彼女が、とっても幸せそうな顔をして眠っているものだから、俺は毎夜毎夜彼女の部屋を訪ねている。寝顔しか見たことがないけれど、きっと彼女は大切に育てられているんだと思う。彼女の住む大きな家、彼女の部屋に飾ってある思い出の写真、綺麗に畳まれた洋服に手入れの行き届いた部屋。そのどれをとっても、大切にされてきたことがよく分かる。
「……きみはどんな夢を見ているのかなぁ?」
彼女の大きなベッドの枕元に腰掛け、すうすうと眠る横顔に触れれば、全く反応がなく、深い眠りの中なのだと知った。頬の肉は女性特有の柔らかさがあり、触れていて気持ちが良い。
「いけないよ、夜ほど用心しなくちゃあ。夜風を入れたくて、窓を開けたまま、眠ってしまったのかもしれないけど、」
眠っている時ほど、無防備なことはないんだ。と耳元で囁けば、流石に彼女も耳元をくすぐる吐息に気付き、反射的に寝返りを打った。さらりと流れた長い黒髪の隙間から、酷く不用心が首筋が晒されている。月光に塗り潰された肌はまるで自分たちと同じように白く、無機質さを醸し出す。
触れてみたい。その一心で指先を這わせると、彼女の脈に触れた。どくん、どくん。小さく控えめに血管が脈打っている。彼女は眠っているから知らないけれど、周りから心底、大切にされてきた命がこの指先に引っかかっている。そう考えると、体の奥底から沸き立つ感情があった。
「素敵な夢を見ている筈なのに、きみの命は風前の灯火。いつでも俺の気分一つで殺せちゃうんだよ」
ああ、たまらない。ゾクゾクと体を走る快感に、気分は高揚していく。さぞ悲しいことだろう、愛しの一人娘を失う親の心境は。さぞ絶望することだろう、娘を夢に見せてくれと縋り付くことも厭わない筈だ。
「……でも、俺はきみの絶望する顔も見てみたいなあ。きみはこの家の幸せの象徴だ」
彼女の体中にたくさん幸せを詰め込んでから、暗くて深い絶望の底に突き落としてあげたい。その時、彼女の顔を見た時の俺は、かつてないほどの夢心地に違いない。幸せで出来た彼女の肉にこの牙を突き立てる。きっと今まで食べてきた人間達の誰よりもうまく感じることだろう。
「もっと、もっと幸せになるんだよ。もうこれ以上ないくらい幸せになったら、……俺が夢を見せてあげる」
だから、それまでおあずけ。ああ、早くたべたいなあ。さわさわと黒髪を撫でれば、んん、と小さく甘えるような声が聞こえて来た。また寝返りを打った彼女はうっすらと目を開けると、頭に置かれていた手を取り、頬を寄せる。
一瞬、どきりとしたが、寝惚けているのだろう。正体を疑われることも、大声を上げて喚き散らすこともなかった。徐々に眠気眼は抗えない瞼の重みに閉じていき、何事もなかったかのように再び穏やかな寝息を立てて眠りについた。
そう言えば、こういうのを『愛おしい』と呼ぶのだと、人間だった頃に学んだ気がする。鬼になる前は、意味がわからなくて、なんとも思っていなかったのに、鬼になってから『愛おしさ』の意味を知った。
それは儚くて弱くて脆い、夢見がちの可哀想な子を見た時に、ふっと胸の奥に沸いてくる高揚感を伴う症状。手のひらを伝うあたたかさ、重なる指の華奢な小ささ、死と隣り合わせの瞬間に微睡んで見せる無防備さ。どれにも『愛おしさ』が溢れていて、酷く欲情した。
「どうしてだろう、意地悪したくなっちゃうなあ」
泣いている顔を、見てみたい。
当然のように血鬼術を発動させる。今まで幸せそうに眠っていた彼女の表情が少しずつ、少しずつ恐怖に歪んでいった。幸せの輪からはぐれて、どんどん悪い夢へと迷い込んでいく。それが彼女の寝顔から見て取れた。首を横に振ったり、息を切らし、眉間にも深く皺が刻まれ、涙がぽろぽろと流れていく。嫌な汗が額に滲んで、苦しそうな声が漏れた。可哀想に、どんな夢を見ているのだろう。
「俺のせいで魘されているんだよね」
嫌だよね。怖いよね。苦しいよね。辛いよね。泣きたいよね。助けて欲しいよね。幸せな夢が見たいよね。
再び術を発動させると、彼女から悪夢は消えていった。ちょっとしたお遊び、ちょっとした戯れだったのに、この胸の満たされようは異常だった。何も知らない彼女を嬲る。彼女は自分が苦しめられていると知らない。眠っている彼女を好きに出来るのは自分だけ。
「人間はみんなただの餌だと思っていたけれど、きみと遊ぶのがこんなに愉しいなら、まだ生かしておいてあげる」
でも、きみを食べるのは俺だ。
高鳴る胸で彼女の瞼に口付けを落とす。瞼の裏で眼球がもぞもぞと動いている。ねんねんころり
、ねんころり。良い子は眠る時間だよ。と囁けば、規則正しい寝息が聞こえ、彼女は深い眠りに落ちていった。
***
時々、悪夢に魘される日がある。目覚めた後の気持ち悪さは何とも言えない影を胸に残していく。なまえは嫌な気分のまま、もう一度布団に潜り込み、目を閉じる。また悪夢に魘されるのではないかと瞼の裏の闇に怯えていたが、実は思い出すだけで心が落ち着く夢がある。
部屋の窓を背にして、自分に微笑みかける人の夢だ。優しい笑みを浮かべて、髪や頭を撫でるその人を思い出していると、自然と眠りに落ちていける。夢の中の人物に淡い思いを抱くのはおかしなことだと分かっていても、ただの夢だと割り切れない思いがあった。きっと実在しない人と言うことも分かっている。それでも、次はいつ会えるかと思うと、張り裂けそうになる乙女心にため息が出た。
依然として眠れない。布団の中でじっとしていても眠気はやって来ない。ぼんやりと月光に照らされた部屋の家具を眺めていると、窓の開く音がして息を呑む。誰かがこの部屋に侵入してきた。こんな夜中に窓から忍び込む理由はなんだろう。盗みか殺しか、それとも。その先を考えるのが恐ろしいときつく目を閉じた。ばくばくとうるさい鼓動が相手に聞かれていないか、神に祈ってばかりだ。
「……あれ、今日は起きてるの?」
ふわふわとした話し方をする相手に、恐る恐る振り返って見た。そこにあるのは、いつも夢で見る、部屋の窓を背にして微笑む人の絵だった。
「あなた、夢の……、」
「はじめまして、だよね。俺ときみは」
「どうしてこの部屋に、夢じゃないの……?」
「よく分からないけれど、眠れないのかな」
「……そう、今日は眠れなくて」
じゃあ、俺が眠れるようにしてあげる。こういうの得意なんだ。とにこやかに微笑んでは、まるで夢に見る彼の姿そのものだった。
「あの、待って、」
「なんだろう?」
「あのね、私。あなたのこと、時々だけど夢に見るの、」
「俺を?」
「そう、どうしてかわからないけど、」
彼はぼうっとした顔でこちらを見つめていた。なまえは自分のおかしな話のせいで彼を困らせてしまったような気がして、ごめんなさいと謝れば、彼はううん。と首を横に振る。
「今夜はきみが眠れるまで傍にいてあげる」
こちらに手を伸ばし、彼はお眠り。と呟いた。その瞬間、とてつもない眠気に襲われ、返事を返す前に意識は途切れた。深い水底のように暗い眠りの中に落ちていく感覚が妙に心地よく、誘われるがままになまえは眠りについた。
「今日はとっておきの悪夢を見せてあげるからね。途中で目覚めちゃってもいいんだ、そしたら次の悪夢を見せてあげるからね」
考えただけでゾクゾクするよ、と呟いた鬼、魘夢はなまえの輪郭を指先でなぞると、色白な頬を紅潮させた。うっとりとその顔はなまえの知らないところで恍惚に歪んでいく。
「今日はきみと俺が初めて顔を合わせた、きみにとって一番幸せな日だ」
知っていたよ。きみが俺を夢に見てたこと。きみが俺に抱く感情も、全部。だから、今夜を選んだ。今夜、俺はきみを食べる。その為に。
魘夢はなまえの部屋を出ていくと、まずは手始めに両親の寝室へと向かった。眠っている人間を相手にするのはとても簡単だ、夢から抜け出せない間に殺してしまえばいい。一人ずつ絶望に歪む顔を拝んでから、彼女を夢の揺りかごから起こしてあげよう。
「ああ、楽しみだなあ……。彼女は、どんな顔をして俺を見るんだろう」
なまえの苦痛に歪み、絶望する顔を想像するだけで体中がぞくぞくと悦びに震える。たまらない、愛おしい、最高の気分だ。魘夢は鮮血に染まる寝室で、なまえの両親の亡骸を前にして悦びに身悶えていた。
────悪夢は口を開けて待っている。
| すべて夢ならよかったのにね |