質素なアパートの質素なキッチンは、部屋の主を差し置いてとても忙しそうに働いている。コンロは二つとも大きな鍋とフライパンに占領され、近くにあるこじんまりとした冷蔵庫も見た目とは裏腹に充実している。包丁がまな板を小さく叩く音、火にかけた鍋が沸騰する音、熱したフライパンの上で何かが焼ける音。それら全てはこの部屋の主の為に。今日口にしたものが明日の彼の為になりますようにと、なまえは手を動かしていた。

 彼の明日は祈りで作られるものではない。今日この日をどう生きたかで彼の明日は変わる。不動の明日などない、彼はかつて明日を捨てた男だ。しかし、ひょんなことからその先を生き、今を生きている。昔の姿はとうになく、今はより大きくなった体で生きている。この部屋の戸棚や冷蔵庫の中身を知っているだろうか、想像が出来ないほどに夥しい数の薬が眠っている。この部屋の主はそれらを常日頃から摂取していると知っているだろうか。その事実を知ったなまえは、彼の薬との関係を咎めることはしなかった。代わりに一緒に食事を摂るように申し出た。いつでもいい、最低でも一日、もしくは一回でも顔を突き合わせて食事をしようと。そして今、彼女は彼と顔を突き合わせる理由を拵えている。

「よくもまぁ、飽きねェもんだぜ」
「最近は忙しそうにしてたから、久しぶりだよね」
「俺にも仕事があるもんでな」
「知ってる。危ない仕事して、平気な顔でふらっと帰ってくるの、」
「……言ってくれる」
「私を誰だと思ってるの?あなたの良きパートナーでしょ」

 良きパートナー、ねェ……。と誰かにそっくりな笑顔を浮かべるジャックに不安が引いていく。実のところ、心配してばかりだ。どんなに強がりを吐こうとも、どんなに彼が強くとも心配だけは消えてくれない。だから、こうして顔を合わせられたなら、うんとたくさんの料理を出して、呆れるほど満たしてやりたいと思う。心配を上回るほどのお節介だ。

「まぁいい、好きにしな」

 リビングのソファーに足を伸ばして寛いでいるジャックがいつ見ても窮屈そうに見えて面白い。二メートルを越える大男がその体を預けられるソファーは普通の売り場にはないだろう。質素な部屋に住む彼がソファーにまで気を使えるとは思えず、棚の奥に眠る薬の価値を今一度疑ってしまう。人体に大きな影響を及ぼす薬、大きな体を預けられる程の大きなソファー。彼にしてみれば、明らかに前者の方が大切なのだ。彼の天秤はいつもたった一瓶の薬の方が重く傾く。自分はいつだって軽く浮かんでしまう皿にばかり思いを乗せている。

「心配してるんだよ」
「知らねぇワケじゃねェさ」
「仕事のこととか、体のこと、」

 いつか途絶えてしまうんじゃないかと怖くなる時がある。生活の営みが、生命の灯火が、ふっと強く吹いた風に攫われて消えてしまうんじゃないかと。大きく切り分けられた肉がフライパンの熱で身を焦がしている。不安は彼の喜ぶ料理を何皿作ろうとも決して容易くは消えてくれない。彼には約束された明日がない。だから明日もまた腹を空かしてここに戻ってきて欲しいと願いながら、一皿一皿を作っていく。今日の内に見ておきたい顔がたくさんあるのだ。

「今、どこかに居る弟のことを思い出した」
「弟……?ジャックには弟さんがいるの……?」
「腹違い、だ。ウチは家庭環境が複雑なモンでね」
「そう。でも、どうして急に弟さんのことを」
「風の噂で聞いただけだが、見違えるように強くなったッてんだ」
「強く、なった……、ッてことは弟さんもジャックと同じ、」
「いや、向こうはまだ学生だ。学生でありながら、強くなっちまった。そしてそんな弟には最近、ガールフレンドが出来たとも聞いた」

 アイツが強くなった理由が今、何となくだが分かったような気がする。と、どこかをぼんやりと見つめるジャックの横顔をなまえは初めて見た。それは彼が強さを手に入れた時より素っ気ない反応だった。しかし、なまえにとってはその反応が何よりも嬉しかった。感情とは、薬のように必要な成分がいくつ、どれくらい含まれているか分からない曖昧なものだ。中にはそれを疎ましく思う者もいるだろう。だが、それがあるからこそ得られる何かがある。ジャックもその何かが得られたということなのだろうか。なまえはそんな気がしている。

「……そのガールフレンドが羨ましいな、」
「羨ましい、だと?」
「学生さんなら、危ないこともきっと少ないでしょう?だから、」
「なまえはまだウチの血をよく分かっちゃいねェ」

 視界の端でソファーにあった大きな山が動いた。自然と会話も、調理の手も止まってしまう程にジャックとの距離はとても近いものだった。息を呑む。自分より背の高い相手に緊張してしまうのは咄嗟の反応だ。しかし、その相手がジャックともなると、異常な身長差に酷く緊張してしまう。大きな影の中に小さな自分がすっぽりと収まっている。

「範馬の血は伊達じゃねェ。たった一滴でもその身体ン中流れてりゃあ、強さを求め、戦わずにはいられねェ」
「……やっぱり苦労する血筋ってこと、範馬さんの血とやらは」
「嫌ならいつでも、」
「ううん、嫌じゃない。血筋とか、戦いなんて私には関係ないけど、その範馬の血?……が流れてるジャックが好きなの」
「なまえ、何故お前は俺の世話を焼く」
「前にも言ったでしょ。あなたの体が心配だッて」

 コンロの火を止め、隣の男を見上げる。答えを待つジャックを見上げ、なまえは背伸びをしながら手を伸ばし、なんとか胸の辺りに触れた。ジャックはなまえのとった行動に訝しげな顔をし、更にはそれについて問いかけた。一体、どういうことだと。

「……ここが人間の一番大切な部分でしょ、」
「肺か心臓……、いや胸骨か、」
「違う。ここには心もあるでしょ。確かにジャックは体にばかり過度な栄養をあげてるみたいだけど、」

 心にあげる栄養がなくていいわけない。もっとここにも栄養をあげなくちゃ。私はあなたの心にそれをあげたいの。
 なまえは真面目な、しかし、どこか怒っているようにも見える顔で呟いた。互いに目が逸らせないでいると、先に笑顔を見せたのはなまえだった。そして、ジャックを自分の小さな体でうんと抱き締めた。小さい背丈だ、ジャックが骨延長手術を施す前から身長差は顕著なものだったが、更に身長を伸ばしたジャックが小さななまえを持ち上げるのに苦労はなく。

「ちょっと、ジャック……!急に何するのッ、」
「たまにはなまえの話を聞いてやろうってんだ、大人しくしてな」
「もっといい聞き方ッてのがあるでしょ……!」
「ったく、ホラ、噛み付くんじゃねェ、」

 なまえを抱え込んだジャックは自分が寛いでいたソファーに戻ると、自分の膝になまえを置き、頼りない背もたれに巨大な体を預けた。そして僅か数秒後、その巨躯には似合わない穏やかな心音の傍に引き寄せられた。生きている音がする体に耳をあて、なまえは背中へと腕を回す。不意に抱き締めたくなったのだ、体ばかりが強靭になってしまった彼のことを。強さに呪われた範馬の血が流れるジャックのことを。

「……それで、俺はどうすりゃあいい」
「まずは美味しいご飯を食べよう。ご飯は美味しいと嬉しいじゃない、」
「そりゃあ、メシは美味いに限るな」
「あとお肉ばっかりじゃなくて、野菜もしっかり食べて」
「……努力はするさ」
「よし。それじゃあ、ご飯作ってくるから、ここで」

 腕の中から抜け出そうとした時だった。あの大きな手が頭をそっと押し付ける。離れるな、と言いたそうな行動に続きを言い忘れていた。耳も頬も彼の胸板にぴったりとくっついていて、彼の気まぐれに困惑する瞳は瞬きをしきりに繰り返している。

「食べたいものとか、ある……?レシピさえあれば、大体は作れるから」
「探しておく」
「離れたくない……?」
「ほんの少しだけだ」
「……今度、一緒に買い物にでも行かない?」
「ああ、かまわねェよ」
「私たち、もう少し素直にならなきゃね」
「そうだな」

 外していた腕を再びジャックの背へと回し、今度は力強く抱き締めた。きっと彼にとっては痛くも痒くもない、もしかしたら力んでいることすら分からないかもしれない。それでも苦しい程に強く抱き締めた。いつでもここで待っていると、あなたの好きなものを作って待っていると。だから、明日もここに帰ってきて欲しい。そう祈るように、なまえは今日も食事を拵えるのだ。



| お腹を空かせて帰ってきて |


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