自分の鼓膜を震わせた坂上の一言に衝撃が抜け切らない。まるで裏切られたように、もしくは捨てられたかのように感じていた。これは個人的な被害妄想であって、彼女に面と向かってそう言われた訳ではない。だが、誰もが身に覚えがあるはずだ。根も葉もない噂や悪意に満ちた言葉を人づてに聞いてしまった時のような、形容し難い不快感のヘドロが胸にこびり付いた瞬間のことを。
「日野先輩は知らなかったんですか?みょうじさんがスランプだって、」
「あ、ああ……」
「僕や倉田さん、部長にも話したって言ってたからつい、」
ここで坂上は気まずさを感じ取ったのだろう。丸わかりの表情で一言、すみません。と詫びた。いや、お前は悪くないよ。と笑って見せた。人に見せられるような笑顔ではないと知っていながら。ぎこちない、ひたすらにぎこちなく、いたたまれない笑みを見せてやることしか出来なかった。みょうじさんは放課後、いつも図書室で本を読んでいるんです。もし、時間があったら行ってあげてください。と出来るだけの気遣いを置いて、坂上は部室を後にした。
坂上が新聞部の部室を訪れたのは、空が夕焼けに染まる頃だった。部室で次の企画について考えていた日野に、何気なく話したのが彼女の話題だった。正直、初耳だった。知らなかった。何もそんな素振りは見せなかった。頼られなかった。相談さえ、何もなく。きっと坂上は彼女に会った帰りだったのだろう。だから、いつものように人懐っこい笑顔で彼女のことを話題に出したのだ。そこに悪意はない、微塵も、欠片もない。それだけは間違いない。だが、胸は切り裂かれたかのように痛い。具合が悪い。もやもやとした不快感だけが渦巻いている。
彼女とはみょうじなまえと言う女生徒で、この学園の二年だ。同じ新聞部に属し、自分達と共に一年の後輩を指導する立場だった。人当たりの良さや親しみやすい人柄である彼女とは、一年の坂上や倉田もすぐに馴染んでいった。朝比奈からして見れば、気の合う良き後輩で、自分だってまだまだ伸ばし甲斐のある可愛い後輩だと思っていた。面倒を見てやらねばならない一年とは別に目をかけていたのだ。もしかしたら、これはただの身勝手な押し付けでいい迷惑だったのかもしれない。
酷く気分が落ち込んでいくのが分かる。こんな時はうじうじせず、彼女の元へ行き、真相を突き止めた方がいいに決まってる。憶測だけで彼女のことを知った気になって、自分を追い詰めたところで何の意味もないと分かっていながら、動けずにいる。部室から離れられなかった。彼女のことを目をかけていると思っていながら、その実、本人が苦しんでいることに気付けなかった。だからこそ、どんな顔をして会えばいいのか分からない。寧ろ、怖いとさえ感じてしまう。ああ、こんな体たらくだから、彼女は自分を頼ってくれなかったのかもしれない。例え、仮にそうであっても怒りなど場違いな感情は湧き出なかった。
***
臆病なまま時計の針の音だけを聞いていた。あれからどうしようかとずっと考えあぐねていた。だが、答えは出なかった。いや、会いに行かないという答えを出したのかもしれない。何故なら、この足は恐ろしさに竦んで、図書室へ行くのを拒んでいるからだ。黙ってパイプ椅子の背に深く腰掛ける。明日なら会いに行けるだろうか、と勝手に予定を先延ばしにする。来てくれ、とは頼まれてもいないのに。卑屈さに息が詰まりそうだった。窓の外はもううっすらと夜の訪れを告げている。帰ろう。そう思い、席を立った時だった。
ガチャリ、と新聞部のドアが開いた。坂上だろうか。この部室に忘れ物でもしたのだろうか、と視線をドアの向こうに投げ掛けると、そこには青いスカートを靡かせた彼女が立っていた。日野は萎れていた心が緊張で張り詰めていくのを感じていた。会えないと思っていた相手が、この部室に現れたのだ。彼女は、お疲れ様です。といつもと変わらない挨拶を交わす。
「な、なんだ、みょうじか。こんな時間にどうした?」
「少し部室に用があって」
「そうか。でも、もう外も暗くなって来ている。あまり長居はしない方がいい」
「はい。そう言えば、先輩は原稿中ですか?」
「あ、いや、俺は、」
意味もなく、ここで時間を潰してしまったことを明かすのは気が引けた。その主な理由がみょうじなまえのことなのだから。まあ、そんなところだ。と上手く濁せば、根を詰め過ぎないようにしてくださいね。と耳触りの良い言葉を投げ掛けてくれた。彼女は日野の追いかける視線に気付くことなく、部室内の棚の前で立ち止まると、過去に掲示した校内新聞をまとめてあるファイルを手にした。ぱら、ぱらと捲られていくページに目を落としている横顔を日野は黙って見ていた。
ここで静寂を破ったのは一人考え続けていた日野、ではなく、ファイルに目を通していたはずのなまえだった。折角、手にしたファイルを閉じ、近くのテーブルに置くと真っ先に日野の元へ近寄り、大丈夫ですか?と顔を覗き込んだ。不安そうな顔をしているなまえの姿に、日野もようやく口を開けるようになった。先程まで乾いた唇が張り付いていたのが、なかったことのように思える。
「俺は大丈夫だよ」
「それなら、いいんですけど……」
「心配をかけてすまない」
「いえ。日野先輩は熱中すると周りが見えなくなりますから」
くすくすと笑うなまえに、日野は日常が帰ってくる予感がした。あと少し手繰り寄せるだけで、元に戻れる気がしたのだ。
「みょうじ、お前の方は大丈夫なのか」
彼女の弱い部分を射抜いてしまった、と日野は感じた。微笑んでいたなまえの表情がぎこちないものへと変わっていったからだ。なまえはぎこちなくなった笑みを少しずつ剥がし、暗い素顔を覗かせる。翳りの見える姿に日野は坂上の言っていたことは本当なのだと知った。彼女はスランプに陥っている。しかも、重度のものなのではないだろうか。
新聞部では誰もが書き手であり、表現者であり、校正者だ。誰の手も加わっていないありのままの文章を、適切なフォーマットに当てはめるように修正していく。その作業を繰り返していくことで、ようやく新聞としての記事が出来上がる。だが、それは生易しい作業ではない。適切な表現、言葉遣い、誤字・脱字はないか、誤用している言葉はないか……と一から百まで確認、修正していかなければならない。筆が乗る内はどうにでもなる。自分の伝えたいことの熱意がこの工程を経て、形作られていく過程に達成感を感じる程だろう。
だが、スランプ中ではどうだろうか。何をしても上手くいかない。良いアイデアが閃こうとも、自分が追い付けない。筆が乗らないだけじゃなく、気分も乗らない。乗り気ではないのだから、原稿と向かっている時間は苦痛そのものだ。もしかしたら、今は書けないかもしれないけれど、明日には書けるかもしれないと時間を置いてみるだろう。しかし、たった一日、二日で抜けられるほど、スランプという名のトンネルは短くはない。
スランプは頻発する病だ。しかも、その対処法がいつも同じとは限らない厄介な病だ。彼女はそれを患って長いのだろうか。だとしたら、何故彼女のスランプは癒えてくれない?日野はなまえの書く記事が好きだった。形式ばった堅苦しいものではなく、人柄の滲み出る柔和な雰囲気のある文章を書ける人物なのだ。だからこそ、彼女の書いた新聞を楽しみにしているのは他の誰でもない自分で、彼女が筆を持てないのなら、その助けになりたいと強く願っているのも自分だった。
「さすが、日野先輩です。知ってるんですね」
「いや、今日初めて知った。坂上がみょうじはスランプだと」
「そっか、坂上くんが」
「どうして、俺には何も言わなかったんだ?」
悲痛な問いだった。この部活において、スランプになったことへの報告は絶対ではない。だが、日野は自分以外の人間が、本人から直にそう聞かされていることに憤りを感じていたのだ。役に立てないと判断されたのかもしれない。こんな自分の文章では克服の材料にならないからと。それでも、出来ることがあるのなら、手を尽くしてやりたかった。なまえは更に顔を曇らせて、日野を見た。
「心配、かけたくなかったんです」
「そんなのってないだろう。第一、水臭いじゃないか」
「私の先生は日野先輩でした。でも、もう私も二年ですし、あまり迷惑とか心配を……」
「俺じゃあ頼りにならないってことか?」
日野の言葉になまえは首を横に振った。そんなこと、あるはずがないと。それなら、余計に理由を知りたかった。何故、自分だけが。
「……毎日、日野先輩の記事を読み返してるんです」
「毎日?」
「私の好きな、一番憧れた文章ですから」
きっと自分のことに付き合わせては新しい記事、好きな文章が読めなくなってしまう。それは、それだけはどうしても避けたいと、彼女は明かした。確かに今の自分では前のように何かを書くということが出来ないが、過去の新聞を読んでいると胸の内が不思議と心地よくざわめくのだと。自分が見失ってしまった何かが詰め込まれているそれを見返しているのが、今はとても楽しい。そして、好きだと言える文章の記事を読む度に、前向きに背中を押されたような気持ちになれるのだと。たどたどしく、だが、しっかりと伝えてくれた。彼女の胸中は他の誰も知らないだろう、自分にしか明かされていない胸の内を。
「なあに、初心に帰ればいいだけだ」
「初心、ですか」
「ああ。みょうじが一年の頃、よく俺の後を付いて回ってたろ」
「そうですね、まだ何も分からない頃でしたから」
「だったら、また付いて回ればいい。俺はみょうじを邪険にはしないさ」
「でも、」
「今は書けないんだろう?それなら、尊敬する先輩の助言に耳を貸すのもありだと思うぞ」
「それ、自分で言います?ふふ、」
「ああ、だってそう言ってくれたじゃないか」
「そこまで言ってないですよ、ただ好きだって」
……す、好き?日野先輩の文章ですよ。あ、ああ、そうだな、そうだよな。どうしたんですか、急に。いや、早とちりだったな。日野は動揺する指先を眼鏡のフレームに添える。なまえは、変なの。と肩を揺らして笑っている。どうも、彼女のことになると早とちりが先行してしまっていけない。そう分かっているのに、本人を前にしてしまうとそんな些細なことは忘れてしまう。
「暫くは助手としてサポートを頼む。あとは今まで通り、坂上や倉田達の記事を手伝ってやってくれ」
「はい、頑張ります」
「あとは時々、朝比奈にも構ってやってくれ」
他にも言っておきたかったことはあった。彼女を気遣う言葉の数々が。しかし、それより一番伝えておきたかったことが口を突いて出てきた。
「もし、また何かあったら、その時は遠慮せずに相談して欲しい」
い、一年のひよっこよりは頼りになると思う。これでも副部長だからな。……日野先輩こそ、私にかまけてないで一年生の子の面倒も見てあげてくださいね。も、勿論だとも。
心配をかけたくなかったから、と何も言わないでいた彼女がやんわりと笑う。心底嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。本当は彼女だって寂しかったはずだ。同じ思いをした者同士にしか分からない感情かもしれない。だから、彼女にそう言えたことが、自分自身が歩み寄れたことが、何より嬉しかったんだろうと思う。
「あ〜あ、また甘えちゃうなあ。日野先輩に」
「お前はいつだって俺の可愛い後輩だよ」
照れ臭いのを誤魔化すように彼女の頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。彼女も何かが吹っ切れたのか、乱れた髪のまま満面の笑みを見せてくれた。
| エレジーは聴こえない |