後編


 窓辺から鳥の鳴き声が聞こえてくる。
 ゆっくりと瞼を開けばまだラリスが眠っていた。

(夢……じゃない)

 思わず手を伸ばし確かめる。
 ラリスは確かに隣で眠っていて、しかもジョシュアの手にすり寄ってくる。
 昨夜は夢のようだと呟いたのは彼女の方だった。
 けれど、一夜明けてみればあのひとときが夢だったのではとジョシュアの方が疑いたくなっていた。
 床に投げ出された自分たちの服と彼女を交互に見つめたジョシュアは息を吐く。やっぱり現実だ。

「っ……」

 寝返りを打つときにシーツがこすれ、背中の傷にちりちりとした痛みが走る。
 指先で触れてみれば血は出ていないようだが、きっと立派な傷跡がそこにはあるのだろう。

(見られないよにしないと……ラリスは気に病むだろうな……)

 もうこんな小さな傷跡すら癒えない自分がなんだかおかしくて自然と笑いがこみ上げる。
 以前であれば一瞬で……いや、この傷ばかりはあえて残していたかもしれない。

「ラリス、朝だよ」

 ラリスが残したその痕を勲章のように思いながら、張本人を揺り起こす。
 なにせ早くしなければ子供たちがやってきかねない。
 彼らは気まぐれで、来るときもあれば来ない時もある。
 けれど、大体こういう来てほしくない朝に限って突撃してくることが多かった。
 流石に『どうして服を着てないの』と問われたら他の大人たちに怒られない回答を探すのは難しい。

「んん……?」
「目が覚めた?」

 何度か身体を揺さぶればラリスが眠たそうに瞼をこする。
 腕が布をめくりあげそうだったのでジョシュアはさりげなくそれを抑えると欠伸をしながら身体を起こすラリスをそのまま包みこみ、自分は一足先に服を身にまとう。
 痛っ、とラリスが先ほどのジョシュアのように呻くのを背後に聞きながら袖を通すと、痛みのおかげかやっと意識がはっきりしたらしいラリスがジョシュアを見てひゃっとなんとも言えない悲鳴を上げる。

「大丈夫? どこが痛いの」
「や、ちょ、ま、……待って!」
「ラリス?」

 一歩近づけばラリスが後ろに手をついて器用に逃げていく。
 もちろん、毛布も必死に掴んでいるのであまり動きは早くない。

「や、やめ、だめ! 今はダメ! ふ、普通に話しかけないで……!」

 真っ赤な顔でそう訴えて、ラリスは毛布に包まった。
 あまりにも大きく動くので「痛っ」と彼女はまた悲鳴を上げる。

「……どうしたの?」

 昨日はあんなに情熱的に見つめてくれたのに、今日のラリスは顔すら合わせてくれないなんて聞いてない。
 そっと近くに腰かければ、丸まったラリスが身じろぎする。

「な、なんであなたは平気なの⁉ き……昨日、あんな……あんなことしたのにっ!」

 必死に叫ぶラリスが少しだけ顔を出す。
 彼女を隠してしまう布をはぐのは簡単だけれど、無理にそうすれば怒らせてしまうのは目に見えていた。
 ならば、まずは問いに答えるのが最善だろう。

「何故って言われても……。恥ずかしい、とは思わないからかな」
「なんっ……ぐっ……か、壁……薄くないわよね」
「……少なくとも昨夜は誰も来なかったみたいだよ」

 ジョシュアにしてみれば昨夜はただただ幸せだった。
 なにも恥じることなどない。
 しいて言えば、今のラリスを見ると「二度目はなし!」と言われないかの方が心配だ。

「っ、服……!」
「はい、どうぞ」

 誰か、という言葉に大きく反応したラリスがきょろきょろと服を探す。
 すぐにジョシュアが差し出せば飛びつくように奪っていき「あっち向いてて!」と叫びながら着替えだす。

「そんなに慌てなくても……あー……。いや、早くした方がよさそうだ」
「へ?」

 くすっとジョシュアが笑うのと同時に扉の向こうでパタパタと足音が響く。

「ラリス先生〜!」
「今日ね! ご馳走だよ!」
「ジョシュアせんせーも早く起きて!」

 ドンドンと大きな音を立てて扉が叩かれる。
 ラリスはひぃっと情けない悲鳴を上げながら必死に服に腕を通す。
 何度目かのノックの後に「開けちゃおうぜ」と誰かの無邪気な声がして「待ってなさい!」とラリスが叫ぶのでジョシュアは笑いをこらえるのでやっとだった。

「ちょっとジョシュア⁉」
「ふっ、はは、ごめんごめん。わかってる。流石に子供たちに何があったかなんて説明できないからね」

 一旦寝間着姿に戻ったラリスが視界に入ってくると腕を高く振り上げる。
 怒っているのだと仕草で表現するラリスがあまりにも可愛くて声を上げて笑い出したジョシュアは目尻に溢れだした涙を拭うと「任せて」と立ち上がった。

「まだ身体が辛いだろう? 僕がなんとかしてくるから」
「ほんとに……?」

 唇を尖らせて、すっかり拗ねてしまったラリスをベッドの端に座らせるとジョシュアはやんちゃな来訪者たちを出迎えるべく扉に向かって歩を進めた。

「あっ」

 ガチャ、と少しだけ扉を開ければ持ち手を握っていた一人と目が合った。
 どうやら、あと一歩でも遅ければ先に開けられていたようだ。

(危なかったな)

 まあ、ラリスはすでに服を着ているし、ベッドの悲惨な状態さえ見られなければ誤魔化すことはできただろう。

「ジョシュア先生おっそーい! ラリス先生は?」

 問いかけに答えるために振り向けばラリスは腰を摩りながらこちらを睨んでいる。
 音を出さずに動く唇は「はやく」とジョシュアを急かす。

「ごめんね。ラリス先生は今日は少し疲れてるんだ」
「えー、なんでー?」
「まだ起きたばっかりでしょ?」
「……だから、みんなで先に行っておいで」

 自分が原因だとも言えず、ジョシュアは子供たちの背を押すと無理やり部屋から遠ざける。
 みんな揃って首をひねるが、聞き分けのいい子たちで助かった。
 またあとでねー、と残して去る小さな背中を見送って扉を後ろ手で閉めながら息を吐く。

「……今日くらい部屋を出なくてもいいんだよ」

 ベッドに横たわり、うずくまったまま顔を赤くしたラリスを見たジョシュアがぽつりと呟く。
 子供たちはなんとか騙せたが、大人たちはそうもいかない。
 今のラリスの姿を見れば、昨夜何があったかなんて語るまでもないだろう。

「……ずっと部屋に籠ってる方が怪しいわ」
「それはそうだけど……昨日は無理をさせてしまったから……」

 ジョシュアとしてもラリスにはじっとしていて欲しかった。
 何度も腰を気にするそぶりを見せるラリスの身体にかかった負荷がどれほどか、ジョシュアには想像することしかできない。
 近くに座って腰を撫でればラリスが静かに目を細めた。
 このまま続けていればまた眠ってしまいそうな、安らいだその表情に胸が暖かくなる。
 ジョシュアはずっとこの時間が欲しかった。

「……大丈夫、子供たちにもああ言ったんだから平気でしょ。朝ごはんはしっかり食べなきゃ」
「本当に? 無理だけはしないで」
「大丈夫。心配性ね」

 ベッドから立ち上がったラリスが支度を始めるので隣でジョシュアもそれに倣う。
 痛みに耐えながらも笑う彼女が愛おしくてたまらなかった。

◆◇◆

「おはようございますジョシュア様、ラリス」
「おはようヨーテ」

 ラリスを支えながらラウンジに足を運べば二人分の朝食が並んでいる。

「せんせーたちおっそーい」
「おれたちもう行くからなー」
「はいはい、シャーリーを困らせないのよ!」
「はーい!」

 駆けていく子供たちに声をかけながら座ったラリスが小さく「痛っ」と零せばヨーテの眉がぴくりと動く。
 そして少しの沈黙の後、何かを察したようにラウンジを出ていった。

(流石に彼女にはわかってしまったかな……)

 ヨーテは素晴らしい従者だ。
 主人であるジョシュアだけでなく、その恋仲のラリスにも細かく気を配ってくれている。
 そうでなくともヨーテにとって、ラリスは数少ない同性の友人と呼べる存在だ。
 きっと自分たちの様子を見て、何が起きたのかは察しがついたのだろう。

(後でお小言を言われないと良いけど)

 しばらくして戻ってきたヨーテは、何事もなかったかのような表情で何かを運んでくる。

「ラリス、そのまま座ったままで」

 そう言って少し冷めてしまった朝食の傍に新しく湯気の立ったお湯を置き、隣には温めた布を小さく畳んで添える。

「身体を冷やさないように」
「……ありがとう」

 ラリスが少し頬を赤く染めると、ヨーテは一度だけジョシュアを見る。

「ジョシュア様」
「……何かな」
「あとで少し、お時間をいただけますか」

 穏やかな声だった。
 怒っているわけではない。
 けれど、それがかえって恐ろしい。

「もちろん」

 そう答えるしかなかった。
 ラリスは朝食を口元に運びながら、不思議そうにジョシュアとヨーテを見比べている。

「…………?」
「気にしなくていいよ、ラリス」
「ええ。ラリスは朝食を召し上がってください」

 二人同時にそう言ったせいで、ラリスはきょとんとしたあと小さく笑った。

「お、ラリスとジョシュアは今から朝飯か?」
「おはようガブ」

 ゆっくりとした動作でラリスが返事をすれば、ガブが首を傾げ、後ろからやってきたクライヴとジルも不思議そうな顔で席に着く。

「……ラリス、大丈夫か?」

 彼女の不自然な仕草に気づいたのだろう。
 クライヴが気遣うように尋ねれば、ラリスは小さく頷いた。

「え、ええ……ちょっと寝不足なだけよ」

 寝不足。
 間違ってはいない。
 けれど、その理由を知っているのはこの場でジョシュアとラリスだけ……いや、ヨーテは気づいているだろう。
 クライヴはそれ以上深くは聞かなかった。
 代わりにラリスを支えるジョシュアの手元へ一瞬だけ視線を落とし、小さく「そうか」とだけ呟く。
 彼の隣に座ったジルも柔らかく微笑むだけだった。
 それ以上、誰も昨夜のことには触れない。

「ふーん……」

 けれど、そんな静寂をニヤリと笑ったガブが破る。
 空いた席にどかりと腰を下ろすと二人を見比べて豪快に笑う。
 
「ははっ、隠れ家にまた子供が増える日も近いかもな!」

 無邪気な、子供のような笑い声。
 けれどその内容にラウンジが静まり返る。
 クライヴは口元を抑えたかと思えば、小さく肩を震わせる。
 ジルは「こほん」と咳ばらいを一つ。
 ヨーテは無表情を崩さなかったが、ほんの少しだけ視線を逸らした。
 そして、ラリスはというと…………。

「……〜〜〜〜〜っ!」

 耳まで真っ赤に染め上げて、目を見開いて固まっている。
 彼女の手からフォークがぽとりと落ちて、皿とぶつかり小さな金属音が響く。
 テーブルの端をぎゅっと掴んだラリスはぱくぱくと開閉を繰り返すが、唇から言葉は紡がれない。

「ん? なんだよ。別におかしなことは言ってないだろ?」

 けろっとした顔で平然と続けるガブは肝が据わっているのか、状況を理解していないのかはわからない。
 ただ一つ確かなことは、ラリスはこれ以上耐えられないということだけだ。

「ガブ、その辺りでやめようか」

 感情を音に乗せず、淡々と彼の言葉を遮る。
 ガブは首をかしげたが、隣ではラリスが恥ずかしさからか身じろいで眉を僅かに寄せている。
 心配でジョシュアが覗き込むとラリスは真っ赤な顔のまま視線を逸らし、小さな悲鳴を漏らした
 ……昨夜を思い出したのだろう。
 その反応が愛おしい反面、無理をさせてしまったのではないかという思いが胸をよぎる。

(やっぱり部屋に居た方がよかった……かな)

 身体のことだけじゃない、精神的にもラリスはきっともう限界だ。
 視線を上げれば何か言いたげな表情でヨーテがジョシュアをじっと見ている。
 朝食を終えたらまずは彼女の話を聞かなければ。
 きっと、ラリスに何をしてあげるべきかも教えてくれるに違いない。
 身もだえしながら腰を抑えるラリスの背をそっと摩れば、照れ隠しのように肩を震わせながらも、ほんの少しだけ力を抜く。
 二人の様子を見たガブだけが「やっぱりな!」と嬉しそうに笑い、その声だけがやけにラウンジに響き渡った。
 ガブの声を聞いてラリスが真っ赤になりながらも小さく笑う。
 彼女に釣られて笑ったジョシュア自身も恥ずかしくて、照れくさくて、それでも幸せだった。

 長い夜は、ようやく終わった。
 そう思えるほどの幸福が、胸を静かに満たしている。
 これから先は、二人で歩いていく朝が続いていくのだろう。

 ──明けない夜は、もうどこにもない。

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