刹那、彼女は全く別人の顔をしていた。同じ教室で普段から見ていた年相応の顔はそこに在らず、獲物を捉える獣の瞳をして、こちらを見ている。切れたばかりの指先はじゅくじゅくと熱を帯び、爆ぜた柘榴に似た色の血を垂れ流している。飢えた口元から犬歯が覗く。人間のものとそう変わらない、一般的なものだったと思う。
無人の美術準備室、教師に後片付けを任されていなければ、彼女のこのような一面を見ることは叶わなかっただろう。好奇心と探究心が疼く。どこにでもいるただの女生徒だとばかり、思っていたのに。嬉しい誤算と嬉しい奇跡だった。触れてみようか、けしかけてみようか。もしくはそのどちらも。どうしたって、目の前の蛇と化した彼女からは逃れられないだろう。それでいい、逃れる必要などどこにも無いのだ。あるのは、『彼女』という不可解な未知だけだ。
「……みょうじさん」
名を呼べど、彼女の反応は鈍いままだった。クラスメイトの呼び掛けより、目の前にある柘榴を欲しがっている。普段の彼女はおとなしい生徒だった。非凡でなく平凡、限定的かと言われれば量産的であるような、女生徒の一人。友人という括りではなく、滅多に会話をしない部類の相手だった。そんなことは決して珍しいことではなかった、自分にとって必要でもなければ、一言も交わさない日すらある程だ。特に同じ審美眼を持ち、判断基準を持ち、決して絶えぬ知識の源泉を持ち、優れた才能を秘めた相手でなければ、心を開く必要はないのだ。心の友と言うのは、このようにして慎重に見つけていくべきだ。
「……えっと、その、ごめんなさい」
ようやく自分の剥き出しの異常性に気付いたのか、彼女は目を背けた。華奢な彼女の肩が震えている。抗い難い何かがあるにも拘わらず、彼女は踏み止まっているのだ。そんな彼女の背中を押してやりたいと思うのが、友人というものでしょう?誰に問い掛けるでもなく、距離を詰めて行けば彼女はその気配を感じ取り、振り返る。
「……は、早く保健室に行った方がいいよ。あとは私がやっておくから、」
「どうして震えているのですか」
「震えてなんか、」
「いつものみょうじさんじゃないみたいですが」
「そんなことないよ、荒井くんの気のせいだよ」
「じゃあ、どうして僕の方を見てくれないんでしょう?」
俯きがちな彼女に投げ掛ける。精巧な胸像や言葉にするのも躊躇われるほどの美麗さが突き詰められた絵画、それらを作り上げる為の絵の具や筆などの小道具が静観している。中途半端に描きかけのキャンバスですら、自身の完成より彼女の返事を待っているようだった。埃っぽい空間の中で、煌々と輝いていたのは二つの瞳だ。今にも獲物に食いつこうとする、猛々しい獣の両目だ。
「僕はどうすればいいんですか」
意思決定を彼女に委ね切ってしまった訳じゃない。これはある意味、通過儀礼の一種だった。ただの人間が容易く未知に触れていい筈がない。その為には、捧げるべき贄を、迎えるべき饗を。許されるが為に、恭しく差し出そうと思ったのだ。
彼女は、柘榴が欲しかった。爆ぜた柘榴の実が。指先に纏わりついた柘榴の一粒を、彼女は欲しがっていた。どうして、それを欲しがっていたのかまでは分からなかったが、直に答えはやってくるような気がしていた。
柘榴を啄む。柔らかな唇がこの指先を食んでいる。柔い肉の隙間から舌が傷口を撫でた。彼女の体温が直接感じられる。溢れた柘榴の実を絡めとった彼女は、切れた指の腹に吸い付いた。ちゅう、と小さな音を立てて、まっさらな静寂の中、無心に吸い付いているようだった。自分はと言えば、誰も知ることのない一面に触れ、心を震わせていた。禁忌に近い行為を目の当たりにしたからだ。
人間が人間を食すことは倫理上、許されることではない。ましてや、現代においてはその血液さえも様々な病気の感染源となり得るからと、口にすることは禁じられている。だが、彼女はそれが救いであると言わんばかりに指先のほんの少しの血を舐めとっている。食人の気があるのかもしれない。だが、それはそれで愉快極まりないことに違いなかった。
「みょうじさんは、食人願望のある人なんでしょうか」
疑問が口を突いて出た。彼女は僅かばかりの柘榴を口にして、どこか興奮状態にあるように見えた。だが、理性的に話をしようとする姿勢には好感が持てた。彼女は遺伝性の血液疾患を抱えているのだと明かしてくれた。他者の血を口にしたい衝動に駆られ、自分に足りない何かを他者から補おうとしてしまう。だが、その衝動は日頃から服用している薬で抑えているとも教えてくれた。しかし、最近になって薬の効き目が悪くなって来たのだと言う。
日に日に体は薬への耐性を強め、衝動を加速させていく。もう人との関わりを断つべきかと思い悩んでいた最中、今このようにして禁忌に触れてしまった。彼女は涙目だった。初めて血を口にした喜びだろうか。それとも、超えてはならない一線を超えてしまった悲しみだろうか。
「……知りませんでした。まさか、みょうじさんがそのような病気を患っているとは」
「本当は隠し続けようって思ってたから。誰にも言わずに、一人で黙っていようって」
「では、僕のした行いはとんだ迷惑行為でしかなかったのですね」
「ううん、荒井くんのせいじゃない」
「みょうじさんは自分のせいだと?」
困ったような笑顔で彼女は頷いた。犯した過ちに諦めを匂わせて。しかし、そんな彼女を他所に昂る感情があった。今しがた、彼女に飲ませたのはほんの数滴ほどの血だ。もしこれがたくさんの血であったなら、彼女はどうなるのだろう。まさか、御伽噺のように蝙蝠に似た姿に変わり、自分の目の前から消えてしまうのだろうか。そして、映画さながらに平気で他人の血を啜る怪物に成り果ててしまうのだろうか。
もしそうであるのなら、見てみたいと思った。いかに知識の泉が潤沢であろうと、目の前に野ざらしになった未知を覗かずにはいられない。よければ、と続けたところで彼女はようやく自分の方を見た。
「よければ、もっと差し上げてもいいんですよ」
「な、何言ってるの、」
「みょうじさんさえ、よければですが」
「ダメに決まってるじゃない、第一どうして荒井くんがそんなことを……、」
「僕は生まれて初めて、みょうじさんのような人を目の当たりにしました。まるで御伽噺の住人です」
そんなあなたを易々と見逃せません。今しがた、僕の血を口にしましたよね?本当は足りないんじゃないですか?たった一滴、二滴で本能に抗えるものなんですか?僕はね、あなたと友達になりたいんです。
この場には似つかわしくない『友達』と言う言葉がとても浮いた存在に感じられた。自分で言ったくせに違和感を覚えているのだから、人間とは酷く曖昧で自分勝手な生き物だと実感する。しかし、だからこそ満たされた時の悦びは言葉に表現出来ない程だった。彼女となら、再びそれを体感することが出来る。彼女なら、浅ましく卑しい欲を溢れんほどに満たしてくれる。欲しかった。彼女が誰かの血を欲するのと同じく、自分もまた彼女という経験が、未知が欲しいのだ。
「友達なら、こういった形じゃなくてもなれるものでしょう……?」
「僕は ──── 、」
欺瞞を吐き出した。偽善で彼女を唆した。大層、聞こえのいい、耳触りのいい言葉選びだったことだろう。獣の瞳はすっかりヒト科のそれに戻っており、涙の膜が密かに張り裂けていた。彼女が口にした血よりも多く流れていった。涙は血液の一種であると知っているだろうか。血中に含まれる血球が取り除かれたものが涙なのだそうだ。彼女は皮肉にも欲していた血を流しているのだ、飢えを抑制する薬すら服用していると言うのに。自分の行いが飢えを加速させているのだ。
なんて可哀想な生き物だろう、なんて哀れな。人間である自分よりも現実に、絶望に打ちのめされているのだから。ここまで来て、初めて自分が心優しい人間なのだと思えた。本当は欺瞞なんて吐いてはいないのかもしれない。偽善など施していないのかもしれない。心の底からの、純粋な気持ちだった。涙の跡がうっすらと残る頬に触れれば、いつになく自分の指の冷たさに気付いてしまった。