どん、と体に伝わる衝撃に何かがぶつかったのだと知る。外していた視線を目の前に戻せば、酷く怯えた顔でこちらを見上げている女子の姿があった。目をぱちくりとさせ、狼狽えているのか、口元はわなわなと震えている。今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ており、咄嗟にまずいと思ったのだが。今回は手よりも先に口を突くものがあった。
「んだよ、いってえな」
ある意味、彼女にとってはとどめの一言だっただろう。恐らく彼女自身に悪気はなかった、はずだ。胸元の青いリボンは自分と彼女が同学年であることを告げている。もう取り返しがつかないと、もう一度彼女を見れば。それは小さく、とても小さな声で、ごめんなさい。と聞こえてきた。
「いいから、拾えよ」
彼女は涙目で足元に私物である教科書やらノートやらをぶちまけて謝っていた。これ以上、罪悪感が加速してしまう前に拾った方がいいと教えたつもりだったのだが。
「は、はい……」
まるで強要しているかのような雰囲気だった。何もおかしなことはないのに、まるで自分の落とした物を彼女に拾わせていると錯覚させる程、いたたまれない空気が流れていたのだ。周りの目が突き刺さる。やけに気の毒そうな視線だけこちらに向けて、居心地の悪い表情で彼女が物を拾うのを見守っている。そんなに気に食わねえなら、拾うのを手伝ってやりゃあいいのに。と内心悪態をつく。結局のところは彼女を哀れみたいだけなのだ。自然と舌打ちが溢れる。
「さっさと拾えよ」
「……うん」
助けもしないくせに哀れみだけは人並みに向けて差し上げる、そんな周囲の人間が反吐が出るほどに嫌いだ。哀れむ暇があるなら、助けてやればいいだろうに。後から遅れて同じように屈み込み、彼女が散らかした物を一つずつ拾っていく。勿論、ぶつかったのは彼女だ。けれど、まともに前を見ずに歩いていた自分だって悪い。そんなのは子供でも分かることだ。ノートや下敷きの埃を叩いて落とす。時折、同じ目線であるせいか、彼女と目が合うことがあった。しかし、まだ怖がっているようでそれはすぐに逸れる。
廊下に散らばった物を全て拾い終えると、彼女に押し付けるようにして手渡した。いつまでもこんな胸糞悪い場所にいられない。悪ぃ。と手短に告げると、……ありがとう。拾ってくれて。とやはり小さな声で聞こえてきた。虫の鳴くような声なのに、どこか嬉しそうに感じられ。おう、と弱気な返事に彼女はまだおどおどとした視線のまま、近くの教室へと戻って行った。その時、最後に見えたのは教室に戻る間際の、前髪から覗く嬉しそうな瞳だった。
彼女が居なくなってしまえば、周りももうこれ以上ひそひそと陰口を叩くことはない。いつの間にか廊下に一人取り残され、先程までに感じた気分の悪さからその場を離れようとした時。不意に柔らかなものを踏みつけたような感触がした。何かと足元を見てみれば、そこには一枚のハンカチが落ちていた。自分も彼女も急いでいたせいか、このハンカチを見逃してしまった。そして、たった今、自分の上履きがそれを踏みつけてしまった。恐らく、彼女のものだろう。流石にこのまま彼女にハンカチを渡す訳にはいかないと、酷く柔らかな感触が心地良いハンカチを制服のポケットに強く突っ込み、自分のクラスへと戻って行った。
***
再び、好奇と畏怖の目に晒される。今度は自分が彼女の教室を訪ね、窓際の日差しが気持ちのいい彼女の机の前に佇む。彼女は手にしていた本から目を離し、こちらを見上げている。
「おい、話あんだけど」
「う、うん。わかった、」
いつまでも見世物になるつもりはない。前よりかは落ち着いている彼女を引き連れ、教室を後にする。教室では人が多すぎる。そして、人の目がある場所でハンカチを渡そうとは到底思えなかった。下手したら、迷惑な妄想に耽る馬鹿がいるかもしれない。そんなことをされては迷惑なのだ。自分にとっても、彼女にとっても。しかし、彼女もどうして自分に素直についてきているのだろう。嫌なら嫌だと言えばいいだろうに。それとも、言えない理由でもあるのだろうか。
「ね、ねえ」
「あ?」
「えっと、星野くん……だよね?」
「だから、なんだよ」
「前に星野くんの噂、聞いたことあって」
「どうせ、ろくでもねえ噂だろ」
「うん」
自分の何気ない相槌にはっきりと返事して見せた彼女に、内心驚いていた。今まで頼りない雰囲気の話し方をしていたくせに、途端きっぱりと言い切ったのだ。ここで驚かずして、一体どこで驚けと言うのか。それからは何故か黙り込んでしまい、人気のない廊下には二人の乾いた足音が響くばかりだ。自分も人目のないところまで行ってから、あのハンカチを渡してさっさとずらかる予定だった。しかし、寡黙でいることが裏目に出てしまい、気付けば部室棟まで来てしまった。もう授業開始のチャイムも鳴ってしまい、彼女の方を盗み見れば、一体どこまで行くのだろう?という不安が見て取れた。それとなしに足を止める。
「あ〜、まあ、なんだ、」
「え?」
「まあ、ここまで来りゃあ邪魔されねーだろ」
「それって……」
乱暴に押し付けるように手渡す。いつもこのやり方しか出来ないのは不器用が過ぎると自覚出来るほどに酷かった。小ぶりな花の刺繍があしらわれたハンカチに、彼女は顔を綻ばせて喜んでいた。
「これ、星野くんが見つけてくれたの?」
「じゃなきゃ、お前に渡してねぇよ」
「ありがとう。これ、お母さんからもらった大切なものなの」
お母さん、その言葉に甦る過去がある。一瞬でそれは飲み込んでしまったが、あまり褒められた出来事ではない。まるで呪いのようにこびり付いて離れない過去だ。自分の表情が自然と曇っていたのか、彼女は心配そうな面持ちで自分を見ていた。面倒くさいことになる前に、さっさと別れてしまおうとした時だった。
「おい、お前ら!そこで何してるんだ!」
突然聞こえてきた不機嫌な声に、彼女は真っ先に顔を曇らせる。自分はと言えば、声の飛んで来た方に目をくれてやった。誰もいないと思っていた部室棟の廊下に教師の姿があった。ものの数秒で沸点に到達する。が、彼女のことを思い出すと一気に冷静に戻されてしまった。自分一人なら上手いことやり過ごせる。しかし、普通の生徒である彼女がいるとなれば、話は別だ。いかに彼女が自分と無関係であるかを証明する方法なんて知らなかった。今までは自分一人だけやり過ごせれば良かったのだから。
「お前、星野か。みょうじを連れてどこに行くつもりだ」
「あ?別にどこにも行かねえよ」
「とっくに授業のチャイムは鳴ってるんだぞ」
「勝手にやってりゃあいいだろうが」
「お前はそれで構わないだろうが、みょうじが嫌がってるのが分からないのか?」
そうだろ、みょうじ。と声をかけられた彼女は動揺して声を出せなかった。いきなり過ぎたのだ、面食らってしまって声が出せない。自分には彼女の行動からある程度の感情が読めていた。しかし、きちんとした返事がなかったのを良いことに、教師は勝手な解釈で話を進めていた。
「ほら、見ろ。みょうじはお前を怖がってるんだ」
「は?コイツは何も言ってねぇのに、お前に何がわかんだよ」
「お前なあ……!いい加減にしないと……!」
「ち、違うんです!」
自分と教師の間に割って入る形でみょうじは声を上げた。切羽詰まった表情で自分達を見つめている。教師は未だに都合のいい解釈を押し付けようと必死になっていた。反対に自分は彼女が次を続けるまで黙っていた。
「……違うんです、星野くんは」
「何が違うんだ、言ってみろ」
「星野くんは、」
みょうじは渡されたハンカチを強く握り締めて、こう答えた。その答えに自分の耳を疑っていたのは、この偏屈な教師も同じだった。
「私を助けてくれたんです」
「そ、それはどういう意味なんだ、」
教師の問いにみょうじは、自分が彼女の落としたコンタクトレンズを探してくれたという話をして聞かせていた。昨日、部室に置き去りにしてしまったハンカチを取りに部室棟までやって来たものの、ハンカチを回収した直後にチャイムが鳴り、慌てて部室を飛び出した勢いでつまづいてしまい、廊下で転倒したのだと。その際、片目のコンタクトレンズが取れてしまい、偶然通りかかった自分が彼女の手伝いをしてくれたのだと。
教師はみょうじの話を神妙な顔で聞いていた。恐らく完全には納得出来ていないのだろう。けれど、みょうじの懸命な答えを疑う訳にもいかない。そういう意味ではみょうじに助けられたのだ。相変わらず自分を見る目は厳しいそれで、彼女に探し物について訊ねていた。一刻も早く、この面倒事から離れたいのだろう。
「それでコンタクトは見つかったのか」
「はい。さっき、星野くんが見つけてくれました」
「探し物が見つかったんなら、さっさと教室に戻りなさい」
「最初からどこにも行く気ねえって言ってただろうが」
「……いいか、すぐに自分の教室に戻るんだぞ」
「先生、ご迷惑かけてすみませんでした」
彼女がわざわざ頭を下げると、バツが悪そうに教師は元来た廊下を戻って行った。ようやく災難が去り、大袈裟にぼやく。ため息もついた。あの教師の威圧的で勝手に物事を決め付ける態度が気に食わない。本当なら一発くらいぶん殴ってやれば気が晴れるのだが、勇気ある彼女の行動に大目に見てやることにする。
「よくあんな嘘、咄嗟に言えたよな」
「だ、だって、星野くんのこと、」
「……悪く言ってたからか?」
「うん……」
「いいんだよ、先公ってのは馬鹿ばっかだからな。まともに話も聞けねえんだからよ」
「……ごめん、迷惑じゃなかった?」
未だに彼女はハンカチを握り締めている。初めてのことでまだ気が動転しているのだと知り、その手を掴む。
「いいのかよ、大切なハンカチだろ」
「う、うん。そうだね」
「母ちゃんから貰ったものなら、そんなに強く握り締めんなよ」
「ごめん、ありがと」
自分の言葉に彼女も強ばった手の力を抜いていく。酷い皺になる前にハンカチをしまってほしかったのだ。彼女はそれから少ししてハンカチを制服のポケットにしまうと、今度は腕に巻いてある時計に目を落とした。一緒に覗き見ると、授業が始まって既に二十分は経とうとしていた。
「で、お前は教室に戻んのか?」
「どうしようかな。星野くんは?」
「聞かなくても分かんだろ。俺は戻る気はねえ」
まさに不良らしい一言だ。彼女が腕時計に目を落としている間に、懐から携帯を取り出して電源を入れる。すると、ロック画面上にいくつかのメッセージが表示されていた。それは同じクラスの吉川という奴からで、内容は今どこにいるのかという淡々としたものだった。複数あるメッセージの内の一つに返信しようと、メッセージアプリを起動させる。そして、先程起こったことを何とかぼやかしながら、適当な言葉を並べていると。
「星野くんはこの後、どうするの」
「俺は吉川んとこに合流する。アイツ、今屋上で暇してるってよ」
「よ、吉川くん?星野くんのお友達、かな」
「ダチっつうか、なんつうか」
「そうなんだ、うん、そっか」
手持ち無沙汰な手で彼女は自分の手を握っていた。本当は他にしたいことがあるけれど、中々言い出せない姿にまどろっこしさが付きまとう。だからこそ、なのか、そのまどろっこしい姿に苛立ちが募る。
「どうしてえんだよ、みょうじは」
「あ、あのね、」
「言いてえことがあんならはっきり言えよ」
「あの、……わ、わたしね、」
「あ?」
「もう少し、星野くんとお話したくて」
は?という簡素な疑問が濁流となって脳裏に押し寄せる。今まで様々な局面に立たされることはあれど、その全てが修羅場だった。しかし、この状況は初めてのことだ。一緒に?何故?女子が何故、自分と話したいと言っている?また教師にでも見つかれば、彼女の素行だとか成績だとかに響くだろうに。
「……お前、本気で言ってんのかよ」
「うん」
「俺がこう言うのもなんだけど、やめとけって」
「どうして?星野くんが、その、不良だから……?」
「さっきの先公の態度見ただろ?お前だって、ああいう扱いされるようになるんだぜ」
不服そうな顔をしていた。彼女の喜怒哀楽に触れるのは今日が初めてのことだったが、彼女が、みょうじがこんなにも感情の豊かな人間だとは思わなかった。始まりが、あの怯えた目だったからかもしれない。自分を庇ってくれたことに対して、それなりの感謝はある。けれど、今後彼女の学園生活に悪影響が及ばないようにしたいとも思っている。だからこそ、あまり深く付き合わない方がいいと思ったのだ。それなのに、彼女は今とても不服そうな顔をして、足元を見つめている。
「わたし、初めは噂のことを気にして、星野くんが怖い人だと思ってた」
でも、と続けてこぼす彼女の懸命さに気恥ずかしさを覚える。どうして、懸命さを露呈させるのだろう。
「でも、そうじゃなかった。だから、もう少しだけ星野くんのことが知りたい」
伸びた前髪の隙間から寂しげな瞳がこちらを見た。そんな顔をされてしまっては、これ以上突き放せなくなると文句を言いたくなった。けれど、それを伝えることはしなかった。
「だったら、放課後にしろ」
「放課後……?」
「その時間帯ならうるせえ奴らもいねぇ。それでいいだろ」
「う、うん」
寂しさがいたたまれなくて、懸命さが気恥ずかしくて、望まれたのが心地よくて、ついそう言ってしまった。小さく舌打ち、何のイラつきか分からず頭をかく。そうだ、吉川。吉川に聞いてみればいい。この胸の奥に渦巻く激情なるこれは一体何なのか。ああ、そうだ。もうとっくに始業のチャイムが鳴っていたのだった。もう長居は出来ないと彼女を連れ、部室棟を後にする。再び、静寂。しかし、今度の静寂に嫌な気まずさはない。二人の歩く音、まるでこの世に自分達以外の人間が居なくなってしまったような、錯覚に陥ってしまいそうだった。
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