ぼんやりとした帰り道。今日の仕事のことをまだ少し引きずって考えている帰路は殺風景だ。仕事は増減の激しいもので、今日は明日の自分に少し負担を掛けてしまいそうな出来栄えで切り上げてきた。結局は自分が積み重ねたものを自分で切り崩していくのだが、なんとなしに明日の自分に任せようと思うと気が楽になる。履きなれたヒール靴はカツカツとコンクリートを鳴らしていく。薄暗い住宅街の電柱と塀とひび割れた路面はあまり面白みがない。日々、自分の気付かないようなスピードで劣化していく風景に、今日も疲れたと小さなため息をつく。
なまえの住んでいる場所はこじんまりとしたアパートで、そこにはもうすぐ到着する。職場とは程々離れた距離にあり、毎日徒歩で通勤している。帰宅時における最後の難関はアパートの二階へ続く階段だ。なまえは今しがた階段の真下に到着し、これからその階段を上ろうとしている。あともうちょっと、と自分を、特に自分の足を励ましながら階段をしっかり一段一段上っていく。
二階の通路が見えてきた所で、何やら黒い塊のようなものが目に入った。それが猫やカラスなどではないことだけはすぐに分かった。正直関わりたくはないが、あの黒い塊の奥に自分の住処がある為に、例え恐ろしくともあの塊の前を通らなければならない。嫌だなあ、と心の中で愚痴をこぼし、階段を上り切ったなまえは意を決して塊の前を通ろうと足を進める。
ヒールの鳴る音と得体の知れぬ何かに近付いていく恐怖が相まって鼓動がうるさく感じられた。なんてことない、何にもない、ただ黒い何かがそこにあるだけ、と一人恐怖に折れてしまいそうな気持ちを誤魔化していると、不意に黒い塊の正体を知る。
「……え、人?」
その黒い塊は驚いたなまえの声にピクリと反応を示した。その人影は同化した暗闇の中からこちらをじっと見つめている。射抜くような視線になまえはその場から動くことが出来なかった。黒い塊は襲いかかることも、動くこともせず、ただ黙って鋭い視線を送っているだけだけでようやく口を開いたかと思えば、……行け。となまえにこの場から離れるように促した。まるで金縛りにあったかのように動けなかった体の自由が許されると、一目散に黒い塊の正面をすり抜けて自室のある扉の前まで駆けて行った。
玄関扉のノブに触れた途端に安堵する自分がいる。あの黒い塊は、あの男は一体何者だったのだろう。何故、こんなアパートの通路の影に隠れているのか。いや、自分には関係のないことだと家の中に避難し、薄暗い玄関の明かりをつければ、見慣れた自分の部屋にどっと安堵のため息が漏れる。履きっぱなしのヒールの踵に指を滑らせ、足先から靴を取り外すと妙なものが靴底に付着していることに気付いた。べったりと付着したそれは赤く、ぽたぽたと下に落ちては玄関のタイルに赤い点を作る。もしかして、と恐ろしい想像が脳裏に浮かんだ時、なまえは再び家を飛び出し、先程の黒い塊があった場所へと戻っていた。
黒い塊、否、黒い服装の彼は今もまだそこに腰を落ち着け、煙草を吸っている。こちらを見る眼差しはやはり普通のものとは違い、目の奥を刺すように鋭い。男は表情を一ミリも変えず、煙草の煙だけを吐き出したまま静止している。
「……あの、ここで何、してるんですか、」
「それを答えたところで何になる?」
「場合によっては、救急車を呼ばなくちゃいけなくなります」
「救急車?何故?」
「あの、怪我してるんじゃありませんか」
怪我?と僅かに驚いた表情の後、男は自分の腹部を触り、手のひらを濡らす赤を見つめては、……ああ。と呟く。しかし、そこで男は自己完結させてしまい、なまえの問いを最後に会話は途絶えてしまった。異様な静寂の中で男は相変わらず涼しい顔で煙草を吸い、異常を察した女はどうしようかと次を決めかねている。
「もし仮に私が怪我をしていたとして、君は本当に私を助けよう……なんて思っているのかい」
「い、いけませんか……?」
「なら、確かめてみればいい。自分の目で、この血が私のものかどうか、確かめてみればいい」
男はまだ半分も残っている煙草の火を消すと、暗闇の中に放り投げ、静かに立ち上がった。通路の隅に縮こまっていた彼の背は予想以上に高く、すらりと伸びた足や腕の長さに驚きを隠せない。自然と後退りをすれば、下がった分だけ男はこちらへと近付き、二人の距離は一定感覚を保ったまま、いや、少しずつその距離は縮まっていた。ぺた、ぺたと自分の足音を聞きながら思う、さっきまで履いていた靴は玄関に置いてきてしまったのだと。
「見たところ、君は裸足だ。君が履いていた靴はどこに行ったんだい?」
返事をするよりも先に男は自分の正面に立っていた。不敵な笑みを浮かべ、自分を見下ろしている。何を考え、何をしようとしているのか分からない男を相手に、なまえは中途半端に開いていた扉のドアノブに触れた。
「その方がいい。男女二人がこんな薄暗がりで何かをしていれば、勘違いされてしまう」
さあ、中に入れてくれないか。大事な話がある。とドアノブを掴んだままの手に自分のそれを重ね、そのままぐいっと手前に引っ張った。暖色の照明の光が薄暗がりに漏れ、自分と男の間を遮る。いいかな、お邪魔しても。と部屋の主である自分より先に部屋に上がった男に手を引かれ、なまえは得体の知れない相手に自分の部屋の勝手を許してしまった。
「立ち話もなんだから……、まずは座ろう」
「あなたは……?」
「私は招かれざる客だ。君の部屋のどこにも私が座っていい場所などない」
そうだろう?と促され、なまえは一人玄関マットに腰掛けると、男はその場にしゃがみこみ、さて、本題に入ろうか。と汚れたタイルの上に転がっているヒール靴を一つ手に取った。そして靴の裏側にある赤黒い染みを見て、男は話を続ける。
「君はこの血を見て、私が怪我をしているんじゃないかと思った」
「……はい。私があなたの近くを通った時、ナイフみたいなものがなかったから、襲われたんじゃないかって」
「なるほど。確かに私は刃物を持っていない。なら、君がそう考えるのも無理はないだろう」
「それじゃあ、やっぱり、」
「しかし、答えはノーだ。この血は私のものではない。この血は私が襲った人間の血だ」
男の言い放った言葉になまえは自分の耳を疑った。目の前で靴に指をかけてぷらぷらと弄んでいるような男が、飄々としたこの男が誰かを襲い、その血液を滴らせながらあの通路で煙草を吹かしていたなんて信じられない。本当に誰かを襲ったと言うのなら、犯行現場からはすぐに逃げるはずだ。いや、もしかしたら、ここが彼にとっての逃げ切った先なのだろうか。この話を聞いてから内心、冷や汗が止まらない。声をかけてはいけない類の人間に声をかけてしまった。しかし、男は先程から微笑みを浮かべては時折こちらの様子を窺っているようだった。
「それじゃあ、答え合わせだ」
男は散々弄んでいた靴を踵を揃えて端に並べ、狭い空間の中で立ち上がると、何の前置きもなく着ていた服を脱ぎ捨てた。男の突発的な行動にも驚かされたが、男の話が真実であるとその肉体をもって証明されてしまったのが何よりも衝撃的だった。脂肪のない引き締まった上半身のどこにも傷口はなく、無傷という事実を見せつけられ、なまえは靴の裏にべったりと付着した血を思い出し、一人戦慄していた。数分前の自分を悔やんでも遅すぎる。この後に待ち受けるのは恐怖か、それとも。
「信じてもらえたかな」
「……ええ、」
「なら、次はどうしようか」
「あの、質問しても……?」
「構わない」
「あ、あなたは、声をかけた私を襲いますか……?」
なまえの問いに男はきょとんとした顔を見せた。え……?と驚いている男の表情につられて硬直していた表情筋が緩む。目の前にいる男は人を襲い、返り血すら気にしないような人間だ。そこまで分かっているのに、何故この男の人間らしい表情を見て安心しているのだろう。恐怖が感情を麻痺させている。そしてこの質問はとても重要な質問だ。
「何故、私が君を襲うんだ?」
「え?それは、その、私はあなたを見つけてしまったから、」
「確かにそうだが、君は善意で私に声をかけたのだろう?なら、どうして私が君を痛めつける必要があるんだ?」
男の大きな手が素足に触れ、疲れを労わるかのように足の甲を指の腹で撫でている。奇妙な光景だった。返り血が滴るほどに相手を痛めつける行為は彼がいかに残酷かを物語っている。それなのにこの男は自分には秘めた凶暴さを露呈させることなく、至極真っ当なことを言ってのけた。彼の行動と言動、そして印象のちぐはぐさに頭は混乱する。
「君は本当に私を心配をしてくれていた。それはここに置き去りにされたハイヒールが教えてくれる。自分が裸足だということを忘れてまで、私の元へやって来た。君は良い人だ」
「……あなたは、一体誰なんです、」
「私は、」
見ての通り怖い男さ。と男は端正な顔をくしゃっと歪ませて笑う。ここで初めてなまえは恐怖や緊張を忘れ、男の前で笑顔を見せた。おかしかった、男が笑いかけてくれたことも、おどけてみせたことも。一通り笑い終えたところで、なまえは別れの気配を察していた。彼が脱いだ上着を着直していたからだ。たった数分しか過ごしていない彼との別れを惜しむ自分がいたが、あまり深く関わってはいけないと口を噤む。
「良い時間だった、君の勇気ある行動に感謝する」
呼び止める選択肢のない腕は膝の上に置かれたままで、さよならと告げれば、ぎこちないサヨナラが返ってきた。そしてこの狭苦しい空間から男の姿は消えた。何事も無かったかのように扉から出て行った彼をその場で見送り、またため息を一つ。疲れた、本当に疲れた。と吐き出せば、今まで忘れていた疲れがどっとのしかかってきた。
***
今日もまたぼんやりとした帰り道。今日の仕事の具合は程々に良い。あの日からアパートの通路で怪しげな影を見ることはなくなった。何だったのだろう、あの出会いは。今思い出しても、よく出会えたものだと不思議なほどに。あの時に履いていたハイヒールは裏側の血を落とし、今日の相棒として一緒に歩いている。暗い帰り道、まるで野良猫を探している素振りで人影を探す。もうそろそろこの習慣をやめようと思っていた矢先。
「オカエリ。夜道は一人じゃ危険だ」
誰を指しているのか分からない声が通りに響いた。辺りに自分以外の人間は居ない。つまり、この声は自分に向けられていると、声が聞こえてきた方を見れば。
「例えば、そう……。うっかり怖い男に出会ってしまう、なんてことも有り得る」
「怖い男……?それはあまり嬉しくないですね、」
「同感だ。私も今はそんな相手に会いたくない」
「いるんですか?あなた以外に人の血を浴びて平然としていられるような人」
「君が知らないだけでそんな人間はウジャウジャといる」
「聞かなきゃよかったです」
いつの間にか隣に立っていた男はこの間の『怖い男』だった。手には大きな紙袋をぶら下げており、男の黒一色の服装には馴染めていない。ガサガサと袋の擦れる音と二つに増えた足音を聞きながら、二人は歩いていく。一人は帰路を、もう一人は行先を告げずに。
「君に一つ謝っておきたいことがある」
「なにかありましたっけ、」
「あの日のことだ」
「あれは私の一方的な勘違いでしたから」
「私のせいで君の靴を汚してしまった」
「靴なんて汚れるものじゃないですか」
「受け取って欲しい」
端的な会話の後は静寂が訪れる。こっそりと男の方に視線を向ければ、既にこちらを捉える瞳があり、急いで引き返す。受け取って欲しい、とは彼が手にしている紙袋のことだろう。本当にいいのになあ、と遠慮がちにもう一度彼を見た。そこに彼の視線はなく、今度はぶら下げていた紙袋を大切そうに抱えている。
「実はあの時、君の靴を見させてもらった。ブランド、サイズ、他に並べてあった靴の色や形から君の好きそうなものを選んだつもりだ」
彼からの贈り物を受け取るかどうかを考えていると、受け取ってから決めればいい。履くも突き返すも君の自由だ。と男が一言添えてくれたおかげで断る理由が見つけられなかった。改めて感謝を伝えようとして気付く。それを訊ねれば、意外というような顔をした数分後に彼は自分の名前を口にした。そして自分も名を伝え、互いの名を確認するようにたった一度呼び合う。
「ドイル、さん」
「なまえ」
奇妙な瞬間だった。名を唱えた瞬間、初めて互いが隣に立っているのだと理解した。何も知らなければ他人で終わる関係の相手が、今この時をもって他人ではなくなった。だが、出来たばかりの繋がりは何と呼ぶべきか。顔見知り、知り合い、友人、そのどれにも上手くあてはまらない。だが、強いて言うならば、ひとつ屋根の下で秘密を明かし、明かされた相手だろう。
「さあ、帰ろう。夜道は危ない」
「お家に着いたら早速、開けてみてもいいですか」
「ああ、かまわない。君のためのプレゼントだ」
気恥ずかしくなってしまう言葉選びになまえは視線を道の外に投げた。頬が熱くなる理由は二つ。自分の為だと言ってプレゼントをくれた彼に、そしてまるで一緒に帰るかのように帰路を共にしてくれている彼に。あなたは本当に怖い男なんですか、と聞いてみたかったが、すっかり真っ赤に照れてしまった心が素直になれるはずもなく、また今度と後回しにされてしまったのである。
| 夜道の邂逅 |