「I love you」が言えない


※友人の誕生日にあげたものです。
※現パロ

 ふと目に入った外の景色は、もう随分と暗闇に染まってしまっていた。固まった体を起こして大きな欠伸をひとつ、誰に見られてもいないのをいいことにつく。いつもの定位置はカウンターからは見えない仕様になっていて、大体職員しかいないこの図書館では、この席に座っていれば誰からも見られないと言っても過言ではなかった。誰にも邪魔をされない、静かな環境。こんなにも自習に適した場所を、他にそう幾つも思いつかない。平たく言ってしまえば、お気に入りの場所だ。

 リュックの中から麦茶の入った水筒と、それから持ち運び用の小さな鏡を持ち出す。眠ってしまっていたことによって乾いたのどを潤すためと、それから顔に跡が付いてしまっていないかを確認するためだ。以前、同じようにここで眠ってしまっていた時、通りすがったという知り合いに頬についたノートの跡を指摘され、恥ずかしい思いをしたことがあるのだ。今回は付いていませんように、と思いながら鏡を開くも、どうやらそんなささやかな願いは届かなかったようで、思っていたよりもくっきりとした跡が残ってしまっている。その跡の濃さが、自分がいかにこの場所で長時間眠っていたのかを物語っていて、虚しい。幸か不幸か、跡が付いてしまっていた場所は耳の下あたりで、結っている髪を降ろせば何とか隠せる場所だった。

「おっ、やっぱりここにいたか」

 図書館の閉館まではもう少し時間があるので、せめてこの課題だけでも終わらせて帰ろう、と意気込んだ矢先。頭上から飛んできた声の持ち主はいつぞやの知り合いだった。普段から頻繁にここで顔を合わせるわけではないのに、どうしてこんな日に限って運悪く彼は現れるのだろう。まるで狙ったようなそのタイミングを恨めしく思いながらも、顔に付いてしまっている跡を隠すように、サイドの髪をゆるく手櫛でとく。不自然ではないように気を使いながら、それでもバレないように必死だった。

「和泉守くん、今日バイトじゃなかったの?」
「あーー、まあそうなんだけどよ。思ってたより暇で、早く上げられちまってな」

 だから本でも読みにきたんだ、と、これはまた分厚そうな本を持って私の向かいの席に座った。頭を使うことはあまり得意ではない、と自称する割に、頭の回転は早ければ知識や教養も豊富な彼は、こうして時折図書館にやってきては、私には到底難しそうな本ばかり読んでいる。それも、結構なペースで読み終えてしまうものだから、毎度毎度凄いな、と思う。彼が身につけている教養については、時折非常勤の講師として大学にもやってくる彼の親戚のせいだと本人がよく零しているが、それを何の気なしに聞いていても理解して吸収しているあたり、きっと地頭がいいのだろう。あの先生の言葉は、たまに言い回しが複雑で理解しづらいことがある。

 手につけていた課題がひと段落して、開いていたノートと参考書を閉じる。出しっぱなしにしていた水筒を再び開いて、気持ちを切り替えるようにして麦茶を流し込んだ。ふと携帯を見れば閉館まではまだ時間があったけれど、メモに残していた一文で今日は夕飯の食材を買いに行かねばならなかったことを思い出した。家の近くのスーパーのタイムセールはもうすぐだ。そろそろ切り上げて帰ろうかと荷物を纏め始めたその時、正面に座っている和泉守くんも何かを思い出したように本を閉じて、携帯を一瞥する。しかしそれはすぐに置いて私の方を一瞥しては、何か言いたげな表情でじいっとこちらを見つめている。モデルかと言わんばかりの整った表情をした彼にじっと見つめられ続けるのは何だか気まずくて、片付ける手は自然と止まった。そして何よりも、この頬の跡に気づかれてしまったのかと思うと、気が気ではなくて。どうしたの、と恐る恐る問えば、和泉守くんはようやく口を開く。

「髪、今日は下ろしてんだな」
「あ、ああ……うん……そうだね……」
「いっつも括ってっから、なんか新鮮だな。いいんじゃねえの」

 いまいち意図の掴めない発言に戸惑いを隠せない表情で見つめ返すが、それでも彼からの視線は止まない。まだ何か言いたいことがあるのか__もしかして、頬の跡がバレたのかと内心ビクビクしながらじっと見つめていれば、彼は鞄の中からラッピングされた袋をひとつ取り出してこちらへと渡してきた。予期せぬものの登場の唖然とする私を見て、彼はまた物言いたげにこちらを見つめている。今度は何を言わんとしているのかが何となく分かって、けれどそれが勘違いだったら恥ずかしくて何も言えなくて、口籠ってしまう。そんな私の心境を分かっているのかいないのか、彼は少し投げやりな口調で答えを提示した。

「誕生日だったろ、今日」
「え、なに、覚えてくれてたの?」
「何言ってんだ、当たり前じゃねえか」

 私の考えていたことはどうやらはずれではなかったようだ。まさか彼から貰えるとは思っていなくて、思わず口元が綻ぶ。どうしても口角が上がるのが抑えきれなくて困る。こんなことをされたら自惚れてしまうからやめてほしい。こうやって彼が優しくするのは何も私にだけではないことは分かっているし、私のように勘違いしている人間が少なくないのも分かっている。そして、その中のたった一人になれないであろうということも。だから、あんまり表に感情を出し過ぎて、この胸中が悟られてしまうのだけは避けたかった。叶わないことを分かった上で、それでも抱く恋慕というのは地獄に近い。誕生日を祝われて嬉しくないことなどないのだから、この喜びを表に出すのは間違ってはいないのだけれど、必要以上に喜んでもよくないのだろう。理性と本能が葛藤する中、そんな無用な考えは彼の一言で全て瓦解したのだが。


「惚れた女の誕生日くらい、誰でも覚えてるもんだろ」


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