とろむ瞼に映る面影


 次第に日も昇って暑くなってきた頃合いかというところで、羽織っていたカーディガンを脱いで、部屋に置いたまま廊下へと出た。そろそろ紫外線も強くなってきたのでその対策の意味で羽織っていたのだけれど、日中の上昇した気温にはそろそろ耐えられそうにもない。日焼け止めを塗るのはベタベタとして嫌なのだけれど、そろそろ致し方ないのだろうか。全く、夏というものはつくづく苦手だ。いつまでもこの春のカラッとした空気が続けばいいのに、と思う。

 一種の神域であるこの本丸においてそれは可能ではあるのだけれど、私はそれを行うことはしなかった。一年中この春のカラッとした空気の中で散ることのない桜が舞い続ける生活。幾ら春が好きとはいえ、毎日春というのはきっと気が滅入る。春は一年に一回、限定的な時期に来るからいいものなのだ。それとこれとは別にして、やはり夏は好きになれないのだが。

「今日はいつもの羽織は着ていないんだな」

 そろそろお昼にでもしようかと、厨に向けて足を進めていたところをふと呼び止められる。私を呼び止めた声の主は、内番服のまま湯呑みを片手に縁側に腰掛けていた鶯丸だった。彼は年中変わらずここに腰掛けて、年中変わらずお茶を呑んでいる。今日は馬当番にあてがっていた筈だと咎めるが、それも最早形骸化してしまった常套句のようなものだ。細かいことは気にするな、と彼もまた彼でお決まりの台詞を吐いて、その場から動こうとはしなかった。

「もう日の元で着ていると、暑いから」
「そうか。残念だな」
「残念?」

 一体何が残念なのか。残念がっている素振りなど全く見せないままの鶯丸に問い返せば、口元に持っていた湯呑みを手に持ったまま膝の上におろして、一拍間を置いてからあれだ、と目の前の一本の大木を指した。鶯丸が指した木はこの本丸に初めからある木で、今は青々とした葉を無数に携えている。少し前までは満開に咲き誇っていた、桜の木だ。

「主はいつも、あの桜が散った頃にあれを羽織るだろう?」
「まあ、そうですね」
「あの桜色の羽織は随分と主に似合っていて綺麗だったからな。勝手に余韻を楽しんでいただけのことだ」
「……また随分と口が上手ですね」

 この男は、またそうやって軽率に。言葉に詰まるこちらの胸中など知りもしないのだろう。
 彼が似合っていると褒める桜色のカーディガンは、なにもそんな上等なものではない。ワゴンセールに出ていた安物のセーターだ。それを何年もずっと着ているものだから、手入れはしていても襟口が歪んでいたり、毛玉ができていたりしている。初任給で買った、思い入れだけはあるカーディガン。褒めて貰えるのは嬉しいのだけれど、せっかくならもっと別の場所でその言葉を使って欲しかった。会議などに向かうために粧し込んだときは特に何も言わないのに、彼は随分とあのカーディガンを気に入っているようで、事あるごとにあのカーディガンを褒める。密かに彼に感情を寄せる私には、その言葉がなんとも複雑な心持ちにさせる要因となるのだ。

 きっと彼にはこんな言葉、戯れでしかないのだろうけれど。

「主も茶でも飲むか?さっき平野が変わった茶菓子をくれたんだ」

 見れば、鶯丸の持っていたそれはマフィンだった。くれた平野が言うには燭台切が試作したもののひとつなのだそう。近頃燭台切が洋菓子に凝っていると言うのは耳に届いていたけれど、ここまでのものだとは思っていなかった。鶯丸の持っていたマフィンは、素人の手作り菓子と言うよりは立派に洋菓子屋で陳列されていそうなクオリティだ。私もお菓子を作るのは好きだけれど、ここまで上手く焼き上げる事はきっとできないだろう。

 マフィンが気になったのと、ここにもう少しいたいのと。他のものには間違っても口走れない理由で、私は鶯丸の横に腰をおろした。昼食前でお腹は空いていたけれど、マフィンならきっとその空腹も満たしてくれる。あまりにも都合のいい状況に甘え、どこから出したのか鶯丸が渡してきた湯呑みを受け取って、一口喉へと通す。鶯丸がここへ来てからしばらく時間が経っているのか、差し出されたお茶は人肌程度にぬるかった。先ほどから早鐘を打つ鼓動を落ち着けるには丁度良くて、それなのにまた新たに私の嗅覚を襲った彼の匂いがその鼓動の速度を早めていく。先ほどまで仕事をしていたのだろう、少し汗臭い、春の香りがした。それを誤魔化すようにマフィンを勢いよく頬張っては、必死に平静を装う。

「あまり急いでは喉を詰めるぞ」
「……美味しいんです」
「そうか。それならよかった」

 勢いよく頬張ってしまったせいか、拳大ほどのサイズがあったマフィンは思いの外早く無くなってしまった。残っているのは冷えかけのお茶だけ。これが無くなってしまえばこの席から去ることになるのだな、と思うと、湯呑みを持つ手は不思議と口元へは行かない。時折不自然ではないように口元へ持って行っては、減っているのかどうかもはっきりしないほど小さく小さく喉へと通す。その間は特に話す言葉もないというのに、不思議なものでこの時間がたまらなく愛おしいと思うのだ。こうして、なんでもない時間を共有できる彼のそばが、私はこの本丸で一番好きだ。

 いつだったか、この席を独占してしまいたいと思ったことがあった。この席を私だけの特等席にして、ずっと彼のそばにいたいと。刀剣男士はどうあっても神様で、人間である私たちがそう言った感情を抱くのは悪だと、研修生時代から散々に言われてきた話。私の中にあるその感情が、超えてはならない一線をとうに超えてしまっているものだというのは分かっていても、想うのは自由だと正当化しようとしたこともあった。けれど、どれだけ彼のことを愛していても、臆病な私にはその一線を超えられない。超えることによって自分の身に起こるやも知れぬ事象に対する恐怖に、抗えはしなかったのだ。

「今日はまた一段と、いい天気だ」

 誰に言うでもなく呟いた彼の言葉に、ふと空をみる。雲ひとつない青空の中を、鳥たちが自由に飛び回っている。神様も人間も刀剣男士も審神者も、なんのしがらみもなく想いを通わせることができたのなら、一体どれだけ楽だっただろうか。私の胸中に潜む感情を彼が受け入れてくれるのかはともかく、どこかに吐き出すことができたのなら少しは楽だったかもしれない。思えば際限はないが、思わずにはいられなかった。空飛ぶ鳥たちが目一杯その羽を広げるように、私もこの感情を曝け出すことができればよかったのに。

 そんなままならないことばかり考えていたからか、次第に襲ってきたのは睡魔だった。答えのでない割には、ひどく脳のリソースを消費する。朝から業務に終われていたから、疲れてもいたのかもしれない。意に反して重くなる瞼には抗えず、次第に船を漕ぐ私に対して、彼は何も言わずに空を眺めているばかりだった。

「主も強情だな。そろそろ素直になってくれてもいい頃合いだと思うんだが」

 挨拶を交わすように、何気ないトーンで、当たり前のように。鶯丸がそう呟いた頃には、私に既に意識はない。返事のないその言葉には、お茶のおかわりを持ってやってきた平野が苦笑いをこぼしただけだった。


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