最近の屋敷の中は慌ただしい雰囲気に満ちている。何でも那田蜘蛛山の任務で負傷したあの三人が機能回復訓練を始めたのだとか。時折、廊下ですれ違う三人の顔はあまり優れないように見えたが、ここに運ばれてきた時よりも体の具合は良さそうで何よりだ。
だが、怪我をして間もないと言うのに、次に向かって鍛錬をしている姿に胸を熱くさせられる。彼女もただ見ているだけではなく、彼らの為に何かしてあげたいと思った。美味しい食事やふかふかな布団、着心地の良い衣類、気持ちのいい空気を部屋いっぱいに取り込む、という何気ないことではあるが、こういうものが意外にも大切だったりするのではないかと。
今日もたくさんの洗濯物をかごいっぱいに詰め込んで、両手でそれを持ち運ぶ。ここでは人がいる分だけ汚れ物や定期的に取り替えたいものが出てくる。仕方の無いことだ、これも大切な仕事のひとつなのだから。しかし、今日は少し張り切り過ぎてしまったかもしれない。鍛錬に励む彼らに負けじと家事仕事に精を出していたのだが、今回の洗濯物は明らかに詰め込み過ぎてしまった、気がする。かごの持ち手が手のひらにぐっと食い込む度に、次からは気をつけようと反省するばかり。
「おい、お前、そこで何してんだ」
「……はい?」
突然、後ろから声が聞こえたものだから、返事をして振り返る。すると、そこにはパジャマを着崩した猪頭の彼が立っていた。あ、と小さく漏れた声に彼はぴくりと片耳を器用に動かしては、何も言わずにこちらへと近付いてくる。ずんずんと迷いなくやって来る彼に、いくつか声をかけてみたが、全く気にも留めないどころか返事もなく、あの時とは随分人が変わってしまったように思う。
「あの、隊士さま……?」
「……よこせ」
「え、よこせって、あの、」
「いいから寄越せって言ってんだ」
真正面に佇む猪の彼からは威圧感が漂っており、本当にこのかごを渡していいものかと判断に困るが、とりあえずは彼に渡してみることにした。彼はこの洗濯物を何に使うつもりなのだろうか。仮に鍛錬の為と言っても、あまり役立つものではないと知っているだろうに。
「隊士さま、洗濯物をどうなさるおつもりですか?」
「どうもこうもねえ。いいか、俺にかかればこんなもの、いくらでも容易く持ち運べるんだぜ」
ぽかん、と音が鳴りそうな間に、なまえは口と目を丸くさせる。猪頭の彼は得意げにかごを持ち上げ、ふふん、と鼻を高らかに、自分の反応を待っているようだった。これは、つまり、そうである。
「隊士さまはお優しい方なんですね、」
「ああん?」
「わたし、本当は困っていたんです。まだ水気のある洗濯物をたくさん詰め込んでしまったから、手が痛くて」
ほら、と赤く痕の浮かんだ手のひらを見せると、猪頭の彼はピクリと耳を立てて、柔らかな鼻先をぴとりと手のひらにくっつけた。何をしているのかと思えば、その鼻先をフゴフゴと動かした。お前の手、この服と同じ匂いがしやがる。ふふ、そのパジャマを洗ったのと同じ石鹸を使ってるから。じゃあ、これはお前が洗ったのか?それはあまり覚えていないけど、もしかしたら。
「そうか、お前は手ェ怪我してるのか」
「え、ああ、ううん。これは怪我なんて大層なものじゃなくて……」
「それならお前ごと持ってっちまった方が早え」
聞き返すよりも早かった。返事を待たず、強引に体は米俵を運ぶように担がれ、後ろしか見えない景色にゾッとする間もなく、次の瞬間には彼の豪快な笑い声と共に自分の大きな悲鳴が蝶屋敷に響く。なまえは自分が振り落とされないように猪頭の彼にしがみついているが、猪頭の彼は気にもせず、たくさんの洗濯物が詰め込まれたかごと人間一人を抱えて蝶屋敷の庭先へ向かって突進していくばかり。背中に感じる風の抵抗に青ざめながら、それが止むのをひたすらに待つ。
「どうだ、この俺にかかれば人間の女を持つことなんざ、容易いことなんだよ」
髪の乱れや服装の乱れを直す暇もなく、地べたにごろんと転がされたなまえは早まる鼓動が収まるのを懸命に待っていた。まだガクガクと膝は震えているし、何なら立ちくらみがしそうでまともに立てそうにもない。目まぐるしく流れていく風景が未だに脳裏を過ぎる。過ぎ去っていく景色の中で一番恐ろしかったのは、廊下の角を曲がる時だ。猪頭の彼は角を曲がるというのに、決して駆ける足を遅めたりはしなかった。そのせいで角の柱に何度も顔を削り取られそうになった。震える体を起こしては胸を押え、何度も深呼吸をしていた。こんな状態の自分がまともに息を吸えないと思っていたからだ。
「おい、どうした?!」
「ううん、その、息、出来なくて」
「なにやってんだ!息吸え!めちゃくちゃ吸え!!」
「あの、なにか、優しいものを」
「優しいものだとォ?!」
辺りをキョロキョロと見回してから、ちょっと待ってろ!!と彼は言い残し、走り去ってしまった。気分を落ち着ける為とは言え、咄嗟に出た言葉が『なにか優しいものがほしい』とはあまりにも抽象的で迷惑ではないかとも思ったのだが、今は一刻でも早く心落ち着ける何かが欲しかったのも事実だった。
***
「全然戻ってこないけど、あの隊士さまはどうしたんだろう」
猪頭の彼はなまえを蝶屋敷の庭先に置き去りにしたまま、中々帰ってこなかった。その間になまえは洗濯物を干すことで落ち着きを取り戻すことは出来たが、あまりにも帰りの遅い彼のことを思うと心配せずにはいられなかった。自分がとんでもなく迷惑なことを頼んでしまったせいだと、徐々に傾いていく陽に自責の念が湧いてくる。探しに行こうにも行き先が分からず、ただこうして近くの縁側に座り、彼の帰りを待つ。待ってろ、という言葉の有効期限はいつまでだろうか。今はまだ明るいからいいものの、もっと遅くなれば……。パッと出てきた嫌な予感を振り払い、なまえは祈るように帰りを待つ。
すると、裏山の方向から何やら慌ただしい音が聞こえてくることに気付いた。それは次第にこちらに近づいており、視界が砂塵に包まれたかと思えばその中の影が威風堂々とした態度でこう言った。
「フン、待たせたな」
「も、もしかして隊士さま、なの……?」
「おうよ、この嘴平伊之助様がお前の望むものを用意出来ないなんてことはねぇんだ。そう、楽勝だった!圧倒的に、楽勝だった!」
ガハハハハハ!とようやく帰ってきた彼の高笑いが晴天に響く。砂塵も薄らぎ、怪我もなく無事に帰ってきた彼の姿に安堵していると、次に彼はずいっと手を差し出し、手ェ出せ。と低く凄んできた。言われた通りに両手を彼の手の下に持っていくと、握り締めていた拳が開かれ、中から山で採れたであろう小花達がぽとりぽとりと落ちてきた。
「……お花?」
「ただの花じゃねぇ、よく見てみろ」
「あ、これ、お花の指輪?」
「どうだ、驚いか!恐れ慄いたか!」
「タンポポにシロツメクサに……、すごい、こんなにたくさん作ってくれたの?」
「紋逸に出来て、俺に出来ないことはない!当然!当然にな!」
鼻高々といった様子で胸を張る彼に、なまえは人差し指や中指などにその小花の指輪を通していく。花の優しい色味が指に芽吹き、そよ風に吹かれて花びらが揺れている。穏やかさそのものの姿に彼の優しさの何たるかが見えた、ような気がした。
「ありがとう、隊士さま。まさか本当に私のお願いを聞いてくれるなんて」
「俺は何であろうと当然のようにこなす男だからな!お前の願い事なんざ、すぐに叶えてやれるんだ」
「でも、どうして今日は色々と?」
先程まで威勢の良かった猪頭の彼は、なまえの問いに突然だんまりになってしまった。余計なことを聞いてしまったかと思ったが、直後に彼がその理由を話し始めた。
「……あ〜〜〜ッ!こういうのはよく分からねぇ!けど、優しくしてもらったなら、その相手にも優しくしてあげればいいって、アイツが」
「もしかして炭治郎くん?」
「初めは訳わかんねぇこと言ってんじゃねえって思った。でも、今は俺にもわかる」
「そっか、ありがとう」
これ、大切にするね。と笑い返すと、猪頭の彼はどこか酷く照れたように、ンなもん何度だって作ってやるわ!腐るほど作ってやるわ!と大きな声を出した。また、ありがとうと伝えれば、今度はこくりと頷き、そのまま裏山に戻って行ってしまった。
それから数日後、なまえの部屋にはたくさんの花で作られた指輪が窓際に並べられていた。初めて彼が指輪を持ってきてくれた日から今日まで欠かすことなく、その贈り物は続いている。目当ての花が見つからなかった日には、代わりにと綺麗な木の実などを持ってきてくれるのだ。彼の素朴で、不器用な優しさが垣間見える贈り物になまえは日々、優しさに生かされていると思った。
そして、最近知った話なのだが、どうやら彼は自分に気を許しているのだとか何とか。ああ、そんな嬉しいことを知ってしまったからには、少しだけ自惚れても許されるだろうか。
| きみはそれを優しさだって知らない |