この世の中には運命的な出会いを果たす瞬間というものがある。それは刹那的で、しかし、確かに強く惹かれる感覚を残していく。そして、鈍痛のように胸の内にしがみついて離れない。恐らく、これを恋と言うのだろう。初めての体験だったということもあり、悪い気はしなかった。だが、常に恋せよ乙女である女子達のように、いつまでも浮かれてはいられなかった。勝手に恋をするのは構わないが、そのせいで学業を疎かには出来ない。幸い、その相手とは同じクラスだ。ゆっくり時間をかけて仲を深めていければいい、それで良いと信じていたのに。

 彼女はみょうじなまえと言う、平凡な女生徒だった。生活態度も成績も概ね良しの、帰宅部である彼女。話し掛けるタイミングはいつでもあった。自分にも、『彼』にも等しく存在していたのに、彼女の控えめな性格に胡座をかき、悠長に時間をかければいいと思い込んでいた。予兆なんて何もなかった、遠くで見ている分には。しかし、実際は彼女も心躍らせる運命を確信し、幸せを噛み締めていたのかもしれない。自分が無知であった時間の分だけ、惨めさに拍車がかかる。やる後悔よりやらぬ後悔。その言葉以外、自分を責め立てるのに最適な言葉を知らなかった。
 彼女には恋人がいた。それもこの鳴神学園にではなく、他校の生徒だと噂に聞いた時は戦慄に肌が粟立ったほどだ。頭を強く殴られたような衝撃、彼女は既に誰かのものだった。所詮は一時の気の迷いだった。一目惚れという、ただのくだらない勘違いだった。何も知らないで勝手に浮かれて、酷く惨めで愚かだった。その噂を耳にするまで、決して行動に移さなかったわけじゃない。日々、挨拶から始め、無理のないタイミングでささやかな会話を楽しんでいた。けれど、結局はその程度だった。自己満足の域を出ず、勝手にぬか喜びして、勝手に報われるものだと決めつけていた。


 噂を耳にした日の放課後、家に帰る気にもなれず、新校舎の屋上でひとり膝を抱えて夕暮れに沈んでいく空の行方を見届けていた。この身に吹き荒ぶ風の一つ一つが、体を切り裂いてバラバラにしてくれれば楽になれただろうに。そんなことも満足に出来ず、体の表面を優しく撫でているだけだった。噂によると、彼女の恋人である『彼』は、自分とは違ったタイプの人間だと聞いた。誰とでも分け隔てなく接し、裏表のない快活な性格の人間であると。彼女が得た恋人が自分のような人間とは違うと知り、胸の奥が酷く痛んだ。自分との違いをまざまざと見せつけられ、どうして自分はそうなれなかったのだろうと、不出来な自分をなじることしか出来ない。
 こんな自分が誰よりも嫌で仕方ない。死すら考えてしまうほどに嫌悪の対象だ。仮に自分を戒めたところで、自分が彼女の恋人に成り代われる訳じゃない。それでも、自分を責めずにはいられなかった。ついさっきまで、あんなに満たされていたのに。淡い思いを抱こうとも昨日まではよく眠れていたのに。傷付いてしまった、深く。ここまで自分という人間が脆いものだとは知らなかった。いや、知りたくなかった。悪意も他意もない噂が容易くこの胸を切り裂いて、大切なところさえもぐちゃぐちゃに切り刻んで、取り返しがつかないくらいに傷付けたのだ。

「……荒井くん、どうしたの。こんなところで」

 噂を流した相手を恨んでいた頃、彼女は偶然にも屋上へとやって来た。心配の滲む声が自分宛に投げ掛けられる。もう既に頬を濡らした涙は乾き始めたが、未だ目元に残り続けていた。赤らむ鼻の頭、涙に濡れた睫毛、屋上にひとりきりの少年。この場面のどこを切り取っても、愉快で朗らかな一面など存在しないだろう。それを察するのに地頭の良さは必要なかった。彼女は自分の元に駆け寄り、屋上の質素なコンクリートの地べたに膝をついた。

「泣いてるの……?」
「……ええ、少し。でも、みょうじさんには関係ありませんから、」

 こんな時でさえ、素直に本心を明かせない。嫌味ったらしく唇を尖らせ、相手と距離を生む刺々しい言葉選びしか出来ない。自分には人の心がないような気がした。けれど、彼女にはまるで歯が立たなかった。大抵の人間は、このように粗末な物言いをされれば、嫌気が差して屋上をさっさと立ち去ることだろう。しかし、彼女はそうしなかった。突き放した張本人の正面に腰を下ろすと、制服のポケットから綺麗なハンカチを取り出し、涙の乾き切らない目元にそっと押し当てた。
 壊れ物を扱うかのように触れる度、唇は震えた。噛み締め、誤魔化してみても体の奥底から湧き上がる情けなさを止める術は見つからない。もうこれ以上は恥を晒したくないと、彼女の手を払い除けてもそれは宛てがわれ続けた。密かに想っていた彼女が、雨風に晒されたコンクリートに膝をつき、自分の傍に居てくれようとしている。彼女は決して折れなかった。折れなかったからこそ、余計に寂しくて惨めで悔しくて、どうしようもなくみっともなくて、やっていられなかった。

「話、聞かせて」
「その前に、どうしてみょうじさんがここに」
「見かけたの。屋上に向かってる荒井くんを」
「見ていたんですね」
「すごく辛そうな顔をしてた。すぐに声を掛けようとしたけど、その時は先生に呼ばれてたから」
「そう、ですか」

 こういう所だ。彼女はこんな自分にさえ優しく接してくれる。けれど、その曖昧で中途半端な優しさに苛立ちが募る。場違いな感情であると分かっていても、そう思わずにはいられなかった。いっその事、優しさなんて恋人に全て捧げてしまえばいいのに、と。こんな、ただの赤の他人である自分になんか、与えてやらなくたっていいのに、と。すると、途端にこんな人に見つかりやすいところで傷心している自分を恥じた。これでは、さも見つけてくださいと言っているようなものだ。悪いことは重なると言うが、ここまで自分を追い込むような状況も珍しい。

「何があったの」

 彼女は何も知らぬ顔で問いかける。まさか自分が大きく関係しているなど知る由もない。答えられずにいると、……言えない話もあるよね。と聞き分けのいい言葉を添えてくれた。しかし、あまりにも聞き分けが良かったせいで、胸の奥に込み上げてくるものがある。どす黒くまとわりつくような、あからさまにタチの悪い何かは形容するならば、嫌悪感を催すヘドロだった。悲喜交々が複雑に入り乱れて、一つの感情として生まれてしまったのだ。
 二つの目がじぃっと自分を見つめている。本当に心の底から心配といった瞳だ。だが、彼女の心情を汲み取ることより、その目が自分に向いていることに安堵していたのだ。なんて歪な、なんて不純な、なんておかしな、なんて哀れな。彼女が自分を見てくれている、その事実が今は何よりも心地よかった。純粋な、混じり気のない心配より、それの方が何倍も心地よかった。


 放課後の空が、屋上に広がる空が、ゆっくりと濃厚な暖色を経て、さっぱりとした寒色へと移ろう。まるで人の生き死にのように感じた。そして、そんなひねくれた自分の手元にあるのは、死んで間もない初恋だ。満足に育つことを許されない、摘み取られた芽だ。彼女の鉢には彼とのそれが実っていて、自分の鉢には朽ちたそれが落ちているばかり。何が違うのだろう、自分と彼女のそれは。同じ感情から生まれたものだと言うのに、何故。
 生きる意味すらも忘れてしまいそうだった。たかが失恋、されど失恋。一途に思えば思うほど、無垢だった自分を否定されているようで心苦しい。いや、心苦しいなんて可愛いものじゃない。殺されたのだ、無垢であった自分を。失恋と言う事実が自分を殺めたのだ。彼女は何も知らない顔でこちらを見つめ続けている。相変わらず、自分より不安そうな顔で。殺す必要などなかったはずなのに、何もそこまでしなくてもよかっただろうに。

「ねえ、一緒に帰ろう」
「え?」
「いつまでもここに居たら、風邪引いちゃうから」
「……そうですね。でも、」
「荒井くんのお家って門限ある?あのさ、」

 駅前に凄くいいカフェがあるの、寄り道になっちゃうけど……。行かない?
 彼女なりの気遣いだった。自分が一人死んだ初恋を看取ることも、弔うことも出来ない間にも、彼女だけは自分のことを考えてくれたのだ。すると、今度は後悔が嫌というほど溢れてきた。彼女の心に背いてしまった気分だ。ひどく苦しい、それから逃れられるならと彼女を見た瞬間だった。
 彼女は懐から携帯を取り出すと、心配そうな顔をまた少し曇らせて画面に目を落としていた。嫌なことは重なると言うが、それは本当だったと再び一人置き去りにされたようだった。着信、その相手はたった一人しかいない。彼女は自分の前で電話に出ることを躊躇っているのか、画面に触れることをしなかった。だから、余計に。

「その電話に出ないでください」
「どうして……?」
「お願いします。僕のことを考えてくれるなら、どうか」
「でも、」
「お願いです。……今日は、今日ぐらいは僕の隣にいてください」

 おねがいですから、と泣き腫らした目で彼女を見た。唇が不格好なくらい震えていたのも気に留めず、心のままに執着することを選んだ。あなたが殺したんですよ、僕の、僕の……。彼女はただ驚くばかりで声すら発せない。不意に距離を詰めれば、どこか怯えたように瞳をうっすらと濡らしている彼女に情けない自分の影が覆い被さる。

「……わ、わたしが、荒井くんに何をしたって言うの」
「僕はあなたが好きだったんですよ。あなたに恋人がいようと、僕の気は変わりませんでした」

 ──── おかしいでしょう?そんな素振りを見せなかったくせに、誰かに取られた途端に自分が先だったと喚いているんです。

「ねえ、みょうじさん」

 ──── どうして、僕じゃダメだったんですか。彼のどこに適わなかったんですか。彼は本当にあなたを愛していますか?形だけの軽い気持ちで付き合ったんじゃないですか。聞きたいことは山ほどあるんです、だから。

「……今日は僕の隣にいてくださいよ。なまえさん」

 目の前の瞳に映る自分はまるで死んでも死にきれない亡者のように見えた。さっぱりとした冷たい夜。だから、こんな時間に二人きりになってはいけないのですよ、と自分の声が他人事のように薄れて消えていった。



| 結び直しの赤い糸 |


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