真っ直ぐな目をしていた。深く深く芯を捉えるように動じない眼差しだった。理由は聞くのではなく、その瞳で自然と理解させられた。そうしなければいけない彼の事情も、どうしても抗えない性も、心が今何を見つめ、どこを見ているのかも。

 最初の知らせは電話越しだった。ここからしてあんまりである。自分の女に一世一代の大決心を語るのに、電話を選ぶものだろうか。なまえは連絡を貰ったその日の内に愚地克巳の元を訪ねた。遅い時間帯とか、そこら辺の細かなことは全く大した問題じゃない。なまえにとって一番の問題は大切なことを電話で済ませようとした愚地克巳本人だ。雨だろうが何だろうが、夜分遅くにお構い無しの訪問を愚地克巳は苦笑していた。

「へェ、それでわざわざ……?」

 本当に?と聞きたそうに目を丸くして、こちらへと差し出した手からタオルを受け取るよりも先に、温度差のある距離を詰めて行った。言いたいことはたくさんある。しかし、まだその日ではないことに安堵していた。電話の内容とは、愚地克巳が連日報道されている、氷漬けで発見された古代人に勝負を挑むというものだった。嫌な予感がした、なまえの中で揺るぎない程の確信もあった。

「……電話だけなんて、あんまりだよ」
「ハハハ……、ゴメン」
「顔、会わせられない理由があった……?」
「……まァね、」
「こういう時こそ、顔見ておかなきゃ」
「間違いねェや」

 玄関を照らす小さな照明に照らされながら、なまえはその場に座り込んだ。雨の中を駆けてきたせいか、今更ゾクリと背筋を震わせる寒気が体に走る。愚地克巳はその場に屈んでは、手に持っていたタオルをなまえの頭上に被せた。そして水気を拭き取るように手を上から下へと滑らせて行く。体に触れるタオルはあちこちの水気を拭き取ってくれ、やや強い手つきもなまえにとっては安心材料の一つだった。

「……結構、濡れてンな」
「家、飛び出して来ちゃッた」
「ッたく、何してんだ」
「会いたかったから」
「……わかってるよ」
「会いたかったから、克巳くんに」
「わかってる」
「もっと私のこと、見てよ」

 こんなンなるまで走って来たの。すごく健気じゃない?と薄ら笑いを浮かべて見せた。後先考えずに飛び出した自分の愚かさが身に染みる。彼の元に怒りに来たのに、気付けば反対に慰められている。タオルが肌に擦れていく度に適切とは言えない力強さに包まれて安心しているのだ。自分勝手ではないだろうか、彼も、自分も。

「全くもって、健気だわ。よく俺なんかと付き合う気になったなッて、そう思う」
「それは言い過ぎ。でも、みんな、こうなのかな」
「……少なくとも、俺の母さんもなまえと同じことを思っただろうに」
「克巳くんのお父さんのこと?」
「しょうがねェよ、子は親に似るッて言うから」
「やっぱりちょっと勝手すぎない?」
「それに俺は親父に無理言って、この試合譲ってもらったんだ」

 試合……、なんて可愛いモンじゃねーけどさ。とこういう時にばかり、愚地克巳は無邪気な笑顔を見せる。タオルと濡れた髪の隙間から、その笑顔を見た時、強い衝動に駆られた。家を飛び出した時と同じ、引き寄せられるような感覚がする。腕を伸ばし、彼を包み隠してしまおう。雨でぐちゃぐちゃに濡れた胸元で申し訳ないが、ぐっと抱き締めて離さない。いや、離せなかった。取られてしまいそうだと思った。愚地克巳が、命の赤い糸が巻き取られてしまうと。

「どうしたよ、苦しいッて」
「こうしたい気分なの」
「……センチメンタル?」
「デリカシーがないよ、克巳くん」
「照れ隠しだッて」
「克巳くんも照れ隠しするンだ、知らなかった」
「……照れ隠ししてばっかだよ、俺は」

 冷たい衣服越しに温かな手が触れる。ああ、そうされると、自然と腕を解いてしまう。取られまいと抱き締めたのに、受け入れるように腕を回されてはこれ以上、運命から彼を奪えない。するり、と絡み付いた腕は呆気なく解けた。ねじ曲げられないそれになまえは、ずるいと零した。

「ずるい?そうかな」
「有無を言わせてくれないもの、」
「そうかもね。……確かに、そうかも」

 今度は困った顔をしていた。別に困らせたかった訳じゃない、けれど、困らせてしまった事実がここにある。ごめん、と言い出せない自分の愚かな唇を噛んだ。すると、ダメだって。と彼の慌てた指が唇に触れる。噛まない、俺が困るから。と分厚い指が下唇を二、三度なぞった。

「もうひとつだけ、ずるいことしていい?」

 ずるいこと。その言葉だけが胸に繰り返し響いて彼を見た。視線が重なるよりも先に触れ、重なるものがあった。息継ぎの合間に僅かに後ずさる。すると、離れた分だけそれは近付いてまた触れる。彼の胸元に手を置けば、細い手首をやんわりと掴まれ、より引き寄せられる。
 雨の匂い、嗅ぎなれた湿った匂い。実は何度も触れたことのない感触、こうしてキスをするのは指折り数える程しかない。こんなに強く引き寄せられたことも、奪い合ったこともない。瞼を閉じれば、気が楽だった。何もかも任せてしまえば良いのだから。しかし、それじゃあ物足りないと自分から一度だけ奪ってみた。代わりに壁際まで追い詰められて、唇が離れた頃にはじっとりと濡れた二人が部屋の入口で互いを確かめている。

「ずるいこと、したのに怒らないンだ」
「次があるッて約束出来る……?」
「約束は、……ゴメン」
「そういう顔するって分かってたから、怒れないんだよ」
「その優しさが身に染みるよ、つくづくね」
「ね、もう一回しようよ」

 この誘いが意外だったのか、……へ?と間の抜けた顔をして、ぱちくりと瞬きをしている。しかし、すぐに真剣な顔をして熱い吐息を千切りながら、二度目の口付けを交わす。力任せに抱けない体へ回された手のひらの温かさに酔う。冷え切った体の奥に灯る火に、自分の心が燻っていると分かる。

「そんなに物足りないものかねェ、」
「安心したいだけだよ」
「それじゃあ、まるで俺が頼りないッて言ってんのと同じじゃねェか」
「どんなに克巳くんのことを好きでいても、強いって分かっていても、怖いものは怖いよ」
「……そっか、」

 でもさ、受け入れるしか、呑み込むしかないじゃない。と口にして初めて、自分自身がどうしたかったのかが分かった。試合に行くのを止めたかったんじゃない。その無謀は生死に関わるのだと説教したかったんじゃない。彼が決めたことを受け入れる為に、こうして顔を合わせて話をしたかったのだと。

「ねぇ、帰りたくない」

 直接面と向かって話し合えた今、この場から早々に立ち去ることは選びたくなくて、まだ寄り添える時間があるならそうしていたくて。なまえは熱の滲んだ瞳を黙って見つめていた。すると、求めていた返事は何も飾らず、ありのままにやって来る。

「俺だッて帰したくない」

 はっきりと言い切られたことが嬉しかった。これなら、帰らなくていい理由をわざわざ探さなくていい。それに何より、互いが同じ気持ちであったことの方が重要だ。……なんか、恥ずかしくない?私たち。そう、かも。ねえ。なに。持て余した会話を投げかけては戻ってきたそれを、再び持て余す。今したいのはそんな暇つぶしじゃないと、俯くのを止め、彼を見れば。バチッと火花が散るような錯覚を見た。射抜くように強い瞳が既にこちらを見ていたと知り、ゾクリとした予感に襲われる。

「今夜はこの頼りなさに付き合ってほしい」

  有無を聞かずにそれは触れ、熱を共有する。互いに余裕はなく、しかし、持て余す言葉だけはあり、だからと頼りなさをさらけ出し、二人はより深みに飲み込まれていく。まだ見ぬ明日に思いを馳せて。



| 結んで離さないで |


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