目の前のトレーには四本の注射器が並べられていた。これは全て自分の為に、あの白井伝三郎が用意したのだという。理由を訊ねれば、あの七人を治験体として連れて来てくれたことへの礼だそうだ。君の望みを叶えられるものを選んだつもりだ。と白井は口にしていた。以前から日野は白井に打ち明けていた相談事があった。それは年相応とも言えるもので、しかし、少しだけ幼いように感じられるものだった。日野が白井に打ち明けたのは、淡い恋の相談だった。相手は同じクラスのみょうじなまえという女生徒で、白井もその名前に聞き覚えがあった。特に秀でた成績ではないものの、しっかりと疑問を問うことの出来る珍しい女生徒だった。
だが、そのような人間はどこにでもいる平凡な存在だろう。特にマンモス校であるこの鳴神学園では尚更だ。しかし、日野は彼女と出会うどころか、クラスメイトとして同じ時間を過ごしている。これを運命と言わずして、何と言うのだろうか。彼女との出会いは運命である。日野は強い確信を持てた。きっと彼女も同じものを感じているだろうと。それでも、この世の中には雑多で邪魔な障害が数多く存在する。たかが同じクラスだからと、彼女に発情めいた声をかける馬鹿共の多さたるや。出来ることなら、彼女に邪な感情を抱く奴らは全てこの手で抹殺してやりたかった。けれど、そんなことは時間をドブに捨てるのと同じなのだ。ならば、
「ありがとうございます」
ようやく、ずっと温めていた計画に手をつけられる。そして、それは既に始まっているのだ。彼女はこの手で守ってやらねばならない。盛りのついた馬鹿な猿や、上辺だけの付き合いしか出来ない口喧しい猫から。これは最後の恩情だ。万死に値する行為の数々を大目に見てやるのだ。乏しく価値のない生を謳歌出来ることを感謝して欲しいと思うのは当然のことだろう。
この世に存在するのは、選ばれた側の人間か、選ばれなかった側の人間だけだ。支配する側であるか、される側であるかと言うのは、小さな問題なのだ。選ばれた側の人間であれば、全てを許される。他者の排除や他者を支配すること、何もかもを許容されるのだ。そう考えれば、命とは何て軽く量産的なものなのだろう。優劣の見境なく生を与えられ、平気で誰かの人生に干渉してくる。日野貞夫である自分は言うまでもなく、選ばれた側の人間だ。そして、それは彼女も同様だ。やっとみょうじなまえを救ってやれる。喜ばしい限りだ。
***
場所は、あの赤い垂れ幕のようなカーテンが部屋中にぶら下がっている部屋だった。その部屋の中心部にはシックな作りのベッドが一つ用意されている。普段ならそのようなベッドなど置いていないのだが、これも白井の計らいだろう。サイドテーブルには、あのトレーがひっそりと置かれていた。中には四本の注射器、自分の望みを叶えられるだろう液体がしっかり詰まっている。見慣れぬベッドには天蓋が付属しており、そこからしなやかに垂れる布地はレースをあしらった、透け感のある暖色の可憐なものだった。そのカーテン越しに見えたのは、彼女の姿だ。
恐らくここには連れて来られたのだろう。そして、意識のないままこのベッドに寝かされた。そう読み取れるほどに彼女には抵抗の形跡がない。事情を話した上でここで眠っているのならおかしくはないが、現実的に考えるとそれは有り得ないのだ。ここはあの、白井伝三郎の研究室なのだ。開かずの部屋とも呼ばれる、人を寄せ付けない異様な場所だ。それにここに入れる人間はごく少数で、人を寄せ付けたくない白井が彼女だけを招くなんてことも、有り得ないことの一つだ。
世界が二分に分かたれている透けたカーテンを開けると、ふわりと控えめな花の香りが漂う。ベッドの上に横たわる彼女を彩るように、その花は添えられていた。それはまるでこの世界とおさらばする時に添えられる別れ花にも見えるが、ただ単純に彼女の可憐さに花を添えているようにも見える。たっぷりとあしらわれた花びらのふくよかな花がシーツの水面に浮かんでいる。そして、彼女もまた真っ白な水面に沈むでもなく、浮かぶでもなく、浸るようにして横たわっている。
不思議とこの光景に見覚えがあった。確か、あれは美術の授業で見た『オフィーリア』という絵画だ。絵画に描かれているのは、オフィーリアが不慮の事故で川へと転落し、生死の狭間を揺蕩っている場面だ。死がゆっくりと近付いている最中、どこか恍惚にも似た官能的である表情。彼女が人間などではなく、水辺で戯れている妖精であるかのように錯覚してしまう程に耽美な描写。けれど、その小川は何事もなかったと言うように、粛々と流れている。たった一人の人間を飲み込もうとも、我々は不変であると告げているだろう、自然の壮大さかつ青々とした恐ろしさの片鱗。
「なまえ、起きてくれ。なまえ」
愛おしさを具現化した彼女の頬に手を添える。あたたかい。ここは冷ややかな小川ではなく、あたたかなベッドの上なのだ。温もりに腰掛け、彼女の目が覚めるまで揺り起こし続けた。この瞬間までもが幸せと何ら変わりなかった。真白がせせらぎと共に揺れる。呼び掛ける声に彼女は徐々に反応を見せた。まずは瞼が震え、吐息交じりに声が漏れた。呼吸が深くなり、胸から腹部にかけてゆるやかに膨らんでは沈んでいく。そして、遂に意識は呼び戻され、瞼が開いては自分を見た。ぼんやりとした瞳が愛おしい。あの視界いっぱいには自分しか映らないのだ。こんな幸せなことがあるだろうか。
「……ひの、くん」
「ああ、そうだ。俺だよ、なまえ」
彼女は意識が混濁しているのか、はっきりとした受け答えが出来ず、曖昧なものになっていた。無理もない、先程まで眠っていたのだから。もう一度、頬を撫でる。この時ほど自分が恋に焦がれているのだと強く実感していた。この部屋の何処にもがさつで不快で汚らしい存在はいない。いるのは、選ばれた人間達だけだ。これで心置き無く、愛を育めるだろう。自身の抱く理想にまた一歩近付けた気がする。
「ここは、」
「そんなこと、今は気にする必要はない」
「……わたし、どうしてここに」
「さあ。俺も今しがたここに来たばかりなんだ」
彼女は体を起こし、自身の周りに飾られた花に目をやった。綺麗、と零すなまえの心根の優しい美しさが垣間見えた気がする。やはり、自分でなければ彼女を救うことは出来なかった。白井伝三郎の助力を得ることが出来た、自分でなくては。
「なまえ、実は伝えておきたいことがあるんだ」
「伝えておきたいこと……?」
「ああ、今日の俺は至って真面目だ。だから、茶化さずにちゃんと聞いて欲しい」
彼女が小さく頷くのを確認すると、軽く息を吸った。肺の隅々にまで染み込むように綺麗な空気を、胸いっぱいに吸い込む。そして、僅かに不純物を添えた息を吐く。呼吸でさえも喜びの一つに感じられる。この心臓を明け渡す覚悟は出来ていた。
「俺の恋人になってほしい」
シルクの水面に浮かぶ花を手に取り、彼女に差し出す。そう、いつだって彼女の為に差し出す覚悟は出来ていたのだ。そして、いつだって彼女がこの手を取ってくれると信じていたのだ。過信などではなく、揺らぐことのない絶対的自信。だからこそ、彼女の見せた反応に理解が追い付かなかった。まず彼女は物憂いげに目を伏せた。まるで何かに耐えているような表情で口を開く。
「ごめんなさい」
拒絶だった。なまえの言葉が鋭利な刃物となって、この胸を切り裂く。この現実は一体何だ。何故、自分は彼女に拒まれ、自らの命を絶ってしまいたい願望に駆られているのか。何故の二文字が頭の隅から隅まで埋め尽くしていく。本当に理解が追い付かなかった。いつまで経っても彼女の言葉を疑っては、思い通りにならなかった現実を恨む。
「俺じゃあ駄目なのか」
「ううん、そうじゃないの」
「なら、どうして」
「……そう言う気分じゃなくて、今はどうしても。ごめんなさい」
咄嗟に出た言葉の返事は優しいものではなかった。気分なんて曖昧なもののせいで、自分自身が受け入れられないだなんて許せなかった。手の内の花を握り締める。花びらが皺だらけになり、房からこぼれ落ちるほどに強く、強く握り締めていた。
「それじゃあ、納得出来ない。理由がよく分からないんだ」
「あのね、日野くんのことが嫌いだからじゃないの」
「それだけでもかなり救われるよ」
「……この学園で七人の生徒が行方不明になったって話、日野くんも知ってるでしょう」
彼女の明かした理由に日野は手が震えるのを感じていた。なまえの理由はこうだ。ここ最近で鳴神学園から七人もの生徒が行方不明になった。三年からは三人、二年、一年からは二人ずつ。この誰もが同時に姿を眩ましてしまったのだ。日野は他の誰よりもこの話について、よく知っている。何故なら、行方不明になった七人は自分と関係がある七人だからだ。だが、何故それが自身を拒む理由になるのかは依然として分からないままだ。なのに、虫唾が走るのは何故だ。腹立たしいとさえ感じているのは何故だ。
「その七人はね、私の大切な友達だったの」
万死に値するような、無価値なあの七人が?奴らは選ばれた人間じゃない、なまえとは住む世界が違うだろうに。本当はたまらなく嫌で、アイツらに無理やり友達という関係を押し付けられたんじゃないのか。本当は迷惑だったんじゃないのか。それを言い出せずに我慢を強いられていたんじゃないのか。飲み込む言葉の量が次第に増えていく。
「皆とはどういう関係だったんだ」
恨めしく縋る問いかけであるにも拘わらず、なまえは七人との関係性を臆することなく教えてくれた。新堂とは、校内で下級生に絡まれていた時に出会ったそうだ。なまえに好意を持った下級生が中々引き下がらず、困っていたところを新堂に助けてもらったのだと。風間とは、向こうが一方的に声をかけてきたことが出会いのきっかけだった。最初は驚きの方が勝っていたが、話してみたら意外とユニークな相手だと知り、そこから言葉を交わすようになった。岩下とは、演劇部の活動を通じて親しくなったそうだ。元々は何気なく見た演劇部の舞台に感動し、ファンレターを出したところからやり取りするようになったと。
それから一つ下の学年である荒井には突然な体調不良で廊下の端に座り込んでいたところを、保健室まで連れて行ってもらった。あの細田とは、トイレから出て来た彼が落としたハンカチを拾ってやった。更にもう一つ下の学年の福沢とは家が近所であることから、前から顔馴染みだった。坂上に関しては日野と一緒にいる時に紹介してもらった ────。奥歯を強く噛み締める。既に握り潰した花は手の内からこぼれ落ちていった。非常に腹立たしい。死者であっても殺してやりたいほどに、腸が煮えくり返って仕方がない。強く、殺意を抱く。アイツらのせいで俺は煮え湯を飲まされているのだと、酷く身勝手な怒りに身を任せている。けれど、表面的なところではいつもの自分であることを忘れなかった。
「私はみんながどこに行ってしまったのか、調べてるの」
「そうだったのか。なまえとあの七人は親しかったんだな」
「ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しいし、出来ればそうしたい気持ちもあるの」
でも、と歯切れが悪いなまえを責めているのではない。彼らも同様に排除すべき対象だったのだ。彼らの罪は本当の罪は、あの時に告げた罪ではなかった。身の程も弁えず、勝手に親切心を押し付け、勘違いも甚だしい妄執に囚われていたこと。親切心?友人?なんて、烏滸がましい馬鹿共だろうか。こんな事ならば、白井に大人しく引き渡すのではなく、死をもって償わせるべきだった。この手で息の根を止めてやるべきだった。
「ねえ、日野くん知らない?みんなが行方不明になる前日、理科実験室に行ってたって」
「いや、知らないな」
「きっと白井先生が何か知ってるはずなの。じゃなきゃ、みんな理科実験室になんて来ないもの」
「なまえ、落ち着け。落ち着くんだ」
「お願い、日野くんも力を貸し、……!」
全てを聞き終えるのは、拷問に等しかった。耳を塞ぎたい一心で咄嗟にそれを彼女に打ち込んでいたのだ。花を握り潰した手の内には注射器が一つ握られていた。そして、その注射器の針の先は彼女の腕に突き刺さっていた。中の薬液が彼女の体を回っていくのに時間はかからないだろう。
「な、何を打ったの……!?」
「すまないが、俺は力になってやれない」
「ひ、日野くん……!」
「なまえ。俺はさ、なまえの力になってやりたかったんだよ」
「何を言ってるの、それなら、どうして、」
「アイツらは、新堂達はもういない」
──── 新堂達は、死んじまったよ。ここで。
なまえは絶望の表情を浮かべる。何故かを問うより前に、強制的に意識を手放してしまい、なまえは再び白い水面に浮かんでいた。すっかり空になった注射器をトレーに戻すと、日野は糸が切れたように倒れ込んだなまえの隣に横たわる。
「新堂達は、俺が殺したんだ」
「……皮肉だな。俺が死ぬべきだと思っていた人間が、なまえにとって本当に大切な相手だったなんて」
「嬉しかったんだろう?声をかけてもらえて。友人になってもらえて」
眠りについたかのように横たわるオフィーリアの髪を撫でる。でもな、と耳打ちしたのは、次に彼女を待ち受ける現実の話だった。やっぱり俺にとって目障りなことには変わらない。だから、忘れよう。俺ももうアイツらのことは忘れる。だから、なまえも忘れてくれ。冷たい独白の全てをなまえは聞かずに意識を手放してしまった。日野が彼女に打ったのは、今までの記憶を抹消する薬だった。大脳側頭葉にある海馬と呼ばれる記憶にまつわる脳器官に大きく作用するものだと白井の説明にはあった。
しかし、どこまで作用するのは未知数だとも言っていた。欠落するのは短時間の記憶かもしれなければ、生まれてから今までといった長時間の記憶かもしれないと。それでも、日野にとっては救いだった。
「俺があの七人の代わりにお前を大切にするよ」
やはり、選ばれなかった者の命など軽いのだ。目の前に横たわる彼女よりも軽く、粗雑で薄っぺらなのだ。オフィーリア、やはり君は一度死んでくれ。深い記憶の水底に沈み、目覚めの時を待っていてくれ。その時を一人で待つ覚悟も、とうの昔に出来ているのだから。
| オフィーリアはまもなく |