コットンの肌触り


 押し入れの中に閉まっていた木箱を何とか取り出して一息つく。この木箱を取り出すために一体どれだけの労力を割いたのだろう。よく片付けるときはあまり使わないものを奥に、なんて言うが、こうして奥にしまっていてしまうといざ必要になった時に困る。それを今ありありと痛感した。行おうと思っていた作業にはまだ一切手を付けられていないのに、もう既に背中にはうっすらと汗をかいている。張り付くシャツが不愉快で、パタパタと胸元をつかんで仰いだ。

 木箱の中に仕舞われているのは、ネイル用品。学生時代にいっときハマって、それ以降微量ではあるが気に入った色をコレクションしていたりする。この本丸に来てから随分と押し入れの中に仕舞われているそれは、既に固まってしまっていて使えないものもあった。これを掘り出してきて塗ろう!なんて考えに至ったのはただの気まぐれでしかないのだけれど、こうして現物と向き合うと案外楽しいものだ。
 中でも比較的買ったばかりの(とはいっても購入からは随分と時間が経ってしまっているが)ものを選んで、試しに一本塗ってみる。開けてから時間の経ってしまっているそれは、やはり少し硬くて塗りにくい。それでもなんとか不恰好に見えない程度に塗ることのできたそれを宙に掲げてみては、自己満足だから多少の粗は構わないのだと言い聞かせる。そう、これは自己満足。洗脳のように刷り込ませていれば不思議なもので、少しムラがあったり、はみ出ていたりするのも気にならなくなる。そのまま逆の手も塗ってしまおうと思った、その瞬間だった。

「主?今ちょっといい?」

 いいよ、と許可を促すのと一拍遅れて部屋に入ってきたのは加州だった。何か用?と聞けば、厨を担当している刀たちから今晩のリクエストを聞いてくるように頼まれたらしかった。他にも何か話したいことがあるのか知らないが、どうやら加州の要件はそれを聞くだけではないようで、慣れた手つきで押し入れの手前に閉まってある座布団を取り出しては私の向かいに腰掛ける。特に用があるわけでもなく、気の向いた時にふらっと私の部屋へとやってきて話をしていく刀剣男士はそう少なくはない。

   ひとつの要因として考えられるのは、私がこうして誰かと話すのが好きだということ。大所帯において、一人に容認してしまったものというのは瞬く間に共通認識として広がっていく。誰が最初だったかはもう記憶が定かではないが、加州もこうしてよくやってくるうちの一振りだ。いつものようにお茶を出してあげようとして席を立って、そこで私は今爪を塗ってしまったところだ、と我に返った。この手でお茶を入れるのは少し怖い。加州には申し訳ないが、今回はお茶を出すのは諦めよう。

 そこまで考えて再度席に腰掛けようとした私と、机の有様を見て察したのか、加州は自分で淹れるから構わないと言って立ち上がる。

「珍しいじゃん、主が爪塗るの」
「うん、まあなんとなく。こういうのあんまり得意じゃないし、不恰好だけどね」

 ふうん、と相槌をひとつ、沸いたお湯をティーポットに入れながら加州はつぶやいた。コポコポと心地の良い音が鳴って、暫くしてから二つのマグカップに入ったお茶を持って戻ってきた。そのうちのひとつを私の前に置く。ありがとう、と礼を言えば、加州は嬉しそうに笑っていた。

「そういえば加州は爪、綺麗にしてるよね」
「まあね。やっぱり常に可愛くしてたいし?習慣みたいなものかな」
「凄いなあ、私よりよっぽど加州の方が女子力高いような気がするよ」

 改めて自分の塗った爪を宙にかざしてみる。久しぶりに塗ったからか、やはりその出来はお世辞にもいいものとは言い難い。マグカップを握る加州の爪をみると、先程までは満足のいっていたものが急に気に入らなくなってしまう。ムラのひとつもなく綺麗な紅に彩られたそれは、改めてみるととても綺麗だ。自己満足とはいえ、このクオリティで満足していたのが急に恥ずかしくなって、除光液に手を伸ばした。手元のコットンを一枚取り出して、除光液を染み込ませて指に当てる。ひんやりとした除光液の感覚と、つんとした独特の匂い。癖のある匂いに眉を顰めながらも、不恰好なそれを綺麗さっぱり落とし切る。

「それ、落としちゃうの?」
「うん。なんか、あんまり綺麗にできなかったから」

 学生時代はもっと綺麗に塗れていたような気もするのだが、どうやっていたっけ。塗り方自体は変わらないはずなのに、どうも上手くいかない。一度失敗してしまうと、二回目は妙に緊張した。筆を持つ手が震えてしまって、これではより一層上手くいく気がしない。

 爪に筆が乗らないまま、ああでもない、こうでもないと繰り返すこと五分程。頭の中で浮かべているほど綺麗にできないものだとは分かっているけれど、ああも不恰好になってしまうものなのだろうか。先程の出来の悪さに頭を悩ませながら、自然と目が向いてしまうのはやはり加州の爪。ムラひとつない、塗り残しも見当たらない綺麗な爪。いっそ生まれた時から赤い爪をしているのではないかと思うくらい(顕現した時から綺麗な紅をしていたから、あながちその表現は間違っていないのかもしれないが)綺麗な紅。ここまで綺麗に塗れたら文句はないのにな、と思いながら、もう一度爪と向き合ってみる。それでもやはり、あんなにも綺麗に仕上げられる気は到底しなかった。

「俺がやったげよっか、それ」

 私が格闘している様子を見かねたのか、頬杖をつきながらこちらを黙ってみていた加州がふと呟く。このまま続けていても自分ではどうにも上手くいきそうになかったので、やってくれるというのなら願ったり叶ったりである。じゃあお願いしようかな、と私が言うと、加州は分かりやすく頬を緩ませて、任せといて、と言った。使っていた座布団を持って私の横にやってきて、まず一番初めに除光液とコットンを手に取る。自分でやったときは中々際まで綺麗に落としきれなかったところを落とす作業から始めるようだった。

「主。手、出して」
「……お願いします」

「なんでそんな緊張してんの。普通にしてていーよ」

 加州は私が差し出した左手を手に取って、除光液の染み込んだコットンを爪のひとつにそっと押し当てる。際に残ってしまっている色を落とすために縁取るようにそっと触れるその手つきが優しくて、不覚にもドキッとしてしまう。細められた加州の目はいつになく真剣で、どうにも緊張して小さく震える。その度に加州は手を止めるから、一向に作業が進まない。変に意識してしまうのもよくないと分かっていても、平常心でいるのに必死だった。じっとしててね、なんて言う加州に頷きながら、緊張を解くことに集中する。感覚を研ぎ澄ませることによってはっきりと感じられるようになったコットンの柔らかい感触が、不思議と次第に心を落ち着けてくれた。

「色はこれでいいの?」

 私が先程塗っていたスカイブルーの色をしたその小瓶を手に取って、加州は問う。塗る前はあんなにも綺麗に見えていた色が、これまた不思議なものでそう心が惹かれない。うーん、としばらく一考して、やっぱりこっちで、と木箱の中からひとつの小瓶を取り出す。その中に入っているのは、スカイブルーではなく、加州の爪と同じ、鮮やかな紅。加州の綺麗な紅を見ていたからか、今の私にはこの色が一番綺麗に感じられた。一瞬驚いたような顔をして硬直した加州は、それでも嬉しそうに、お揃いだね、なんて言って今日一番の笑顔で笑う。それがなんだか嬉しくて、それでいてどこか小っ恥ずかしいような気もした。

「任せといて。とびっきり可愛くしてあげる」


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