嗚呼、すごくいじらしい。そう感じ始めたら、何もかもが猫の気まぐれであるかのように錯覚してしまう。愛らしいくせに甘やかし過ぎれば、気に食わないからと爪を立てる猫のようだと。気軽には触らせてくれない気難しさ。いや、容易に触れないからこそ良いのだと知っている。もどかしいから焦れったい。焦れったいから余計に昂っていく。純粋だった心が絡まっていくのだ。彼女への思いと、自分の抱いた欲望に。緩やかに絡まっていったかと思えば、次第に雁字搦めに。これを拗らせると言うのだろう。
 こんな自分じゃあ、まともな大人になれないじゃないか。こんな自分じゃあ、立派な大人になれないじゃないか。告白してもいないのに、拒絶された日のことを思えば、勝手に傷心してしまうのだから。相当、終わっているのかもしれない。ただの想像にすら、ハートブレイクで再起不能にさせられてしまう。なんて情けないことだろう、本当にダメな人と言って叱って欲しいくらいだ。誰もが皆、まともで真面目な殻を繕って誤魔化しているだけだ。本当はどろどろとみっともなく、何かに依存し執着していなければ生きていられない生き物なのだ。怠惰で快楽には滅法弱く、ぐずついて幼稚な、恥も尊厳もない生物なのだ。


「日野くんっておかしい」

 くすくすと肩を揺らして笑っているのは、彼女だ。完全な否定をしたのではない、彼女は戯れのような軽い気持ちでそう言ったのだ。どちらかと言えば、彼女は人を肯定してくれる稀有なタイプの人間だった。だからと言って、無責任に何でもかんでもそうする訳ではないが。道徳的であり、倫理的であろうとする彼女に歪んだ思いを抱いているのは、恐らく自分だけだろう。彼女の周りの友人にここまで歪んだ欲望を抱いた人間など、自分を除いて存在しないはずだ。

「みょうじの言う通り、俺はどこかおかしいのかもしれない」

 いつだって真面目だった。いつだって、真面目におかしいのかもしれないと口にしてきた。すると、彼女はここが学校ではないのを良いことに、ここがおかしな男子生徒の部屋であるのを良いことに、青の綺麗な制服のスカートから伸びる柔らかそうな膝を軽くぽんぽんと叩くのだ。こっちにおいで、と誘っている。真面目であるくせに誘惑にはとことん弱い人間だった。部活のない放課後はいつもこうだ。彼女を自宅に連れ込み、自室で彼女の優しさに甘えてばかりいた。時には気が済むまで話を聞いてもらい、時には弱り切ってしまった自尊心を愛でてもらい、時には体越しに直接の温もりを分けてもらっていた。けれど、自分ばかりが深みに嵌っていくばかりで、彼女は決して本心の部分を見せてくれず、それに触らせてはくれない。
 やがて誘われた膝に頬を寄せる。人肌の心地よい柔らかさに目を閉ざす。自分自身を受け入れてくれているという実感が喜びを呼び起こした。淡い溜息を吐けば、上から降りてきた彼女の手が頭を撫でた。彼女の指がこの髪に、頭に、頬に触れる度、何とも形容し難い高揚感に包まれていた。もっと、もっとそうしてほしい。いつまでもこうしていてほしい。理性が何の役にも立たず、溶け落ちていく。淡い溜息が乱れた吐息に変わると、日野くん、変なこと考えてるでしょ。と彼女は指先を滑らせた。頭を、髪を、耳を、頬を過ぎ、唇をなぞるように触れたのだ。吐息で一度、彼女の指先を濡らす。

「おかしいんだ、俺は。だから、みょうじに確かめて欲しい」

 頼りない手で彼女の指先を手繰り寄せた。心臓の真上にそれを置き、まずは生きていることを確かめてもらう。温かな皮膚、しなやかな筋肉、健全な骨格、綺麗に通された神経。手のひらいっぱいに感じて、確かめて欲しかった。脈のひとつでも乱れてくれれば、自分がおかしいという裏付けが出来る。おかしいから変なことを考える、という理由が欲しかったのだ。彼女を見上げれば、目を閉ざしていながらも微笑んでいる様に、手繰り寄せた手をぎゅっと握り締める。
 彼女が、彼女の存在が俺をおかしくしたんだ。彼女がおかしいと言って笑ったから、彼女が膝を許して頭を撫でたから、彼女が俺に触れたから、おかしくなってしまった。今すぐにでも確かめて欲しい。この胸を開いて、頭を開いて、腹を開いて、おかしな部分がないか。そして、本当に俺はおかしな人間なのだと知らせて欲しい。そんなことがぐるぐると脳内を駆け回る。けれど、そんなことは出来ないとなまえは笑って言う。そうして見せたのは、目の前の彼女か。または自分の妄想に生きる歪な彼女か。

「どうやって確かめたらいいの」

 なまえは見下ろした視線の先に自分を捉えて、そう口にした。薄い唇から舌が覗く。憂い気な瞳が降り注ぎ、自分は彼女の膝に頭を預けたままだ。離れられない。じれったくて、だらしなくて、おかしくて、甘ったれている。そんな自覚を持っていながら、更に彼女を困らせようとしているのだから迷惑極まりない。

「また、おかしいって言って笑ってくれ」
「それでいいの?」
「ああ。それでいいんだ、それがすごく心地良いんだ」
「そっか、」

 ──── 日野くんって、やっぱりおかしい。
 胸の上で握り締めた、しなやかな指が胸骨を撫でた。心臓の周りをくるくると、すうっと何度もメスを入れるように走っていく。シャツ越しに感じる優しくもくすぐったい感触に、脊椎さえも撫でられているように思えた。微々たる刺激が脊椎を通り、四肢へと走り抜ける。本当はきみだっておかしいんじゃないのか、と問いたくなった。おかしな人間の浅はかな欲をどうして、こうも満たしてくれるのだろうか。どうして、こうも許してくれるのだろうか。少しだけ息苦しく感じる。胸が詰まっているのだろう。一体何に?彼女への溢れる思いに、かもしれない。
 俺はいつだって、彼女の幼い母性に甘えている。まだ幼い母性しかない彼女の視線から逃れるように再び真横を向いた。母胎で揺蕩う胎児のように身を丸めれば、何も知らない彼女の言葉が降って来る。

「日野くん、眠たいの?」
「眠たいんじゃない、ただ、」
「ただ……?」
「胸が詰まりそうだった」

 突拍子もないおかしな言葉にも彼女は黙って頷いて耳を傾けてくれる。分かっていた、おかしいのは彼女ではなく自分だということを。彼女の善意に甘えて、彼女を巻き込んで、自分を我儘たらしめていたのは紛れもない、この日野貞夫自身なのだ。もう何度自覚しては堕落するの繰り返しをして来たことだろう。いつになれば、決着が着く?何故、泥濘の底から這い上がることが出来ない?

「胸が苦しくて呼吸が出来なくなったら、」

 ──── わたしのを分けてあげる。
 彼女の言葉が麻薬のように、覚えたての快楽のように鼓膜を伝い、聴覚を心地よく刺激し、神経系の隅々に行き渡っていく。甘い菓子を口元に運ばれている気分だった。たったひとくち、されどひとくち。とてもあまくて魅惑的なそれを彼女は、みょうじなまえは自分に差し出している。強制されたものではなかった。彼女にその意思はない。ないくせに、躊躇いもなく、自覚もなく、人を堕落させようとする行いに酷く幼稚な何かを感じる。子どもが玩具を握り締めて離そうとしない時のような、執着。彼女にもあるのだろうか、そのような感情が。

「じゃあ、その時は──── 」

 しがらみに身を投じていた。彼女の伸ばしていた手の内に飛び込んだのだ。彼女は嬉しそうなため息の後に小さく呟いた。ほんとうに、ひのくんっておかしい。また鼓膜が快楽に揺れる。あまりの心地良さに体が熱を帯び始める。このままでは一線を超えることさえ厭わないだろう。しかし、まだ自分達は責任という言葉を背負い切れない学生だ。踏み留まらなければならない局面でいつも歯止めが効かないのは、

「じゃあ、その時は一緒に死んでくれ」

 彼女はまた嬉しそうに笑った。破滅の足音が途端に大きく聞こえたような気がした。



| 窒息するまで生きていよう |


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