彼女は最初あまりよく分かっていないようでした。僕はその一方で、今まで見た小説や映画から台詞を引用して拝借しているだけでしたから。ですが、みょうじさんにはピンと来ていませんでした。その理由を考えた時、とても小さなミスをしていることに気付きました。彼女には読書や映画鑑賞などの趣味がないことを、すっかり忘れていたのです。それでも、いきなり僕が彼女に言い寄っているのですから、みょうじさんとしてはとても驚いたことでしょうね。ただの噂話だと思っていたその本に出会い、魅入られてしまったのだと思ってもおかしくはありません。
傘を忘れたと話してくれた時よりも顔を曇らせて、何度も荒井くん……?と不安そうに呼ぶんです。男の子は好きな女の子に意地悪をして気を引こうとする。なんて言われていますが、僕もようやくその言葉の意味が理解出来ました。確かに、彼女の不安で仕方ないという姿を見ると、自分にだけ向けられた視線の心地良さに味を占めてしまいそうになる。とは言え、いつまでもそんな子供じみた手を使っている人なんてたかが知れますので、僕はもうこの手は使わないでしょうね。
「ほ、本当にどうしちゃったの、荒井くん、」
じりじりと後ずさるものの、やがて彼女の背中は近くの本棚に接触し、歩みを止めてしまいます。これが最後だとばかりに、ぽつりと愛の言葉をなぞりました。かの有名な文豪が残した、とある言葉の意訳です。さすがにみょうじさんもそれは知っていたようで、遂には俯いてしまいました。少々遊びが過ぎたと、彼女の真っ赤になった顔を見て思いました。必要以上にからかってしまったことを詫びようと彼女に声をかけた時でした。
「…………でもいい、」
「はい?」
──── 死んでもいい。
僕は耳を疑いましたよ。まさか、彼女から返事がもらえるとは。きっと大半の人間が、あの言葉に対する返しを知りはしないでしょう。あまりにも愛を囁く言葉の方が有名になり過ぎてしまいましたからね。僕はすっかり芝居を打っていたことを忘れて、彼女の返事に身動きが取れなかったのです。死んでもいいと口にした彼女はまるで別人のように冷めた顔をしていました。さっきまで赤らんで見えた頬も、血の気が引いているかのように真っ白に見えたのです。僕が黙り込んでいることに気付くと、みょうじさんは慌てて謝り出しました。そこでようやく硬直していた僕の体も自由になり、僕も芝居を打っていたことを詫びました。
すると、彼女は突然僕に飛びついて来ました。なんせ突然のことでしたし、先程まで身動きが取れなかったのですから、僕は彼女に抱き締められる形になってしまいました。この時、違和感を覚えたのです。何かが違うと漠然とした違和感でしたが、不安だった表情を崩していた彼女を見ている内に気にならなくなっていました。
「じゃあ、荒井くんは何ともないんだね」
「ええ。すみませんでした、さぞかし驚いたことでしょう」
「大丈夫。でも、もう心にないことを言っちゃダメだよ」
密着していた体が離れて、彼女は安堵して見せたかと思うと、次には再び表情を曇らせていました。僕の悪戯があんまりにも酷かったからでしょうか。もう一度詫びようと口を開けば、重なるようにみょうじさんの声が聞こえてきました。
「あのさ、私も一つだけ怖い話知ってるよ」
「怖い話ですか。もしかしたら、僕も聞いたことがあるものかもしれません」
「ううん、これは私しか知らない話なの」
聞いてくれる?と彼女は浮かない顔のまま、話してくれました。それは周りや自分を無碍にしてしまったことで、大切なものを奪われてしまった女の子の話でした。女の子は至って普通だったそうです。どこにでもいるような女の子は、ある日を境に自分のことを粗末に扱ってしまうのです。例えば、本心を隠すような言動であったり、心にもないことを気遣いとして並べたり、自分のことなどお構い無しだったそうです。
僕はその話を疑わしく感じていました。さすがに彼女の前で追及することはしませんでしたが。そして、女の子は悪魔に大切なものを取られてしまったそうです。関心も示さず、本心にすら耳を塞ぎ、自身を欺いた女の子が奪われたものは、『心』なのですよ。心を奪われた彼女は人でありながら、決して譲れないものを失くしてしまったことで人でなくなってしまったのです。
「ところで、この話のどこが怖い話なのですか?それなら僕の知っている話の方が充分怖いと思いますが」
「この話が怖いと感じるのは私だけ。だから、この話を知ってるのも私だけなの」
「あまりにも突飛で分かりません」
そう告げると、みょうじさんは困ったように笑い、いきなりセーラー服のボタンに手をかけたんです。そして、胸元のリボンを解いては胸元を肌蹴させました。そこでようやく僕は彼女の話が恐ろしいものだと知りました。柔らかそうな肉付きの胸元に真っ黒な穴があいていたんです。綺麗に丸くくり抜かれたような穴の奥には闇が広がっていました。肉や骨、筋に血管、神経さえも存在していないのです。その穴の内には、虚空が闇となって広がっているばかりでした。
吸い込まれそうな程に深い闇を見つめている内に僕は気付きました。心を奪われてしまった女の子の正体に。だから、『女の子』には趣味や好みがない。何にも興味はなく、何にも突き動かされることもない。それでは、何故『女の子』は周りの人間と同じように接することが出来たのでしょうか。今思えば、彼女はいつも教室で一人だったような気がするのです。
「その『女の子』はどうして僕を選んだのでしょうか」
「聡明な男の子だと思ったから」
「それは光栄ですね」
僕は彼女の肌蹴た胸元を直し、ボタンを留めてやり、最後に胸元をリボンで彩りました。一度隠れてしまえば、彼女が欠けた人間であるように感じられませんでした。あの言葉に正しい返しが出来る彼女を、僕は恐れることなんて出来ませんでした。僕達は人間です。何一つ欠けることなく生まれてきた人間です。全てが等しく満たされてしまった存在だからこそ、たった一つ欠けてしまった彼女を知らぬ間に特別扱いしていたのでしょうね。だから、会話の節々の違和感に気付けなかった。そう思うと、全てが腑に落ちるのですよ。
「一緒に帰りませんか」
「ありがとう」
彼女は心底嬉しそうに笑いました。見慣れた笑顔です。模造品だとは見抜けないほどに精巧に出来た笑顔です。僕は彼女と共に図書室を後にしました。廊下の窓ガラスは相変わらず薄暗い雲が居座っている空模様のままでしたが、幸い雨は止んだようです。
「……月が綺麗ですね」
「そう仰るなら、死んでもいいわ」
「なら、埋めて差し上げましょう」
「ええ、喜んで。けれど、あなたは百年待てますか」
「待てますよ。暁の星が瞬くまででしょう」
本当は彼女も聡い人間だったのかもしれません。人間は心がなければ、生きていけないのでしょうか。この世には心を持ち合わせていながら、彼女よりも粗末な扱い方をしている人があまりにも多く感じられます。何故、『女の子』は心を取られてしまったのでしょうね。彼女は、みょうじさんはまだ教えてくれません。ですが、僕が真実を知るのはそう遅くはないと思うのです。あなたはどう思いますか?
──── 僕の話は以上です。
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