那田蜘蛛山は蜘蛛の住処だと言われている。勿論、ただの蜘蛛ではない。蜘蛛を模した鬼達の住処だ。しかし、そこに集まる者達には皆、理由があった。鬼狩りを恐れ、逃れて来た鬼達が身を寄せる場所だと聞く。自分も少なからず、逃れて来た鬼の一人だった。幸いなことに今まで鬼狩りに見つかったことはなく、細々と人を喰らいながら生きてきた。那田蜘蛛山の噂を耳にした時、自分も他の鬼同様に身を寄せようと、夜な夜な那田蜘蛛山へと向かっていた。
山の麓に到着して分かったのは、その山が険しく鬼狩り達から身を隠すのに適した山だと言うことだ。夜になれば闇が綺麗に自身を覆ってくれる。無数の木々に道を遮られては、後を追うこともままならない筈だ。なまえは夜闇の心地良さに酔いしれながら、那田蜘蛛山に足を踏み入れた。
他にも鬼がここに身を寄せていると聞くが、不思議なことに仲間の気配がしない。鬼狩りを恐れているのだから、やたら滅多に姿を見せないのが当然なのかもしれない。なまえは生い茂る木々の間をすり抜け、山中へと歩みを進めて行く。山に入ってから数十分が過ぎた頃、近くで人の声のようなものが聞こえて来た。山に迷い込んだ客人かもしれない、なまえは嬉々としてその声の方向へと近付いて行った。
自然と足が止まる。大木の影に身を潜め、声の主を確かめれば、黒い服に身を包んだ人間と奇妙な出で立ちの少年が互いに向き合い、何かを話している。一人は恐らく鬼狩りだろう、そしてもう一人は同族の鬼だ。これは危機一髪という状況ではないだろうか。相手は抜いた刀の切っ先を向け、仲間の鬼は指に引っ掛けた紐であやとりをして遊んでいる。
流石にこの状況を見過ごす訳にはいかなかった。確かに鬼狩りを恐れてはいるが、同胞が狩られる姿など見たくないのが本音だ。なまえは息を殺し、黒い隊服を来た男の背後に忍び寄った。そして男の頬目掛けて大きく手を振り抜く。パンッ、と何かが弾ける音がすれば、既に男の頭はない。目の前にあるのは、頭を失った人間の体だけ。なまえは崩れるように倒れていく男を無視して、真っ先にあやとりで遊ぶ少年の無事を確かめた。
「……大丈夫?あの鬼狩りに酷いことされてない?」
「お前が僕を助けたのか?」
鬼狩りに遭遇した少年は何事もなかったかのように、落ち着いた声音で問い掛けてきた。動揺も、恐怖もしていない少年は、見た目に反して肝が据わっているようだ。白い頭髪に白い肌、身に纏う着物も綺麗な白一色だった。
「お前、どうして僕を助けたんだ」
「それは、あなたが斬られるのを見たくなかったの」
「外からやって来たお前には関係の無いことだろ」
「でも、私もあなたも同じ鬼でしょう?だったら、助け合ったって別にいいはずよ」
「……ふぅん、」
ギロリ、と赤と白の眼が突き刺すように自分を見つめている。おどろおどろしい風貌だが、自分より幼い相手になまえは恐怖しなかった。言葉の節々に棘を感じようとも、彼ぐらいの年の子供は皆こうなのではないかと思っていた。だからこそ、少年の真に秘めたる狂気に気付かなかったのだろう。
「いいなあ、お前。いいなあ、」
物欲しそうに赤い目がこちらを捉えている。何かを羨んでいるようだが、少年がそう口にした辺りから突如として変わり始めた雰囲気になまえは不安に襲われた。生い茂る山の木々がざあざあとざわめき立ち、辺りの闇からカサカサと小さな物音まで聞こえて来るようになった。まるで山の全てに蠢く何かがあるようで、なまえは身の危険を感じ始める。
「僕には『家族』がいるけど、お前みたいに僕を守ろうとするヤツはいないんだ。母さんも姉さんも、みんな自分のことばっかり」
「……あなた、何を考えて、」
「お前を僕の『家族』にする」
「家族って……、」
「いいか、お前は今日から僕の『姉さん』だ」
逃げるよりも先に吊られていた。ものの数秒で地に着けていた足が空を舞い、体中に幾重にも絡みつく銀糸になまえは戦慄する。気付かなかった、いつの間に、この子は何をするつもりかと思考が喧しく騒ぎ立てる。あの少年には力があったのだ、その予兆すら隠し通せる程に。やみくもに四肢を動かそうとすれば、銀糸が深く食い込み、肌を裂く。宙ぶらりんのなまえを少年は近くの大木に巻き付けると、自らもその銀糸に足をかけ、歩み寄ってくる。
「『姉さん』は力が強いんでしょ?見てたからわかるよ」
「……わたしはあなたの姉さんじゃないわ、」
「どうして?姉さんは姉さんじゃないか」
「あなたはお姉さんが欲しいのね……?でも、こんなやり方、受け入れられない」
なまえの苦しい主張が夜の山に響いて消えた。彼にこの声が届くとは思えなかった、何せ相手は自分より上の力を持つ鬼なのだから。銀糸の上で歩みを止めた少年は小さく頷き、わかった。と返した。なまえは驚きに言葉を失う。
「わかった。じゃあ、やめる代わりにどうしたらお前は僕の姉さんになってくれる?」
「それは、」
「僕には『家族』が必要だ」
それもとびきり絆の強い『家族』がね。それにお前も、姉さんも一人が嫌だからこの山に来たんだろ。多いんだ、そういう奴ら。
少年は淡々と話を続け、止めていた足も再びこちらへと歩を進めている。大木に括られた体に食い込む糸を力ずくで切ろうとしても、反対に体に糸がきつく食い込み、余計な怪我が増えるだけで解決策にはならなかった。
「姉さんも怖いんだろう?あの鬼狩りの奴らが」
「……ッ、だからなに、」
「いいよ、僕が守ってあげる」
目前で佇む少年はゆっくりとなまえをその胸に抱き、愛おしそうに髪を撫でた。身動きが取れないなまえは少年の腕から抜け出せず、繰り返される愛撫を受け入れるしかなかった。
「だから、もっと山の奥に行こう。こんな所にいちゃ危ないし、姉さんは特別だから」
少年の口にした『特別』という言葉に身の毛がよだつ。辺りの草木も夜風に吹かれ、もう逃げられないと不吉に囁いている。
「あの鬼狩りは二人で食べよう。後でちゃんと姉さんの元まで持って行くから、安心して」
「……い、嫌、わたし、そんなつもりで、」
「可哀想に。よっぽど怖いんだね」
「わたしは、そんなつもりで、ここに、」
──── 来たんじゃない。
そう告げるよりも先に、体に巻き付いた銀糸が遠くの方へと引っ張られていく。既に大木から離れられたものの、体の拘束は未だに解けない。彼は、この少年は自分をどこへ連れて行くつもりなのだろう。山の奥、そこに他の仲間達は居ると言うのだろうか。怖い、怖い、こわい。木々のひしめき合う先に広がる闇に呑み込まれていく。
「い、嫌……ッ!帰る、離してッ!」
「何言ってるの、姉さん」
「わたしはただ、ここでひっそりと」
「今日からここが姉さんの帰る場所だよ」
ぽっかりと開いた洞窟の入口が近付く。呑み込まれてしまう、あの大きな口に。そうしたら、もう、二度と ──── 。
なまえの視界は洞窟の闇に塗り潰され、耳元で聞こえる少年の声に人知れず涙が溢れた。
| 蜘蛛山の籠女 |