『すきです』

 突然、聞こえてきた母国語にシコルスキーは自分の耳を疑っていた。ふと隣を見やれば、こちらを見て、どこか恥ずかしそうに笑っている彼女の姿があった。日本人である彼女にとって馴染みのないロシア語は発音にぎこちなさが残るが、その意味を理解するのに時間はそれほど必要ではなく。ただ、そう口にした意図を確かめてみたいとは思った。

「キミの口からそんな言葉を聞けるとは」

 自分から言い出したくせに、こう、つつかれてしまうと弱い、と俯く彼女に愉しいことを閃く。たまにはじゃれつくように、かまってみても良いのかもしれない。

『たった一言、好きだと言うためにわざわざロシア語を?』

 ぽかん、とした間の抜けた顔を前に口元の笑みは止まらない。何を言われたのか、まるっきり分かっちゃいない顔だ。困惑の色を見せる彼女の手を取り、今度は手の甲にそっと唇を押し当てる。

『……随分と可愛らしいことをしてくれる。キミはいつもそうして俺の胸に火を灯していく』

 口付けた手をぎゅっと握り締め、次はぐっと距離を縮める。人間は自分の間合いに他者が入ってくることを極端に嫌う。ただ相手のエリアに入り込むことで簡単に体は強ばり、警戒し、心臓はやかましく脈を打つ。しかし、間合いに入り込む相手がよく知る相手なら?今し方、自分が好きだと告げた相手なら?恐怖は薄らぎ、警戒は緊張レベルにまで下がり、やかましい鼓動は単なる胸の高鳴りだと錯覚する。

『だが、少しばかり自分本位だと思わないか。俺のことは考えもせず、好き勝手に火をつけていくなど。それで満足するのはキミだけだ、これはフェアじゃないだろう』

 決して彼女を責めている訳では無い。敢えて悩ましい表情で言い聞かせるように語りかければ、彼女はすぐに真面目な顔をして話に聞き入った。場の雰囲気だけで理解出来る話ではないが、それでも彼女は真剣に耳を傾ける。その顔が、その真面目さが胸の奥をくすぐって仕方がない。
 次にシコルスキーが仕掛けたのは、額への接触だった。手の甲に触れた唇を今度は彼女の額へ、休む間もなく次は頬へ、拒まれないのをいいことに次は首筋へ。

『わざと誘っているのかと勘繰るほどの隙だ。そんなに無防備でいては困るんだがね』

 しっかりと両目の黒を見つめれば、彼女の綺麗に上を向いたまつ毛が揺れ、一瞬だけ距離感がおかしくなった。何かが重なる感触、唇だ。そっと近付き、今も密に触れ合っている。不意をつかれた、これじゃあまるで無防備だと思い込んでいた自分が馬鹿ではないか。しかし、これでいい。彼女が自分に対して不意をついた。その事実が自分にとって好都合なのだ。息継ぎは僅か、口付けは余すことなく。いつの間にか離していた手は自分の胸板に当てられ、自分の空いた腕は彼女を後頭部に置いてある。潰れるほどの口付けは彼女から酸素を奪っていった。

「……苦しそうだ、息も上がっている」

 肩で息をする彼女はそれでもなお、なんて言ってたんですか……?と問うばかり。底のない健気さを愛おしく思う。種明かしをしてもいいが、せめて最後にこの一言だけ。

『キミでなければ、こうも本気にならなかっただろう』

 その健気さを覆い隠すように、シコルスキーは再び唇を重ね、自分の影に収まる彼女の姿に心を満たしていた。



| 異邦人の囁き |


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