繁華街の喧騒と人混みはどこであっても、忙しなく雑多で目まぐるしく流れていく。まだ人混みに呑まれて流されていれば良かったのかもしれない。繁華街、大通りのネオンが明るければ明るいほど、その街の影もまた色濃く存在する場所だ。
ここはひしめき合う街の中のほんの一角、夜空を侵食するビルや建物は無闇矢鱈にその手を伸ばし、強すぎる照明の眩い光で星も夜も食い尽くす。夜空を食らう建物の足元には深い影が蔓延する。例えば、ビルとビルの間に続く細い路地。そこにはこの街の汚い部分がはっきりと残されている。下品なビラ、地面に転がるゴミ、煙草の吸殻も粗末な安酒も見知らぬ誰かの頭上に降る。
欲望が渦巻く街には二種類の人間しかいないという。毟り取る側と毟り取られる側の二つ。それは街のどこであっても行われ、いつも弱き者がその餌食となる。路地裏を懸命に駆けていく女の姿があった。表情は緊迫しており、恐怖に強ばっている。
女はみょうじなまえと言った。この繁華街にある小さな料理店の店員だ。店長の頼み事で急遽在庫の切れた食材を買いに出かければ、街の影の部分に目をつけられ、顔も名前も知らない男に追い掛けられている。ここで働いているとは言え、街の全貌を網羅している訳ではない。自分の体力のなさは自分が一番分かっている。早く大通りに出なければ、人がいる所まで逃げてしまえば後はそのまま何とかなるはずだ。
その男には突然、声を掛けられた。時間帯も遅く、相手も昼間には抱けない感情を持って接してきたことだろう。そういう相手は一目見ればすぐにわかる。相手の目がどこを見て、表情で何を考えているのか。この街で過ごしていれば、自ずと人を見る力は培われていく。上手くかわそうとしたものの、相手の男は食い下がらず、今こうして汚く、薄暗い路地で追い掛けられている。
本当はとても怖い。体力だって長続きしないくらいには呆気ないものだ。路地は路地で道が細かく別れていて、正直どこを行けばいいのか分からない。ましてや、路地裏だ。誰かに助けを求めようにも、その誰かも得体が知れなくて声をかけられない。そもそも、走っている間に人を見つける余裕なんてものもない。ああ、もう、胸が痛いッ。ここはどこだろう、近くにとても立派な建物が佇んでいるくせに辺りに人はいない。
なまえは懸命に道を探していた、自身を助けてくれる人を探していた。足も疲労にもつれ、今にも転んでしまいそうだ。だが、遂にこの鬼ごっこも終わりを迎える。先に足を止めたのはなまえだった。彼女が辿り着いた先は、どこかの建物の裏手側。駆け抜けるはずだった道は金網で遮断され、向こう側へ行くことが出来ない。
その状況を真っ先に理解したなまえは青ざめていた。止まってしまった足も今までの疲労で重くなり始める。後ろから同様に立ち止まる音が聞こえ、振り返ればあの男がいた。散々、手こずらされて苛立ちながらも、あとは思うがままだと知った笑みを隠し切れないようで、なまえは一人恐怖する。無事でいられる気がしないと頭が先に悪夢を見た。悲鳴すら上げられない、自分の臆病さが嫌になる。悪夢が現実に手を伸ばす。
すると、突然近くの建物からドアの開く音が聞こえ、なまえと男は同時にそのドアを見た。建付けの悪い音を響かせながら、それは開かれ、中からは一人の男が出てきた。白い服を着た、強面の男は寡黙な口元に煙草を一本添えている。煙草の男はなまえとその場にいる男を盗み見ては小さく言葉を吐き捨てた。
「……ここで何をしている」
その男の登場により、路地の雰囲気は一瞬にて様変わりする。重たくのしかかり、首元には刃物を当てられているかのような緊張感。突き刺すような視線に身動きが取れない。あの煙草の男の前で動いてはいけないとさえ感じさせるほどの威圧。先に耐えられなかったのはなまえの方だった。追いかけ回されていたせいで、危機感覚が麻痺していた。
「……たッ、助けて、……ください、」
一言口にしてしまえば、次から次へと言葉が出てくる。なまえの口から出て来たのは、自分が見知らぬ男に追い掛けられ、身の危険を感じていることの一点だけだった。言葉が足りぬことも、多すぎることもなく、それだけを涙混じりに告白すれば、男が遅れて反論する。
「元はと言えば、お前が俺の誘いに乗らねェからだろうがッ」
「……わ、わたしは、嫌だって言ってるじゃないッ!」
「それにアンタは関係ねぇんだッ!ひっこんで……」
ひっこんでいろ、と男の怒声が路地に響くはずだった。しかし、いつまで経っても路地の静寂は破られず、なまえが状況を理解した時には。
「ただ一服しに来ただけだ」
いつの間にか男の正面に煙草の男の姿があった。路地は確かに沈黙していた、それなのに煙草の男がいつ近づいていったのかが分からない。音さえしなかった、となまえが驚いていると今度は逆上した男の怒鳴り声が聞こえてきた。一方的に罵る男を目の前にして、煙草の男はようやく口に置き去りにしていたそれに火をつける。それが相手には面白くなく、怒りはよりエスカレートしていくが、煙草の男も気にかける様子はなく、ただ黙々と煙草を吸っては煙を吐いているばかり。
「……てめェ、」
逆上した男が拳を構えた時、今まで相手にしていなかった男は吸ったばかりの煙草の煙を吹きかけた。その瞬間、相手の体が僅かに浮き、やがて地に落ち、何も言わなくなった。なまえは一部始終を見ていたが、煙草の男が何をしたか全く分からず、呆然と白い背中を見つめていた。何をしたのだろう、まだ恐怖が尾を引き摺っている中、煙草の男は振り返り、ひとり取り残されたなまえの近くへと歩み寄ってきた。
「……あ、あのッ、……あの人は、」
「見ての通りだ」
「ありがとうございます、本当に……」
「さっさと行け。こんなところ、女が一人でうろつくもんじゃない」
「でも、その、頬に血が、」
なまえが震えた指先で男の右頬を指差せば、煙草の男は顔色一つ変えずにがら空きの手で頬を確かめる。手のひらに付着した血液を見た男は大して驚きもせず、ただ黙って煙草を吹かしているばかり。
「……こ、これ、よければ、」
震える重たい足で煙草の男の傍に駆け寄ると、なまえは手にしていた買い物袋から、新品のタオルを取り出すと、震えの止まらない手で差し出した。見上げる女と見上げられる男。自分より小さな女が震える手でそれを差し出しているという事実に、男は咥えていた煙草を捨て、タオルを受け取った。闇の中でもギラギラと鈍く光る革靴は威圧的で、足元に落とされた煙草の火を捻じ消す。
「弁償は出来ない」
「かまいません、あなたには助けてもらっているので」
「生憎、人様の前に出られるような身分じゃないのでね」
ついて来い。と言いたげに顔で合図すると、男は勝手に歩き出した。先程のした男を路地裏に置き去りにして。なまえは先を歩く男について行きながら、その場を離れた。一人で逃げていた路地も、助けてくれた男と歩けば心強かった。二人の間に会話はなく、ただ薄汚い路地を抜けていく。右に、左に、真っ直ぐ、ある時は道なりに。会話のない時間は重苦しい空気だったが、あの追いかけ回してきた男に比べればマシだった。
***
男について行くと、路地裏から大通りまではあまり時間がかからなかった。その間も男となまえには言葉のひとつもなく、黙って歩くばかり。なまえも人の行き交う場所まで来れば、この男と別れるだろうと思っていた。しかし、男は大通りの人混みに合流してもなまえを引き連れて歩き続けた。どこに行くのだろう、と疑問が首を傾げ出した頃、一つ気付くことがあった。それは周りの景色だ、繁華街は人数の多さから良く路面にはタクシーが停車している。もしかして、と思えば、この後の男の行動はなまえにも予想出来うるものだった。
来客に気付かない運転手に呼びかけるように曲げた指の関節でコンコンと窓を叩く。その音に気付いた運転手は急いで後部座席のドアを開け、すみません。と口にした。ドアが開いてからは、今度はこっちに視線を投げ掛けられ、なまえは咄嗟に言葉が出て来なかった。
「今日はもう帰った方がいい」
男はなまえの腕を掴むと、タクシーの座席になまえを誘導し、乗車するよう促した。突然の出来事になまえは、あのッ!ちょっと!待ってくださいッ!と声を上げた。
「あの、私、ちゃんとお礼も出来てないのに、」
「……弁償は出来ないが、これで事足りるだろう」
男は懐から紙幣と思われるものを数枚取り出し、なまえの手に握らせ、そのままタクシーに押し込むと運転手にドアを閉じるよう言い付けた。窓越しに男を見れば、三秒と持たずに踵を返し、人混みに紛れていく。なまえは急いで窓を目いっぱいに下げ、身を乗り出して叫んだ。
「この街の小さな料理店で働いていますから……ッ!お礼もしたいので、食べに来てくださいッ!お店の名前は……!」
今伝えられることを全て叫び切ると、離れていく通りで誰もがこちらを不思議そうに見ていた。たった一人、白い背中を向けたまま歩いていく男を除いて。
追い掛けられ、大声で叫んだなまえはぐったりとした様子で背もたれに体を預けた。運転手もなまえの行動には驚かされたもので、ルームミラー越しにハハハ……と苦笑いを浮かべている姿が見えた。
「なに、お姉さん、あの人に助けてもらったんだ」
「……ええ、危ないところを助けてもらいました」
「あのね、ウチもタクシーやってるもんだからさ、ちょっとだけ街の事情には詳しくてね」
「はあ、」
「あの人、結構やばい人なんだよ。裏社会じゃ知らない人は居ないってくらいの」
運転手の何気ない一言にどきりとする。裏社会という三文字はとてつもない物騒さと恐ろしさを醸し出すが、聞けなかった彼の名前を尋ねれば、あの男が裏社会に生きる龍書文という男だと言うことを教えてくれた。
また会えるかと呟けば、どうだろうねぇ、と無責任な一言が返ってきて溜め息を一つ。これは彼なりの優しさなのだろうか、それとも面倒事をこれで解決したかっただけなのだろうか。それでも、余りが多すぎること。しっかりとお礼をしたいこと。たったその二点がなまえの胸に龍書文という男を刻み込ませた。またいつか会えるだろうか、流れていく街並みになまえは一人、龍に掴まれた腕に手を添え、運転手の呑気な話に耳を傾けるのだった。
| 迷わぬ内に早くお帰り |