お互いさま
「ただいま〜〜……」
きちんと整列されてその顔をこちらへと向けてくる靴たち、汚れを見つけるのにも苦労しそうな清潔な玄関。つい少し前まで住んでいた家では終ぞ見られることのなかったその有様に、本当はここは自宅なのだろうかと疑いたくなる。そんな綺麗な玄関に私の吐いた常套句が反響して、それを合図に奥の部屋から「おかえり」と返事が聞こえた。
一日パンプスを履き続けたことによる足の疲労は凄まじい。足の裏から伝わるフローリングの感覚は、何度経験しても妙に慣れないものがあるが、更にそこからじんわりと足全体の重さへと発展し始めるなんとも言えない感覚は、今日の労働も激務であったことが的確に脳へと伝わっている証拠でもある。一日の業務を思い出しては目が回るような心地になった。
「今日もえらい遅かったな。お疲れさん」
「ごめんね、今からご飯するから……」
「自分、今繁忙期や言うてたし疲れてるやろ?こんな時くらいゆっくり座っときや」
「でも、」
「ええから」
そう言って、スーツを脱いで部屋着に着替えた私を無理矢理リビングのソファーに座らせて、ひとりキッチンの方へと行ってしまった彼の背中を、何が出てくるのだろうと密かに心を躍らせながらじっと眺める。家に帰ってきて、何もせずにご飯が出てくるのなんて一体いつぶりだろう。彼のその優しさに、思わず視界が歪みそうになった。
彼、蔵ノ介と同棲し始めてからというものの、私の生活水準は随分と上がったように思う。以前であれば繁忙期の時なんて、ろくに料理もせずコンビニで買った弁当であったりだとか、もっと追い込まれている時はゼリー飲料や栄養食品で済ませてしまったり、それこそ食べない時だって珍しくはなかった。それが今、こうしてきちんと三食食べられているというのは、間違いなく彼のお陰だ。私より出勤時間の早い彼は、私が起きた頃には既に大方支度を済ませている。弁当だって「一人分も二人分も、そんな大して変わらんから」と言って、いつもギリギリまで私を寝かせてくれる。流石にしてもらってばかりも申し訳なくて夕食はいつも私が作ることにしているけれど、それだって今日はこのザマだ。
「出来たで。簡単なモンで悪いけど、冷める前に食うてしまおう」
「……ありがとう」
健康に気を遣う彼らしい、きちんとバランスの採れた内容に思わず舌を巻く。これで簡単と言われてしまえば私はどうすればいいのだろう。明日からの献立は考え直すべきかな、なんて事を考えながら、中々こうもしっかりと隙のない献立は考えられない、と諦めかけている自分もいた。
「ご馳走さま」
「食器、俺が片付けるから置いといたままでかまへんで」
「いや、でもそれは流石に……」
「ええねん、俺がしたくてやっとんやから。俺のために、素直に甘えたってくれへん?」
そうやって言われれば首肯する以外に手はなくて、また彼は私がそうやって言われると弱いことも分かっている。あくまでも「俺のため」。そう言って彼は私をいつも甘やかす。テキパキと二人分の食器を片付ける彼を、私はまたぼうっと見ていることしかできなかった。同棲を持ちかけてくれたのは彼の方からだったけれど、これでは彼の負担にしかならないのではないだろうか。今は始めたばかりであるからこそこうして甘やかしてくれるけれど、きっと年月を重ねる毎にそれでは立ち行かなくなる。第一、彼だって私と同じように社会人として普通に働いているのだ、生活する上で彼ばかりに負担を強いるのはよくないし、こちらとしても心苦しい。
「ほんとにごめんね、いつも甘えてばっかりで」
「気にせんでええよ、そんなん。だって最近疲れとるやろ?顔に出てんで」
「……そんなにわかりやすい?」
彼には、本当に隠し事ができない。「せやなあ」なんて考え込む仕草をして、彼は私の問いにイエスとは言わなかった。きっと、その質問を肯定すれば私が隠してしまうであろうことを分かっているのだろう。甘えるのがつくづく下手な私を、甘やかすのがとことん上手い。このままだと、きっと本当に彼なしでは生きられなくなってしまう。
「なあ、ちょっとこっち来て?」
「なに?」
食器を洗い終わったのだろう、手を拭いている彼に招かれるがままに立ち上がって、彼の横に立つ。普段はあまり意識しないけれど、こうやってみるとやっぱり身長高いなあ、とか、疲れて朦朧とした頭でそんなことを考えながらじいっと、何か言いたげな彼の顔をじっと見つめる。彼はフッと僅かに広角を上げて、そのまま私の腰に腕を回して、自分の方に引き寄せた。急に引き寄せられて崩した体勢も、彼の大きな体に吸い込まれるように受け止められる。
「ね、ちょっと、何すんの」
「んー?俺もちょっと疲れたから、甘やかして欲しいなーとか思っただけや」
「なにそれ。もう……」
彼は私を抱き締めたまま、肩口に顔を擦り付けては甘えるような仕草をとる。猫か。そんな彼の頭をそっと撫でてやれば、彼は満足気に笑った。なんだかんだ彼は、私を甘やかすのは得意でも、甘えるのは下手。そんなところばかりが、私と彼は似ている。だから彼のこの行動だって、ただただ甘えているだけではないのも理解していた。
「ねえ、こっち向いて」
「何や、もうちょいこのままでいさせてや」
「いいから」
渋々私のいうことを聞いて顔を離した彼は、先程とは打って変わって少し不機嫌そうな顔で私を見つめる。「屈んで」といえばそれに従って姿勢を低くした彼に、小さくひとつ口付けを落とした。今度は私が満足気に微笑んで見せれば、彼は困ったように眉を下げて言った。
「……ええん?疲れてるんやろ」
「いいよ、疲れてるのに色々やってくれたしね」
私からの甘やかしを大人しく享受する気になったらしい彼は、まるで合図のように、再度私に小さな口付けをした。