薄肌を切り裂く。冷たい切っ先は真一文字のカッターナイフだった。深く切り過ぎてしまわぬように、と今ではすっかり加減も上手くなった。あの日、美術準備室で秘密を交わしてからと言うもの、定期的に彼女に鮮血を分け与えている。そんな日々を過ごしてきて分かったことがいくつかあった。
「さあ、どうぞ」
裂けた薄肌から肉と血が覗く。ぱっくりと開いている傷口からは温かな血が溢れ出る。彼女は、それらを決して無駄には出来ないと、すぐに傷口に唇を寄せた。冷たい皮膚を伝う温かな血を、彼女の温かな舌先で舐め取っていく。この前とは量も段違いだ、彼女は差し出された腕に舌を這わせていた。そして、口いっぱいに血を含んで、ゆっくりと胃に流し込んでいく。少しずつ飲み込んでは控えめな喉仏を上下に動かして、体の奥底に落とし込んでいく姿には愛着すら湧いている。
自分の血を愛おしそうに飲み込むのだ、顔は恍惚感で蕩けてしまっている。目尻が垂れ、表情も柔らかく緩み、瞳も熱に浮かされているかのようだ。官能的だった、彼女の何もかもが。傷口に触れる唇も、流れ出た血を舐め取ろうと這わせた舌も、快楽に酔いしれている表情も、口に含んだ血を飲み込む時に下腹部にそっと触れる手のひらも。全てが美しく情欲的だった。彼女自身も何かを感じているのか、下腹部を時折撫でる仕草をしていた。不思議と自分も良くない感情に触発されてしまいそうだった。
「みょうじさん」
痛みを感じない訳ではない。勿論、刃物で自分の腕を切っているのだ。痛くない訳がない。だが、痛みよりも彼女の恍惚感に勝るものはなかった。まるで口移しをされたかのように、彼女の恍惚感を共有している。高揚する気分を抑えられない。だからこそ、秘密はいつも美術準備室で交わされていた。
「またぼうっとしていますね、どんな気分ですか?」
意識を委ねているのか、反応は鈍い。だが、彼女は口の中のものがなくなると、再び傷口に纏わりついた。彼女はやはり人間ではないのか、裂けた肉に舌先を潜り込ませる度、痛みよりも快楽が強まっていく。自分の感覚も麻痺しているのだと思っていたが、一人で怪我をした時には快楽を感じはしなかったのだ。つまり、彼女の唾液には何か、麻酔に似た成分が含まれているような気がした。彼女のことについては分からないことだらけだったが、これが最も現代に適した進化なのだとも思えた。
この地球上の生き物達は皆、それぞれの環境に適した進化を繰り返して来た。時には退化することもあるだろうが、それはより自身の適応能力を向上させ、種を絶やすことなく繁栄させる為だ。だが、彼女はどうだろうか。一見すると、ただの人間のような見た目をしており、生態活動も何ら変わらない全くの同じものだと言える。だが、『彼女』は、いや、『彼女の始祖』は現代に適応し切れなかったのだ。始祖より彼女への系譜は始まり、世代交代を繰り返すと共にその時代に合った進化を遂げてきたのだろう。
「血が、ゆっくりと体に染み渡っていくようで、とても気持ちいいの」
「そうですか、それは何より」
「荒井くんは……?」
「僕も同じです。とても気分がいい、清々しさすら感じられます」
──── この言葉は嘘ではありません。自傷行為をしておきながら、命を脅かすことをしておきながら、何が清々しいのかと思われることでしょう。ですが、こればっかりは他の誰にも文句はつけられないんですよ。だって、そうじゃありませんか?彼女に血を分け与えているのは僕で、彼女から与えられるものに関しても、他の誰よりも理解がありますから。あなたは知らないのでしょうね。この体を支配する高揚感を。この体の深い、まるで芯のようなものに熱が帯びていく感覚を。
彼女に至るまで遂げた進化は目覚しい過程だったはずです。ヒトと同じ形となり、ヒトと同じ糧を得られ、ヒトと同じ弱い生き物に成り下がった。さながら、擬態のようですよね。けれど、たった一つの本能だけは退化させられなかった。進化さえもさせられなかった。それはあたかも呪いのように、彼女の人生にこびり付いて離れやしないのですから。そう思うと、僕は彼女のことをより一層愛おしく感じます。愛玩動物ではないですが、とてもよく似た感情を抱いているのでしょうね。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るのですか?そんな必要はないと思いますが」
「私のせいで荒井くんは不自由を抱えてしまったから」
「不自由?この行為が、ですか?」
彼女の言うことはもっともだった。もし、彼女と出会っていなければ、定期的に自傷行為に走ることも、体から血を一定量抜くこともなかっただろう。だが、この現状に満足していた。彼女はもう、この血なしでは生きていけない。血の味を知ってしまったからには、薬など到底効きようがない。人間の味を知った野獣と同類だ。だから、彼女の薬は取り上げて捨ててしまった。自分がいるのだから、今更薬など意味がないと。
「僕は、僕なしでは生きられなくなったみょうじさんが愛おしいです。あなたは僕の欲を満たしてくれる」
もう、他の血は口に出来ない体だった。初めに口にしたものに依存する性質なのかもしれない。これは、非常に曖昧で利己的な、ただの推測でしかないのだが。試しに見繕ったやつでは駄目だった。彼女の体が拒絶反応を見せたのだ。ほんの一滴さえも飲めず、彼女も苦痛を感じていたのは記憶に新しい。
「ねえ、私のことなんていつ切り捨ててもいいんだよ」
「そうですね、覚えておきます」
「荒井くん、」
──── ごめんね。と小さく彼女が呟きます。懺悔をするのです、血を飲んだ後の彼女は。彼女は自分自身を疎んでいるようなのです。その、儚く繊細でまるっきり貴重である自身を。本当なら、人の血など飲まなくとも生きていたかった。本当なら、何不自由ない暮らしを謳歌するだけでも良かった。しかし、自分にはそれが叶わなかった。
どうしてこうも僕は彼女に惹かれてしまうのでしょう。彼女はもう立派な友人であり、親友であり、恋人であり、家族です。もしかしたら、僕はそんな彼女を良いように利用しているだけなのかもしれません。僕自身、誰かに必要にされるということが少ないものですから、僕を必要とする彼女を手放せないのかもしれません。
「謝らなくていいんです」
いつものように落ち着いた口調で彼女に接すれば、彼女はどこか安堵したように、けれど、忌まわしさを隠しきれぬまま、小さく笑った。一生涯を薬漬けで終えた方がいいのか、それとも本能に抗わず運命を受け入れた方がいいのか。誰にも分からないことだと思えた。少なくとも、みょうじなまえに生き血を分け与える荒井昭二にとっては、断然後者の方が良いと思ったことだろう。自分の尊厳を捻じ曲げてしまうくらいなら、没個性の人形達が犇めく常識などより自分自身を尊重していくはずだ。
「僕にとっては今が血の通った時間なのですから」
骨の髄から、震えていた。骨だけではなく、体のあちこちに張り巡らされた血管の一本一本さえも、喜びに歓喜している。彼女の唇に触れる。太陽のように温かだと思ったが、今だけは自分の指先も冷ややかものではないと知ることが出来た。
彼女との付き合いは生涯に渡って続くことだろう。学生の内から何を達観しているのかと思うかもしれないが、彼女の命が自分の命と絡んでしがみつけばしがみつくほど、その将来が現実味を帯びていくのだ。まだ自分達は未来を憂う学生だ、命の終わりまでは先が長い。彼女との付き合いも続いていくだろうし、この行為も引き続き行われていくことだろう。
「みょうじさん、あなたが僕の前に現れてくれて嬉しかった」
これから先も僕を必要としてください。と告げれば、彼女もまた熱に浮きっぱなしの瞳で頷いた。すると、ふと思いつくことがある。これは一つの衝動だ。彼女の、彼女の血を口にしたらどうなるのだろう、と。自分も同族となってしまうのだろうか。もしそうだとするなら、自分の探究心はより欲深いものになってしまうだろう。今でも相当だとは思っているが、きっと箍が外れて抑えようのない怪物にでもなってしまうに違いない。
| 啜 |