉快だと示すようにため息を零しながら瞼を閉じれば彼女はそれに対してもくすりと笑う。

「私は」
「アウラリアリア・アプフェルシュランケ。君のことなら知っている。教令院に名を連ねる者で知らない者はまずいないだろう。もちろん、君が自己紹介で与えられた貴重な時間を浪費したいと言うのならば俺は構わないが」

 間髪を容れずに口をはさんだアルハイゼンに目の前の女性──アウラリアリアは瞳を瞬かせる。
 笑みを浮かべて固まったアウラリアリアの様子を気にすることなくアルハイゼンはもう一度口を開く。

「あと八分だ」

 ちらりと横目に時計を確認し、残り時間を無情に告げる。

「ぷっ、あはは! やっぱり、お父さまの言っていたとおりね!」
「…………」
「あ、ごめんなさい。お父さまに『面白い人材がいる』ってあなたのこと聞いていたのだけど想像通りの人だったから」

 肩を震わせくすくすと笑い続けるアウラリアリアは満足そうで、表情を変えることなく己を見つめるアルハイゼンを見つめ返してはにこりと笑った。

「でも、ちゃんと自己紹介させて欲しいわ。私はアウラリアリア。あなたが言っている通り教令院では結構名が通っているわ。お父さまについても知っているのよね?」

 黙って頷いたアルハイゼンだったがこれもまた無駄な会話だと肩をすくめる。
 アウラリアリアの父親は教令院の中でも名高い研究者でありハーバッドの称号を与えられている。若いうちからその才を大いに活かし続けた結果、スメールシティの傍らに大きな屋敷を持つようになった。
 スメールローズが咲き誇る美しい庭はとある建築家すらも唸らせたほどで、この土地に住む者ならば知らぬものはいないだろう。
 ──だが、彼の最たる部分は他にある。
 男には娘がいた。目に入れても痛くないとはよく言ったもので彼はその娘をとても愛していた。
 家族に愛されて育ったその娘は今や美しい女性となり、彼女が教令院の門を叩けば自然と人の視線が集まってくる。特に同年代の男性諸君の視線は顕著であり、彼女の父親は当然それを許さなかった。
 高名な研究者である彼女の父親に教えを乞う生徒は多いが、中にはあわよくばお近づきになれないものかと娘を目当てに講義を受けたがる者も少なくない。
 けれど、娘にほんの少しでも鼻の下を伸ばしたが最後、その生徒の実力では到底手に負えない無理難題を与えられ頭を抱えて何日も、下手すれば何年も苦悩する者は後を絶たない。
 無事に卒業したければアプフェルシュランケ家の娘には手を出すな。
数年前から教令院では有名な標語になっているそれは、まさしく目の前の彼女──アウラリアリアに向けられたものだった。

「そのお父さまがね、あなたのことを教えてくれたの。それで直接本人に会ってみたくなっちゃって」
「……随分と物好きなことだ。その様子だと俺と会っても会話が弾まないことはわかっていたんだろう。ならばアーカーシャから最低限の情報を得て満足したほうが有意義だとは思わなかったのか?」

 耳元のアーカーシャ端末に触れながら目を眇めたアルハイゼンにアウラリアリアは困ったように肩を竦める。
 個人の権限にもよるが、大半の情報は直接調べるよりも、尋ねるよりも、アーカーシャに思考を委ねる方が簡単に手に入る。個人の趣味趣向までとはいかないが、遠目からその人物が誰であるかを確認することくらいならできる。
 それでも彼女はアルハイゼンに直接訪ねた。『あなたが噂の書記官なのか』と。つまり彼女はアーカーシャの機能を使っていないということになる。

「そうね、確かにあなたに喜んでお話してもらえるとは思ってなかった。というより迷惑に思われるのもわかっていたの。でも顔を照合してアーカーシャに答えをもらって、はいおしまい。……じゃつまらないじゃない? 私ね、そういうの直接知りたいの」

 胸の前で両手の指先を触れ合わせたアウラリアリアが首を傾ければ、滑らかな肌の上を艶やかな髪が彩るようにはらはらと落ちる。
 恐らく愛らしいと呼ばれる仕草になんの興味も持たなかったアルハイゼンがぽつりと呟く。

「あと四分」

 制限時間は刻々と迫る。

「なんでもかんでもアーカーシャで調べるのって……ここだけの話、嫌いなのよね」

 誰も聞き耳など……エンテカはそうかもしれないが、立ててもいないのに小声で話すアウラリアリアはまるで悪戯する子供のような笑みを浮かべる。

「だからなんでも自分の目で確かめるようにしているのだけれど」
「俺のことも直接確かめたいと?」
「そう! それでね、やっぱり想像通りの人だったからもっと知りたくなっちゃった。ねえ、本を読むの好き? さっきの本はどんな内容だったの? 最近読んだ本で一番面白かったのはなに?」
「相席していたならタイトルくらい見えていただろう」
「そうだけど……。本を読むのが好きかくらい教えてくれたっていいじゃない」

 ぷくりと頬を膨らませるアウラリアリアに仕方がなくアルハイゼンは片したばかりの本を取り出す。
 持ち歩いていたため多少傷んではいるが、あまり読まれていないことが伺える程度には癖のついていない本をアウラリアリアに向けて置く。

「その本、お父さまも昔読んでいたわ。やっぱりアルくんはお父さまの言う通り面白い人なのかも」

 声を弾ませて喜んだアウラリアリアが本を手に取る様子はない。父親が読んでいた、ということは彼女の家にもあるのだろうか。少なくとも知恵の殿堂にこの本は収められていない。

「その本、好奇心を仰ぐのは上手なのに肝心な部分が載ってない。なんてことなかった?」
「……、ある程度の満足感はあった。が、確かに君の言う通り確信に触れる前に終わってしまった」

 なにも得るものがなかったとは言わない。けれどもう一歩踏み込んだところまで書き記して欲しかったというのが本音だ。
 この著者ならばもう一歩先の結論へたどり着くことが出来ただろうに残念でならない。

「ふふ、お父さまとまったく同じことを言うのね」

 そう言って何度も頷いたアウラリアリアは満足そうな笑みを浮かべると脇に置いていた鞄から一冊の本を取り出した。

「ならこの本にも興味を持ってくるんじゃない?」
「それは……」

 そもそもでスメールでは形のある書籍自体が珍しい。テイワット最大の図書館である知恵の殿堂には多くの本が天井に届くほどの本棚に保管されているが世界中すべての本が揃っているわけではない。
 特に貴重な書籍ほどコレクターが個人の蔵書として大事に部屋を飾り立てるために活用し、世に出回ることがほとんどない。
 アウラリアリアが差し出した本を手に取ったアルハイゼンは背表紙をなぞるとその指ですぐに表紙をめくる。
 ぱらぱらと数ページほど読み解くだけで割いた時間に対して十分な、否それ以上の知識を得られることが確信できるような内容だ。

「興味持ってくれた?」

 軽く目を通し終え、顔をあげれば見計ったようにアウラリアリアが笑顔を向けてくる。
 カチリと時計の針が進んだ音が耳に届く。彼女に与えた十分が丁度終わった。しかしアルハイゼンは席を立つ気にはならなかった。

「……君の狙いは、いや──望みは?」

 少し惜しい気もするが本をアウラリアリアへ返したアルハイゼンは思案するように指を己の顎に添える。

「察しているだろうけれど、それお父さまのコレクションなの。うちにはそういうあなたが好みそうな本が山ほどあるわ。例えば──その本の続編、とか」

 まだテーブルに乗せたままだったアルハイゼンの本を指さしたアウラリアリアが口元を緩ませる。

「続きが出ていたのか」
「えぇ。お父さまが必死に探してやっとの思いで手に入れた一冊だから、仮に同じ物がまだどこかの流通に乗っていてもあなたが入手する機会が巡ってくるとは限らないんじゃないかしら」
「…………」

 もし仮に目の前で法外な値段でその本が売られていたとしよう。
 アルハイゼンにはそれを入手できるだけの財力がある。書記官という仕事は多くの情報に触れられるのと同時に実に安定した職業だ。手が届く場所にあればアルハイゼンは金額を理由に入手を惜しむことはないだろう。
 しかし、この本がとても貴重な品である……ということが問題だ。
 彼女は父親の影響で恐らく本の価値を正しく理解している。そうでなくとも、彼女の父親ほどの人物が血眼になってようやく手に入れた。ということは、価格うんぬん以前に非常に希少性の高いということ。
 存在しないものはどれだけの力があったとしても手に入れることなど出来やしない。
 無言のままアウラリアリアをじっと見つめれば返した本が差し出される。
 譲る、という意思表示ではないだろう。手に取ることでなにかしらの条件を提示されるはずだ。
 そのなにかしらについてもアルハイゼンは既に推察出来ていた。だからこそ手に取るかどうか悩んでしまう。
 そんなアルハイゼンの心情を察しているのか、アウラリアリアは黙ったままだ。

「……君に割ける時間はあまり多くない」
「もちろん知ってるわ。書記官さんのお仕事は忙しいでしょうし、本を読むのは時間がかかるもの」
「面白い人材、と言ったが俺が君の期待に応えられるとは限らない」
「それは大丈夫! 私、今もとっても楽しいの」
「変わり者だな」
「あなたもね」

 皮肉めいた口調でそう言ったものの、変わり者という言葉はアルハイゼンの中では賛辞である。
 変わっているということは一般的と言われる人々と違うということの証明であり。より優れたものこそ大衆には理解されないものだからだ。

「……わかった。俺の時間を多少ならば君に割こう。代わりに……」
「お父さまのコレクションいつでも好きなものを貸し出すわ! 私も本が好きだから内容を理解しきれてないけれど、どんな本かはある程度は把握してる。言ってくれれば好みのものを探してくる!」

 少しため息交じりに本を受け取ればあっという間にアウラリアリアの浮かべた綺麗な笑みが無邪気な子供のようなものに変わる。
 ぱぁっと花開いたかのように変わった笑みはどこか人懐っこく、コロコロと変わる表情は見ていて飽きることはないだろう。

「よろしくね、アルくん!」
「…………」

 呼び方を再度訂正するのを忘れていた。
 けれど既に手遅れだ。アルくんと声を弾ませるアウラリアリアになにを言っても変えさせることはできないだろう。
 この呼び名も本を借りる条件の内に含まれるのだと自分に言い聞かせてアルハイゼンは瞼を閉じる。
 今は既に受け取ったこの本を読むのが楽しみで仕方がない。

「次に会うときには読んでいた本の続編持ってくるわ」
「あぁ」
「それじゃあ、時間も過ぎちゃってるし私帰るわね」

 そう言ってすぐに立ち上がったアウラリアリアは惜しむ素振りもなく店から出て行く。

「ありがとうございました」

 お辞儀をしながら見送ったエンテカが何か言いたげにこちらを見たが話すことは特にない。

「……会計を」

 ようやく当初の目的に戻ってこれたと席を立ったアルハイゼンの鼻孔をかすかなスメールローズの香りが掠める。
 ふと確認した時計の針は予定よりも大幅に進んでいた──。

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