口から溢れる鮮血は温く、次から次へと溢れて止まらない。骨の髄を叩かれるような深い一撃に、顔の右半分は上手く回復出来ずにいた。その殴打に耐えられなかった眼球は潰れ、歯も何本か根元から折れてしまったようだ。口の中にごろごろと転がる感触が不愉快だと喉奥からせり上がってくる血と共に地面に吐き捨てた。
「ほう、ようやく慣れ始めたのか」
紅梅色の短髪を風に靡かせながら、自分に強烈な殴打を浴びせた鬼が不敵な笑みを浮かべたまま、こちらへと近付いてきた。その目はとても愉しそうに光を宿し、その手には自分のものと思われる鮮血に塗れている。
「初めの頃は、一打一打の衝撃のいなし方がなっていないせいで見るに堪えない姿だったが、少しはマシになったようだ」
「猗窩座様、のおかげに、ございます」
「だが、まだ足りない。まだお前は弱い。もっとだ、もっと力をつけ、俺の退屈しのぎになれ」
「いつか、必ず」
顎も砕けているせいで上手く話せないながらも、猗窩座と呼んだ鬼の男の前で膝をつき、深く頭を下げては自分にかけられた期待に応えられるよう、今は体の回復に努めた。十二鬼月、ましてや下弦の鬼にさえなれない自分を、こうして鍛えてくれる猗窩座には恩義を感じている。ゆっくりと傷が癒えていく感覚に後を任せ、顔を上げようとしたその時だった。
どこからともなく聞こえてくる琵琶の音に、なまえは辺りの景観がまるっきり変わっていることに気付き、言葉を失っていた。一体いつから、このような複雑な構造の建物内に移動したのだろうか。自分達は深い森の奥地で鍛錬をしていたはずだ。顔を上げるのと同時に視界に飛び込んできた光景になまえは再び深く頭を下げることになる。
「あれ?猗窩座殿の傍にいるのは女の子かな?」
ゾッとするほどに凄まじい気配をいくつも感じ、なまえは本能的に理解する。ここには猗窩座以外の上弦の鬼がいるのだと。そして、つまり上弦の鬼が集結する場は我らが主君であるあの御方のお膝元であることに違いないと。両膝をつき、手を添え、頭を垂れる。決して無礼のないように、決して粗相のないように。下級の鬼である自分が踏み入ること自体が失礼にあたるこのような場所で、出来ることと言えばこれくらいしかなかった。
「そんなに畏まらないでいいよ、俺は全く気にしてないからさ」
下級の鬼に対して殆どの上弦の鬼達は無口を貫いているが、たった一人だけそうではない者がいた。一人分の足音がこちらに近付いてくる。顔を上げるべきか、このまま頭を下げ続けるべきか。だが、どちらにせよ上弦の鬼に対して失礼があってはならない。なまえは懸命に答えを模索していた。ピタリとその足音が止むと、先程の親しげな声が身近な場所から降って聞こえるようになった。
「さあ、顔を上げてごらん」
「で、ですが、」
「俺がそうさせたと皆に話そう。だから、その顔を見せておくれ」
その鬼の言葉を信じ、恐る恐る顔を上げると、そこには白髪の煌びやかな瞳を持った鬼が立っていた。繊細な色彩ばかりを持つ鬼になまえは目を奪われる。なんて綺麗な鬼だろう、自分とはまるで大違いだと上弦の弐である童磨を見上げては瞬きをすることしか出来なかった。しかし、童磨はなまえの痛ましい姿に眉を下げ、可哀想に。と呟いた。
「うーん、これは酷い。鬼狩りにでも襲われていたのかな?」
「も、申し訳ありません。まだ怪我の回復に時間が……、」
「いや、いい。見たところ、この所業は鬼狩りではなさそうだ」
猗窩座殿も裏でこんなことをしているとは。とにっこりと無邪気な笑みを浮かべて童磨は紅梅色の彼を見た。先程から辺りの空気が殺気立っているように感じられ、肌がビリビリと痛む。しかし、童磨はそのことを全く気にしていないのか、目の前で腰を下ろすと、なまえの傷付いた頬に手を添えた。こちらに興味があるのか、何度もこちらを覗き込むように見てはゆっくりと癒えていく傷に触れる。
「君がどうして猗窩座殿の元にいるのかは分からないが、どうだろう。俺のところに来るというのは」
予想もしていなかった一言に辺りはまだ静寂を保っている。だが、空気を伝ってくるほどの強大な殺意に、呼吸をすることが困難になった。他の鬼達もそうなのか、それともただ口を閉ざしているだけなのかは知る由もない。酷く余裕のない自分が無邪気な鬼に弄ばれているということだけは分かった。そして、それを面白く思わなかった鬼もいたのだと。
あれ?と童磨の声が聞こえた途端、なまえの視界には血飛沫が舞う。音もなく削がれたのは、童磨のなまえに触れている手で、腕を削いだのは眼光鋭い猗窩座本人だった。まるで瘴気のように重く流れ込む殺気になまえは正気ではいられなかった。
「うん?猗窩座殿の気に障ったかな?すまない、まさかそこまでこの子のことを、」
今度は下顎が吹き飛ばされる。何かを言おうものなら、弾けるような鈍い音と共に千切れた肉片が床に叩きつけられた。異常とも言える光景の中、涼しい顔をしていられるのは童磨が上弦の鬼だからだろう。例え、腕を削がれようが、下顎を吹き飛ばされようが、瞬く間に完治する。何もかもが桁外れな存在の上弦の鬼達の、目の前で繰り広げられる血腥い光景になまえはただ耐えることしか出来なかった。
「でも、君が俺のところにくれば、その傷だってすぐに癒してやれる。俺はたくさんの人間を匿っているんだ」
「で、ですが、」
「それに猗窩座殿のように人を喰わずに修行、とやらで強くなるのは無理だよ」
「……それは、」
「君の今の状況はとても可哀想だ。だったら、好きなだけ人間を食べて強くなった方がいい!」
良かれと思った、悪意のない言葉が虚しく突き刺さる。その間にも猗窩座は童磨を穿ち続け、童磨は猗窩座の一撃を喰らいながら回復を繰り返し、なまえへと語りかけている。童磨の言うことは最もだ。人間をたらふく喰らうことで強くなれるのなら、何かを積み重ねるよりも喰らってしまった方がいい。それが鬼の本懐だ。でも、と口を開いた瞬間、またあの琵琶の音が聞こえ、顔を上げた頃には猗窩座と鍛錬をしていた森の中にひとり取り残されていた。
***
それから猗窩座がなまえの待つ森に戻って来たのは、辺りが深い夜闇に包まれた頃だった。深い森の奥には小さな湖があり、なまえはその水面に映る自分を覗き込んでいた。後ろから近付く気配になまえは振り返る。
「今、お戻りに」
無言を貫き、こちらへ近付く猗窩座からはまだ怒りが滲んでいるように見え、なまえは目を逸らす。次の瞬間、怒れる鬼は目前に佇む。徐々に大きくなる気配が自身に迫っていると直感した後、なまえは右頬を殴打され、遠くに吹き飛ばされた。頭の中は着地の瞬間の受け身や、猗窩座の攻撃のことで埋め尽くされる。拳が触れる直前の一瞬に少しでもいなすことが出来たが、それでも直撃からは逃れられなかった。血とともに砂塵が舞い、その間に赤き鬼は忍び寄る。
認識するよりも先にそれは現れ、また一打を食らわせる。地に打ち付けられたなまえは脊髄から四肢に走る衝撃に血を吐く。まともに受け身を取らせてもらえない殴打は止まず、次から次へと浴びせられていくばかり。肉は裂け、骨も断たれ、出血は絶えず。ただ肌に突き刺さるほどの怒りを一身に受け続け、なまえは地に伏せながらも猗窩座を見た。
なぜ、どうして、なんで。そんな理不尽さを訴えかける言葉は思い浮かばなかった。その代わりに胸に渦巻いていたのは、自身の非力へのやるせなさだった。猗窩座が怒れる理由も痛いほどに分かる。この頸をもって償いたいとさえ思うほどに。
「……どうした、何故かかって来ない」
「も、………わけ、ありま、せ……」
足先で伏せる体を転がされ、血に塗れた手で猗窩座はなまえの首を掴んで持ち上げる。ぎりぎりと締まっていく感覚に込み上げる血を吐き出せず、終わりのない窒息感に苛まれつつも、猗窩座の言葉を聞いていた。
「お前は何をしている。選ばれた存在でありながら、あの人に血を与えてもらっておきながら、なんだこの体たらくは」
首を掴む手により力が込められ、強くなった窒息感に喘ぎ苦しむ。下手に藻掻くことはせず、体の回復に専念していた。
「お前はそれでも鬼か?何のために俺の下についた、いつまで弱いままでいる気だ」
猗窩座の額に何本もの血管が浮かび上がる。それと同時になまえの中で悔恨の念が膨れ上がり、力なくぶら下げていた手で猗窩座の腕を掴み返した。鋭い爪を食い込ませ、歯を食いしばり、どんなに血を吐こうとも猗窩座の腕を離しはしなかった。
「何を今更。ここまで痛めつけられなければ、お前は変わろうとしなかったのか」
だから、弱いと言っている。と投げ飛ばされる刹那、なまえは体の血が沸騰するかのような錯覚に陥った。激しく流動していく血液に、なまえは首を捉える手から抜け出し、自然と蹴りを繰り出していた。しかし、脛は猗窩座の頬を捉えたものの、躱す素振りのない様子に背筋が凍りつく。
「避けるまでもないというのは、もはや哀れだな」
頬に触れた足を捕まれ、地面に強く打ち付けられる。再び地に落とされたなまえはあの刹那に意外さを見た。怒りを滲ませていた猗窩座の顔に笑みが浮かんでいたのだ。
「お前にしては一番良い蹴りだった。だが、これで俺の頭を吹き飛ばせたならもっと良かった」
傷一つない綺麗な頬になまえは傷だらけの自分の体を見た。ここまでの圧倒的な差がありながら、あの鬼が自分を切り捨てない理由はなんだろうか。せり上がってくる血を一通り吐き捨てると、血肉が足りないなら行ってこい。それでお前が強くなれるのならな。と狩りに放り出されて気付く。
猗窩座は怒っていた。それはあの上弦の弍である、童磨に何も言い返せなかった自分に対してだと。自分の存在意義を蔑ろにされても何も言えなかった自分に対して。ああ、悔しい。もっと自分に力があれば、十二鬼月になれずともあの人の退屈しのぎにはなれるだろうに。悔しさを噛み締めながら木々を駆け抜け、鬼は人里へと下りていく。
| 死せど叩いて剛と成れ |