僕には、やたらと声をかけてくれる同級生がいます。それは勘違い男の中村くんや、一年の頃からの付き合いがある袖山くんなどではなく、同じクラスの女子でした。同性である男子ならまだしも、あまり接点のない女子に何故僕は声をかけられるのかと不思議でなりませんでした。もちろん、そんな彼女に対して初めの頃は警戒していました。何を考えてるのか読めませんでしたからね。もし何か企んでいるのであれば、巻き込まれずにいたいと思っていましたから。
 ですが、彼女はそのような素振りを一切見せませんでした。僕としては当然だと思いました。企みなんてものはそんな簡単に他人に悟られていいものではないと。だから、僕はその好意に甘えるフリをして、彼女の企みを暴いてやろうと考えました。彼女の名前は、みょうじなまえさんと言いました。

「おはよう、荒井くん」
「おはようございます」
「今日もいい一日になるといいね」
「ええ、そうですね」

 他愛もない会話です。酷く他人行儀であることが窺えます。ですが、これがいつもの会話です。僕とみょうじさんの、他愛もない会話なのですよ。たまたま席も隣同士でした。彼女が教科書を忘れた日には、よく僕の机と彼女の机を横に並べて同じ教科書を見るなんてこともあります。ここまでは至って普通の学校生活ですよね。それでもね、僕の中に巣食う疑惑はなくなりはしなかったのです。いつ、彼女が本題を切り出してくるのか。ずっとそればかりを頭の片隅に置き、みょうじさんに接していました。人の良さそうな皮を被って、僕のような人間を餌食にしようとしている。許し難いことです。ですから、いつでもその手を振り払える心の準備だけは済ませていたんです。


 その日は生憎の雨でした。ごわごわとして、薄汚れた綿の塊のような雲が空の至るところに敷き詰められているような空模様でした。彼女は放課後になっても帰る素振りを見せません。僕はみょうじさんに帰らないのですかと訊ねたんです。すると、彼女は相変わらず人の良さそうな顔の眉を下げて、傘忘れちゃったんだ。とぽつりと呟いていました。

「今日は雨が降ると天気予報でも言っていましたよ」
「そう、なんだけどね。たまにこうやって馬鹿やっちゃうんだ」

 彼女は肘をつきながら、窓の外の数多に降りしきる直線を眺めていました。ざあざあと雨のざわめきがよりうるさくなったような気がしました。僕は、帰るつもりで鞄を肩に掛けていたのに、彼女の見せた雨への憂鬱さに、つい席に戻っていたのです。

「あれ、帰らないの」
「雨を見ているのは好きですが、雨に濡れるのは好きではありませんから」
「そっか、」

 でも、本当は傘持ってきてなかったりして。と僕の用心深さを知らない彼女はおどけてみせます。鞄の中に折りたたみ傘が一つあるのですが、僕は先程も言った通り、濡れてしまうのは好きではありません。この折りたたみ傘では、僕か彼女かが濡れてしまうのです。元々、傘なんてものは人ひとりが雨を凌げるだけの大きさしかありませんから。

「もし、僕も傘を持っていなかったら?」
「今日は多分、みんな馬鹿やっちゃう日なんだね」
「みんな、ですか」
「そ、私もだし、荒井くんもだし」
「僕も、とは心外ですね」
「……今のって冗談?」
「ええ」

 彼女はおどけた表情から一気に真面目な顔をして、驚いていました。無理もありません。僕も少しおどけてみたいと、いつにも増して真面目な顔をしたのですから。その時のみょうじさんの驚いた顔と来たら、笑いが堪えられませんでした。ぽかんと口を開けて、呆気にとられている様はあんまりにも間が抜けていて面白いものです。

「荒井くんも冗談言うんだ、意外だね」
「そうでしょうか」
「人間っぽいって言うか、そんな感じ」
「僕は人間ですが」
「うん、人間っていいね」

 僕達は人間そのものです。ですから、彼女の自分が人間ではないかのような言葉が気になりました。僕からすれば、彼女の方が真面目に人間をやっていると思いますよ。他者と積極的に関わり、協調性を育み、心を砕くことが出来る。現に彼女はこんな僕にも話しかけてきてくれていますからね。いつもの僕なら新手の嫌味だと内心、吐き捨てていたでしょう。ですが、この日までの間に彼女とはそれなりの関係を築いていましたから、そんな邪険にはしませんでした。寧ろ、彼女にそう言われたことで、まるで自分も真面目に人間をやっている側の気持ちになれたのです。口にするのには気恥ずかしさが勝る気持ちを、僕はこの時ほど感じたことはありません。


「ね、ずっとここにいても退屈だし、図書室でもいこうよ」

 彼女の一言で僕達は雨の学校で時間を潰すことにしました。帰ろうと思えば帰れるのに、不思議とそんな気分にはなりませんでした。とても居心地がよかったのだと思います。彼女に手を引かれることさえ、嫌だと思わなかったんです。単純でしょう?僕はみょうじさんのことを嫌いになれなかったんですよ。あんなに疑心暗鬼でいたはずなのに、その隣にいるのが一番心地よいと感じているのです。細くて柔らかくて暖かい指先を離してしまわないように、僕はそれとなく握り締めました。彼女は一瞬、僕の方を振り返りはにかんでくれた気がしました。気がしたと言うのは、彼女はすぐに前を向いてしまいましたからね。本当のところは分からず終いです。
 図書室への道中、僕達はまたあの他愛もない会話をしていました。僕は本をよく読むけれど、彼女はそうではない。僕は多趣味だけれど、彼女はそうでもない。僕は人間観察が好きだけれど、彼女はそうじゃない。なんだか、とても意外でした。僕にさえある趣味や好みが彼女には欠如しているように思えたのです。それがとても意外でならなかったのです。

 図書室に着いてからは、数多くの書物が並ぶ本棚の隙間を通り過ぎては行く宛てもなく、フラフラとしていました。時折、気になった本棚の前で立ち止まり、背表紙を目で追い、指をかけて本を引き抜く。みょうじさんは殆ど僕の話を聞いていました。彼女は読書をしないので、大量の書物を前にしても食指が動かなかったようです。だから、僕のおすすめや読んでみたいと思っている本について語っていました。そこで一つ図書室にまつわる怪談を思い出したのです。あなたも聞いたこと、あるんじゃないですか?ウチの図書室には、どんな相手も口説き落とすことが出来る本の話を。
 僕も勿論知っていましたから、みょうじさんにそれとなく話してあげたんです。そうしたら、荒井くんが誰かを口説き落としてるところ、見てみたい。と笑って言うんです。僕にはそんな自分の姿が想像出来ません。確かに積極的になりたい気持ちはありましたが、相手を口説き落とすのは積極的以前に、あまりにも飛躍し過ぎですから。ですが、彼女の一言に面白いことを思いつきましてね。今し方、手にしたばかりの本をそれに見立てて一芝居打ってみることにしたんです。その時の彼女の驚きと不安が入り交じった顔は今でも忘れられません。

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