それは廊下の先で見かけた小さな後ろ姿だった。丁度曲がり角の壁際に身を寄せ、曲がった先の様子を見ている人物が彼女であると気付くのに時間はかからなかった。やけに辺りを窺っていることから、またいつものあれだと口の端を持ち上げる。

「何してんだよ、こんなとこに突っ立って」

 後ろからそっと忍び寄り、声をかける。よほど熱心に周りを見回していたらしく、とても驚いていた様子で振り返る。声の主が新堂であることを知ると、大袈裟に胸を撫で下ろすような仕草をしていた。

「し、新堂くん、やめてよ、急に声かけるの。心臓に悪いよ」
「勝手に驚いてんのはお前だろうが」
「それはそうなんだけど」
「なんだよ、またアイツか?」
「うん」
「全く飽きないねえ、風間の野郎も」

 新堂の学年にはやたらと女生徒にちょっかいをかける人物がいる。時には後ろから抱き締められたり、時にはおかしな距離感で接してきたり、時にはそれ以上のことを迫ってきたり。なまえもその被害者の一人だった。新堂からしてみれば、そういう態度をしているから相手がつけ上がるのであって、毅然とした態度できっぱりと断る、迷惑だと告げるのが重要だと指摘した。

「それはそう、なんだけど、」
「そうやって甘やかすからダメなんだ」
「だって。風間くん、私のことじっと見つめてくるの。それを見てると断れなくて……」
「へえ?見つめられんのに弱いのか、みょうじは」

 一体風間がどのようにしてなまえを見つめているのかは分からないが、物は試しに新堂も口を噤み、なまえをじっと見た。突然、沈黙が訪れるものだから、なまえも訳が分からず動揺している。そして、自分を突き刺すような視線に晒され、余計に緊張していた。正直に言えば、怖いのだ。見た目、風貌も然ることながら、言動においてもどこらぶっきらぼうで近寄り難い。人を見た目で判断するつもりはない。勿論、接してみてイメージと違ったという経験は今までにも何度かあったほどだ。けれど、やはり怖いものは怖い。瞬きの一瞬などでは物足りない。本当は今すぐにでも目を逸らしてしまいたいのに。

「……ふっ、そんなマジになんなよ」

 新堂が先に空気を塗り替える。その僅かに漏れた笑みになまえは硬直していた体が少しずつ元に戻っていくようだった。心臓がバクバクと慌てふためいて脈打つ。安堵から胸元に手を置けば、相当だな、こりゃあ。とため息混じりの新堂の声が響いた。すると、新堂の背後。つまりは遠くの廊下に一人の男子生徒の姿が見えた。嫌な予感の再来、これから待ち受けるのは昨日までと同じ押し問答。どうしても甘やかしてしまう未来が見える。その足音は着実に自分達の方へと向かっている。なまえの切迫した表情に思うところがあったのか、新堂は腕を引っ張る形で曲がり角の先へとなまえを連れ込んだ。そして、


***


「……新堂じゃないか、こんなところで何をしてるんだい」
「よお。風間こそ、こんな何もねえところに来てどうすんだよ」
「僕には会わなくちゃいけない女の子がいるんでね、」
「へえ、モテ期でも来てんのか?うらやましいねえ」

 ところで、と風間が続けたかったのは、新堂の隣に見慣れぬシルエットがあったからだ。視線を下げれば、スカートから伸びる足にそこにいるのが女生徒であると見て取れる。だが、肝心の上半身、特に顔が見えない。丁度、顔があるであろう箇所にはぶかぶかのジャージで隠されているのだ。怪しい、誰がどう見たって怪しいのだ。その隣に平気な顔で突っ立っている新堂も怪しい。……が、新堂に対して言及する必要は無いだろうと、風間はぶかぶかのジャージに隠れる彼女に手を伸ばしてみた。

「おっと、悪ぃな」
「どうして新堂が庇うのさ」
「コイツ、ウチのマネージャーでよ」
「あんなむさ苦しいボクシング部に女の子のマネージャーなんていたのかい?」
「まあな。女の姿があるだけでやる気になる奴らも少なくねえんだよ。もっとも、そんな奴らは上辺だけで弱っちいんだけどな」
「ふうん。で、それとこれとどう関係があるって言うのさ」
「まあまあ、落ち着けって。それでコイツはヘマをやらかしたんだ」

 新堂曰く、ジャージで隠れた彼女は部室の掃除をしようとしていたそうだ。だが、モップ掛けの際に運んできた水を思い切りぶちまけて転倒したのだと。その為、あちこち水浸しで彼女自身もずぶ濡れになってしまったのだそう。濡れたままでは片付けもままならないと着替えを探せば、ジャージを持ってきておらず、仕方なく新堂のジャージを借りているらしい。

「でも、顔が見えなくなるまでジャージを被るものなのかい?」
「コイツはな、極度の人見知りなんだ。だから、知らねえ奴と面と向かうのが苦手なんだよ」
「……そりゃあ大変だ」
「ま、そう言うことだ。じゃあ、俺達は部室の後始末をしなくちゃなんないんでね、」

 再び腕を掴まれ、歩き出す。前が見えなかったのも少しの間だけで、風間と離れてからはジャージの隙間から顔を出すことが出来た。だぼついた袖で広い首周りの襟を下げ、新堂を見る。相変わらずニヤニヤとした笑みで時折、こちらに視線を逃がしている。助けてもらった事実があるが、何故か素直に喜べない。変に意識、してしまっている気がする。自分に被せられたジャージの不釣り合いな大きさが、余計に心臓の鼓動を早めていた。
 例えば、自分にとってはぶかぶかで着心地の悪いジャージでも、新堂が着たなら丁度いい大きさなのだろう。とか、鼻先を掠める柔らかい香りはこのジャージからするもので、新堂の家庭にまつわる一面を知ってしまった。など。今まで意識せずに済んだことを、意識させられている。本当に一度たりとも考えたことなんてなかったのに。やがて顔まで熱くなり始め、手が付けられない。出来ることなら、このまま家まで逃げ帰りたい気分だ。けれど、新堂は未だに手を離してくれない。もう充分だろうに。もうとっくに風間とは別れてしまっただろうに。

「暑いならさっさと脱げよ」
「ううん、そんなこと、」
「じゃあ、何で顔が赤いんだよ」
「そ、それは、」

 唇が顔の熱に溶けてくっついてしまったのかもしれない。それ程までに次の言葉が発せずにいたのだ。すると、何かを悟った新堂が後頭部を乱雑に掻き、帰るか。と呟いた。その呟きになまえは頷き、二人は昇降口へと歩いていく。助けられた気がした、二度も。だが、これでこのジャージを新堂に返すタイミングを完全に失ってしまった。しかし、長く身につけてしまったものを、洗わずに返すなんてことは出来るはずがなかった。これ、洗って返すね。と懸命に伝えれば、明日の二限目に使うぜ。と返され、言葉に詰まる。けれど、じゃあ、明日教室まで持って行くから。と告げると、新堂は数秒黙った後に、分かった。と手短に答えた。

「貸し、だな。ある意味」
「え……?」
「ジャージと風間から助けてやったこと」
「そうだね、うん。本当にありがとう」
「なあに、貸しは別の形で返してくれりゃあいい」
「た、例えば……?」

 そうだな、と考え込む新堂の姿は珍しいものだった。誰もがやるであろう、顎に手を添えて考え込む動き。新堂もそういう仕草をするのだと思うと、少しだけ緊張が解けた気がする。気がするだけで、まだ顔の赤みは引いてはいないのだが。

「今度、後輩とパフェ食いに行く予定があってな」
「ぱ、パフェ?新堂くんが?後輩と?」
「おい、こら。どういう意味だ、そりゃあ」
「ううん、へ、変な意味はないの……!意外だなって思って、」
「ふん、本当かよ?まあいい、どう思おうとみょうじの勝手だからな」
「ちょっと驚いただけだから」
「男二人でパフェ食ってても悪くねえが、それじゃあ華がねえ」

 新堂誠とパフェ。全くの似て非なるもの、類が友を呼ばなかったパターン、この世で相反するもの……と悪いイメージばかりが付きまとう。しかし、ぶっきらぼうに言ってのけた新堂を目の当たりにしては断り切れない。

「栗原が次に行きてえって言ってたのが、完全に女向けの店でよ」

 喫茶店やカフェならともかく、専門店と来たもんだ。俺も調べてはみたんだが、入りづらくて仕方ねえ。と口を尖らせる新堂に、僅かばかりの親近感を覚えたのはこの瞬間からだ。その後は通学路で互いに別れるまで、他愛もない話をし、新堂の意外な人当たりの良さに驚かされるばかりだった。そうして、鳴神学園パフェ同好会に新たな部員が増えたのは言うまでもない。



| ならいっそのこと、隣にいればいい |


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